小説「大菩薩峠」の「他生の巻」第32章において著者中里介山(1885-1944)は「旅の俳諧師」に一茶論を展開させている。介山は「一茶教」の信奉者を揶揄しているのかもしれない。以下抜粋して引用する。
…「わしどもは、旅の俳諧師でございましてね、このたび、信州の柏原の一茶宗匠の発祥地を尋ねましてからに、これから飛騨の国へ出で、美濃から近江と、こういう順で参らばやと存じて、この山越えを致しましたものでございますが……ふと絵図面を見まして、これよりわずかのところに白骨温泉のあることを承知致しましてからに、道をまげて、これよりひとつ、その白骨の温泉に温もって参らばやとやって参りました」
熊狩りの一行は、この俳諧師の出現に機先を折られた様子…(熊狩り)見学の池田良斎はやや離れて後からくっついて、新たに出現した俳諧師を生捕ってしまいました。
「あなた、俳諧をおやりなさるのですか」
「へ、へ、へ、少しばかり……」
年の頃は、まだ三十幾つだろうが、その俳諧師らしい風采が、年よりは老けて見せた上に、言語挙動のすべてを一種の飄逸なものにして見せる。
「信州の柏原の一茶の旧蹟を尋ねて、只今その帰り道なのでございます」
「ははあ、なるほど、一茶はなかなか偉物ですね」
「え」
といって俳諧師は眼を円くし、
「失礼ながら、あなたにも一茶の偉さがおわかりですか」
「それは、わたしにもいいものはいい、悪いものは悪いとうつりますよ」
池田良斎が答えると、俳諧師は驟雨にでも逢ったように身顫いをして、
「では一茶の句集でもごらんになったことがございますか」
「あります、あります、『おらが春』を読みましたよ」
「おらが春――たのもしい、あなたがそういう方とは存じませんでした」
俳諧師は着物の襟をさしなおして恐悦がりました。仲間みたような風采をしていた良斎の口から一茶を褒められて、自分の親類を褒められたような気になったのでしょう。有頂天になった俳諧師は、
「おらが春を本当に読んで下されば、一茶の生活と人間と発句の精神とはまずわかります、わかるにはわかりますがね、人によってそのわかり方の違うのはぜひもありません。あなたは、一茶という人間をどういうふうにごらんになっていますか、それを承りたい」
池田良斎がこの質問に逢って少しく首を捻りますと、俳諧師はそれにかぶせて、
「どうですな、一茶の偉いというのは太閤秀吉の偉いのとは違いましょう、日蓮上人の偉さとも違いましょう、また近代のこの信濃の国の佐久間象山の偉さとも違いましょう、一茶の偉さは英雄豪傑としての偉さではありませんよ、人間としての偉さですよ、信濃の国の名物中の名物は俳諧寺一茶ですよ……いや、信濃の国だけではありません、この点において一茶と並び立つ人は天下にありません、一茶以前に一茶無く一茶以後に一茶なしです……」
俳諧師の言葉に熱を帯びてきました。
…こちらは歌人――とは断定できないが――と俳諧師とは、古人を論じて来時の道を忘るるの有様です。
しかし、どうやら間違いなく二人は白骨の宿へたどりつくと、池田良斎が東道ぶりで、炉辺に焚火の御馳走を始めました。
ところで、この俳諧師の俳諧寺一茶に対する執着は容易に去らない。
「古人は咳唾珠を成すということをいいましたが、一茶のは咳唾どころじゃありません、呼吸がみな発句になっているのです、怒れば怒ったものが発句であり、泣けば泣いたのが発句となり……横のものを縦にすれば、それが発句となり、縦のものを横に寝かせば、それがまた発句です。その軽妙なること俳句数百年間、僅かに似たる者だに見ずと、時代を飛び越した後人がいいましたけれども、それでも言い足りません。
一茶の句は滑稽味が多いとおっしゃるのですか。それはやはりあなたも素人観の御多分に漏れません。よく一茶を惟然や大江丸に比較して、滑稽詩人の中へ素人が入れたがります。『おらが春』の序文を書いた四山人というのが、それでも、さすがに眼があって、これを一休、白隠と並べて見ました。それでも足りないのです。
