小説「大菩薩峠」の「他生の巻」第1章において盲目の僧弁信が独白で「日蓮上人」を礼讃し、第22章では武士で漂泊の画家である田山白雲が「日蓮上人」の著した開目鈔や撰時鈔などの一次資料にもとづいてその思想を論じ、駒井甚三郎は日蓮とキリストとの類比を云う。
他生の巻1:
…「鳥と虫とは鳴けども涙落ちず、日蓮は泣かねど涙ひまなし……と日蓮上人が仰せになりました」
弁信法師がこういって、見えない眼をしばたたいたのは、物に感じて、また例のお喋りを禁ずることができなくなったものでしょう。
「鳥と虫とは鳴けども涙落ちず、日蓮は泣かねど涙ひまなし……と日蓮上人が仰せになりましたのは……」
弁信法師は、地上の虫が咽ぶように咽び出して、
「現在の大難を思うも涙、後生の成仏を思うてよろこぶにも涙こぼるるなり、鳥と虫とは鳴けども涙落ちず、日蓮は泣かねど涙ひまなし……と御遺文のうちから、私が清澄におります時に、朋輩から教えられたのを覚えているのでございます」
といって、あらぬ方に向き直って、いつもするように、誰をあてにともない申しわけ…
…「日蓮上人は、安房の国、小湊の浜でお生れになりました。こういう山国とちがいまして、あちらは海の国でございます、大洋の波が朝な夕なに岸を打っては吼えているのでございます……小湊へおいでになった方も多いでございましょうが、あの波の音をお聞きになりましたか……今も波の音が南無妙法蓮華経と響いて聞えるのが不思議でございます、それは日蓮様がお生れになる以前から、やはり南無妙法蓮華経と響いていたのでございましょう……海の波がしらは獅子の鬣のようだと、人様が申しましたが、私共が聞きますと、大洋の波の音は、獅子の吼える音とおなじなのでございます」
虫の鳴く音から誘われた弁信の耳には、東夷東条安房の国、海辺の怒濤の響が湧き起ったようです。
他生の巻22:
…田山白雲は暫くして、昂奮から醒めたように冷静になって、
「日蓮の遺文集を読み出したのは、小湊滞在中の記念です。私はその十日の間に、日蓮の遺文全部を読みました。片田舎の子供が初めて海を見て、水が生きてる! といったように、人間が生きている! と腹のドン底から動かされたのは、その時です」
と言って白雲は、また行李の中をさぐって、別に一小冊子をとりだしつつ、
「駒井さん、あなたは日蓮をお読みになりましたか。日蓮をお読みになるならば、直接にその遺文集を読まなければなりません、後人の書いた伝記、注釈、すべて無用です。また騒々しいお会式の太鼓の雑音の中で、凡僧の説教や、演劇の舞台や、土佐まがいのまずい絵巻物の中から、日蓮上人を見てはいけません。私が泊っていたところの居士が、私に日蓮上人の遺文集全部を貸してくれたものですから、幸いにそこで私は、生ける日蓮にお目にかかるの機縁を得たことを、感謝せずにはおられません」
「それは非常によいことです」
駒井がそこへ言葉を挟んでいうことには、
「おそらく、あなたの今度の収穫中、それが第一のものでしょう。私もまだ日蓮の概念を知って、内容を知らないものです、あなたの日蓮観をお聞かせ下さい」
「よろしうございます。私は、ほとんど幾晩も徹夜して、この通り遺文集全部の中から書き抜いて持っております、日蓮を説明するにはやはり日蓮自身をして説明せしむるよりよきはなかろうと思います」
白雲の取り出した小さな本は、今度のは絵ではありません。よき根気を以て書いた細字の、数百枚をとじた小本でありました。
「幸いに、拙者を泊めてくれた居士は、まだ世間に流布されていない秘本をずいぶん持っていましたからね……『日蓮ハ日本国東夷東条安房ノ国海辺ノ旃陀羅ガ子ナリ』これは佐渡御勘気鈔という本のうちにあるのです。『イカニ況ヤ、日蓮今生ニハ貧窮下賤ノ者ト生レ旃陀羅ガ家ヨリ出タリ。心コソ少シ法華経ヲ信ジタル様ナレドモ、身ハ人身ニ似テ畜身ナリ……』と、これが日蓮自身の名乗りなのです。この名乗りを真向にかざして、一世を敵にして戦いをいどみました。日本という国は、幸か不幸か系図を貴ぶ国柄で、たとえば征夷大将軍になるには、どうしても源氏の系統をこしらえなければならず、たまたま土民の中、乞丐の間から木下藤吉郎のような大物が生れ出でても、その系図の粉飾には苦心惨憺したものです。人間をかざるものが主となって、人間そのものが従になるのです。ですから後光と肩書があって初めて人間が光るので、人間そのものの本質を、泥土の中から光らせるという本当の人間がありません……そこへ行くと日蓮は巨人です、日蓮にもったいらしい系図書をくっつけたのは、みな後人の仕事で、日蓮自身の遺文のどこを読んでみても、おれの先祖は誰々だと誇張したところは一カ所もないのです。