昨年初めから小林一茶(1763-1828)の発句集に総ルビを振っているが、これは一種の翻訳ではないか、と思うことがある。自分を含め現代読者が親しんで読めるようにするため、読みにくい漢字語にひらがなルビを振り、ひらがな語に漢字ルビを振るのだが、悩まされることが少なくない。
現代仮名遣いと歴史的仮名遣いの違いだけではない、濁音と清音のどちらをとるか悩まされることも多い。門外漢ゆえの迷いかもしれないが、複数の選択肢があるときは本当に悩ましい。その悩みは翻訳で語彙を選ぶときのそれと同じものだ。
もとの句もルビを振った句も日本語だから、ふつうは翻訳とはいわない。ただ、時代を異にする日本語を外国語とみなすこともできるのではないか、などと考えた。
一茶発句集にルビを振るのに、はじめは現代仮名遣いにした。ところが、俳句の地の文は旧仮名遣いだから、新旧かな混じり文のようになっておかしい。そこで新年・春と夏の部を終えたあと、現代仮名を旧仮名遣いに修正することにした。
きっかけは蛙という漢字の読み方だ。現代仮名は「かえる」だが、旧仮名は「かへる」である。同じ句集に新旧二つの読みが併存するのはおかしい。蛙の読み方にはもう一つ「かわず」「かはづ」がある。一茶の句に登場するのはほとんど「かへる」だが、「かはづ」と仮名書きしたものもある。他方、芭蕉(1644-94)の詠んだ古池に飛び込むのは「かはづ」でなければならない。
「かへる」も「かはづ」も「かえる」であることに変わりないではないか、という人がいるかもしれない。そういう見方がまったく間違っているとは思わない。ただ、言葉のもつ感性のようなものを見落としているのではないだろうか。
ルビを振る作業は、作者はどう詠んだろうかと想像し悩むことの連続である。それは単なる現代語訳ではない、歴史的仮名遣いの選択でもない、外国語を日本語に置き換えるのと同じ次元の葛藤を伴うものなのだ。
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