また、一茶の特色を、滑稽と軽妙と慈愛との、三つに分けた人もあります、慈愛を加えたのが一見識でございましょう。一茶の句をすべて通覧してごらんになると、森羅万象がことごとく詠まれぬというはありません、その同情が、蚤、虱、蠅、ぼうふらの類にまで及んでいることを見ないわけにはゆきますまい。
それとまた一方に、一茶を皮肉屋の親玉のように見ている人もあります。つむじ曲りの、癇癪持ちの、ひねくれ者のように見ている人もあります。勧農の詞なんぞを読んで聖人の域だと感心している人もあります。しかし、それはみんな方面観で、当っているといえば凡て当っているし、間違っているといえば凡てが間違っているのです。本来、一茶のような人間に定義をつけるのが間違いなのです…
…ごらんなさい、これは天明から文政の間、まあ一茶の盛りの時代に出た全国俳諧師の番附ですが」といって俳諧師は、行李の中から番附を取り出して良斎に見せ、
「本来、風流に番附があるべきはずのものではありませんが……俗世間には、こういうものを拵えたがる癖がありましてね。この番附には一茶が入っておりません、たまに入っているかと思えば、二段目ぐらいのところへ申しわけに顔を見せているだけです。しかし、これは仕方がありません、点取り宗匠連が金を使って、なるべく自分の名を大きくしておかないと商売になりませんからね、一つは商売上の自衛から出ているのですが、
面白いのは、一茶の子孫連中がその祖先の有難味にいっこう無頓着で、一茶が最後の息を引取った土蔵――それは今でも当時のままに残っておりますが、左様、土蔵といったところで、一間半に二間ぐらいのあら壁作りのおんどるみたようなもので、本宅が火事に逢ったものだから、一茶はこの土蔵の中に隠居をして、その一生涯を終りました、その土蔵の中へジャガタラ芋を転がして置きました、たまに、わたしどもみたような人間が訪れて礼拝するものですから、その子孫連中があきれて、何のためにこんな土蔵を有難がるのかわからない顔をしている有様が嬉しうございました…

…西洋の国では、大詩人が生れるとその遺蹟は国宝として大切に保護しているそうですが、日本では、一茶のあの土蔵もやがて打壊されて、桑でも植えつけられるが落ちでしょう。一茶というものは、時代とところを離れて、いつまでも生きているものだから、遺蹟なんぞはどうでもいいようなものですけれど…
…一茶の子孫の家ですか、それは柏原の北国街道に沿うて少し下ったところの軒並の百姓家ですが、今も申し上げた通り、自分の先祖の有難味を知らないところが無性に嬉しいものでした。家を見て廻ると、あなた、驚くじゃありませんか、流し元の窓や唐紙の破れを繕った反古をよくよく見ると、それがみんな一茶自筆の書捨てなんですよ。知らずにいる子孫は、いい反古紙のつもりで、それを穴ふさぎに利用したものです。あんまり驚いたもんですから、わたしどもはそれを丁寧にひっぺがしてもらって、こうして持って帰りました。
それからこの渋団扇、これもあぶなく風呂の焚付にされるところでした。ごらんなさい、これに『木枯しや隣といふも越後山』――これもまぎろう方なき一茶の自筆。それからここに付木っ葉があります、これへ消炭で書いたのが無類の記念です。一茶はああした生活をしながら、興が来ると炉辺の燃えさしやなにかを取って、座右にありあわせたものに書きつけたのですが、こんなものをその子孫が私どもに、屑っ葉をくれるようにくれてしまいました。
あんまり有難さに一両の金を出しますと、どうしても取らないのです、そういう不当利得を受くべきはずのものじゃないと思ってるんですな。これは先祖の物を粗末にするというわけじゃない、その有難味のわからない純な心持が嬉しいのですね。それでも一茶自身の書いた発句帳、これはその頃の有名な俳人の句を各州に分けて認めたもの、下へは罫紙を入れて、たんねんにしてあった、これと位牌、真中に『釈一茶不退位』とあって左右に年号のあるもの、これだけは大切に保存していました」
俳諧師は、話しながら、渋団扇だの付木っ葉だのを取り出して良斎に見せました。
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