少年Kと恵琳寺

十歳のとき父親を亡くした少年Kは、家族の生計を維持するため、亡父が継ぐべきだった恵琳寺えりんじの僧になった。Kが満州に往った後、彼の叔父が継ぎ、いまはその末裔が継いでいる。

もと念仏道場だった寺の創建は遠く西小梛にしこなぎ[1]新田が開発された江戸後期18-19世紀にさかのぼる。干拓の犠牲になった魚介類の霊をとむらい、新田の守護として、また入植者の心のよりどころとして建立され、天保5(1834)年に真宗大谷おおたに派の寺院となった。

明治31(1898)年に間口7間(12.7m)・奥行7間半(13.6m)の伽藍がらんが完成する。その約50年後、三河みかわ地方大地震[2]により半壊し取り壊された。1951年に豊川とよかわ市にあった軍事工場の女子寄宿舎を譲り受け、西小梛町の人々の協力を得て本堂を完成している。

その建物もまた、伊勢湾台風[3]の直撃を受け、使用に耐えられなくなった。このときも檀家の人々の支援を受け、原形の屋根部分と本尊を安置する部分ほかを1988年に改修し本堂を竣工した。それから40年が経とうとしている。

Kが比丘びくのまま伽藍を守っていたら、僕は生まれなかった。彼は後に僕の母親となる女性と結婚するが、10年後彼女は優婆夷うばいになる。少年Kはいや々生活のために南無阿弥陀仏としょうし、彼女は自らの生き方を求めて南無妙法蓮華経ととなえた。

結婚20年で二人は離婚し、Kは一回り若い女性と再婚した。その女性は彼の遺骨とともに墓に入るだろう。母は信仰をたもちつづけ、その遺骨は富士の麓に眠っている。二人が他界して何年か経つ。

  1. 西村・小栗・梛野の頭文字を取って西小梛とした。寺は西尾市西小梛道場前7にあった。
  2. 1944年12月7日の東南海地震(M8.0)と1945年1月13日の三河大地震(M7.1)
  3. 1959年9月、紀伊半島から中部・東北地方を縦断し死者不明者5千人を記録した。

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