私は、小湊、荒海、天津、妙の浦あたりの浜辺に遊んでいる真黒なはなたらしの漁師の子供を見るたびに、聖日蓮ここにありと、いくたび感激の涙をこぼしたか知れません。万代不朽の精神界の仕事をする人にとっては、徹底的の卑賤の出身が、どのくらい幸福であるか知れないということを、特に日蓮において私は衷心にきざまれました……徹底的のところには、すべての人間相が少しも姿を隠さずに眼前に現われて来ます、誰も荒海の漁師の子に阿媚と諂佞を捧げるものはありません、真実は真実として、虚偽は虚偽として、人間相そのままが人間を教育してくれるのです」
そこへ金椎が日本のお茶を持って来ました。
お茶を置いて金椎が丁寧なお辞儀をして出て行ってしまうと、駒井甚三郎はそのお茶を白雲にすすめ、自分もすすって、
「今の少年が、あれで熱心な切支丹の信者なのです、イエス・キリストの……」
と言いますと、
「ははあ」
熱している面をさましながら白雲は、気のあるような、ないような返事。
「あれの語るところによると、イエス・キリストも、また、微賤なる大工の子の出身だといっています、そうしてキリストが、世界の歴史を両分し、人間の心を支配しているのだというようなことをいっています」
「ははあ」
白雲は再び、気のあるような、ないような返事でしたが、急に思い立ったように、
「そうです、そうです。私はキリストのことをよく知りませんけれど、なんにしても西洋の数千年来の文明を指導して来たのですから、そのくらいの抱負はありましょう。日蓮も言っています、『我レ日本ノ柱トナラム。我レ日本ノ眼目トナラム。我レ日本ノ大船トナラム――』これは開目鈔のうちにあります。『日蓮ハ日本国ノ棟梁ナリ、予ヲ失フハ日本国ノ柱幢ヲ倒スナリ――』これは撰時鈔――」
白雲は再び小冊子をくりひろげて、いちいち書抜きを指点しながら、
「ともかく、こういう真実性を持った巨人が現われて来ますと、凡俗は驚きますよ。人間が生きている! というわれわれの無邪気なる驚異で済まされないのは、その立場をおびやかされやしないかという小人ばらの恐怖です。多年、糊で固めておいた自分たちの立場が、この巨人のために一息で吹き飛ばされては大変だ。そこで狼狽がはじまります、そこで小人が巨人を殺しにかかります」
「どうも困りものですね、巨人も小人も共に生きてゆくわけにはゆきませんか」
駒井が浩嘆すると白雲が、
「それをするには巨人が韜晦して隠れるよりほかはありません……ところが日蓮においてはそれが反対で、巨人自身があくまで戦闘的に出でたのですからね、たまりません……しかし、この巨人は秀吉のように家康のように武力を持っているわけでもなんでもなく、前に申す通り旃陀羅の子ですからな、ほんとうに素裸です。しかるに敵はあらゆる武器を利用することができます」
といって白雲はお茶を飲みました。そうして嘯くように気を吐いて、外をながめると、ちょうど窓の開いてあったところから、かぎりもない外洋の一部が眼に入って、そこから心地よい海の風の吹いて来るのを感じました。
「これは日蓮自身もいっています――世には王に悪まるれば民に悪まれない、僧に悪まれる時は俗に味方がある、男に悪まれても女には好まれ、愚痴の人が悪めば智人が愛するといったふうに、どちらかに味方があるものだが、日蓮のように、すべて悪まれる者は、前代未聞にして後代にあるべしともおぼえず……生年三十二より今年五十四に至るまで、二十余年の間、或いは寺を追い出され、或いは所を追われ、或いは親類を煩わされ、或いは夜打ちにあい、或いは合戦にあい或いは悪口
かずを知らず、或いは打たれ、或いは手を負う、或いは弟子を殺され、或いは首を切られんとし、或いは流罪
両度に及べり、二十余年が間、一時片時も心安き事なし――『日本国ハ皆日蓮ガ敵トナルベシ――恐レテ是ヲ云ハズンバ、地獄ニ落チテ閻魔
ノ責ヲバ如何
セン――』これですから堪りません、悪
まれます――しかし、駒井さん、薄っぺらの雷同の人気取りの、おたいこ持ちの日和見
の風吹き次第の小股すくいの、あやつりの、小人雑輩の紛々
擾々
たる中へ、これだけの悪まれ者を産み出した安房の国の海は光栄です。今でも小湊の浜辺に立ってごらんなさい、われは日本の柱なりという声を聞かずにおられませんよ」
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