Issa > [issa + sojo]

「おらが春」と題した小林一茶の伝記映画をNHKでみた。2002年1月に放送されたものを西田敏行の追悼番組として再放送したものだ。原作は田辺聖子著「ひねくれ一茶」だという。

遠景に高山が連なり四季折々に変化する柏原の風景と農作業にいそしむ人々や甕棺を担いだ人々のあとを行く白衣*を着た親族の列あるいは角隠しを被った花嫁と付き添う人々が畦道を進む情景がきれいに描かれている。一茶の身につけている着物やはれの日の人々の着物が華やか過ぎて現実離れしていたが、江戸期の日本は明治以来切り捨てられているのだから仕方がない。

一茶を師匠として慕う未亡人花嬌、夏目成美の着物や吉原の場面も美し過ぎて現実離れしていた。花嬌と一茶との相思関係、かつて同じ葛飾派で芭蕉をめざして零落した俳諧師草杖を一茶の分身とすることで俳諧師という生き方が孕む芸術性の高みと現実生活の破綻を描いたと解釈しよう。それ以上を求めるのは無理かもしれない。

原題「ひねくれ一茶」の「ひねくれ」は世間や一般の規範からの逸脱を思わせるが、単に継母に虐待されて「ひねくれ」た、あるいは周囲の人々のように農民として生きられない程度にしか描かれていない。一茶の特質がその「ひねくれ」性にあるとすれば、それをもっと鬼気迫るものとして描いて慾しかったが、それは僕の解釈でしかない。

一茶の純粋さや素直さはよく描かれていたし、感受性の強さはある程度描かれていた。だが、その対極にあるであろう彼の偏屈さが描かれていないように感じた。女好きで夏目の家から大金を盗み、零落しながら一茶の句集をすべて読み込んでいる草杖に偏屈さを押し付けている。草杖はかつて芭蕉をめざして一茶とともに俳諧道に励んだライバルだった。二人の関係を掘り下げたところに一茶の特質があるように思う。

草杖役も西田に演じさせれば別の一茶像が浮き彫りになったかもしれない。これを数式ならぬ文字式で表すと次のようになる。Issa > [issa + sojo] 映画が描いた一茶と草杖をそれぞれ issa と sojo だとすると、一茶の実像 Issa はその二人を合わせた人物より多面性と深みをもっていたという意味である。

*葬儀の喪服が黒くなったのは欧米を模倣した明治時代以降だという。隣国を白衣族と呼んで奇異な目で見たのも浅薄な「文明開化」のゆえか。その隣国でも黒の喪服が定着しているという。

Leave a comment