坐って宙に浮いている老人—–晩年に妻帯し4人の子を授かるが、みな早死にし妻も他界してしまう。その要因を梅毒とする説もある。[以下 Wikipedia (小林一茶) をもとに編集しました]
1814年5月(文化11年4月)、信濃国(現長野県)柏原宿の一茶(51歳)は同国野尻宿の菊(28歳)と結婚する。一茶のいとこの宮沢徳左衛門が仲介したようだ。2年後、長男が生まれるが、1ヵ月たらずで死んでしまう。
長男の死の翌年、長女が生まれるが(1818年6月)、1歳を過ぎ疱瘡(天然痘)に感染して死んでしまう(1819年8月)。一茶の没後25年に出版された『おらが春』は娘に捧げられた俳文だ。「目出度さもちう位也おらが春」はよく知られている。
翌年秋、次男が生まれた直後、一茶が雪道で転倒して中風(卒中)を起こす。言語障害と運動障害を併発し、次男とともに自宅で療養する。その後回復するも、歩行が少し不自由になった。
生まれて3ヵ月も経たない次男が菊の背中で窒息死したとき、一茶は妻を罵倒する文を書いた。やり場のない哀しみと怒りを妻にぶつけたのだろう。「陽炎や目につきまとふわらひ顔」と詠う孤老の姿が痛々しい。
義弟との相続問題が解決して妻を迎え、俳諧の師匠として北信濃各地に門人を持ち、故郷に安住したかに見えた一茶だが、故郷に受け入れられたとは感じていない。「故郷は蠅まで人を刺しにけり」と、故郷の人々の刺々しい態度を恨む一茶の側に要因があったのではないか。晩年の一茶は短気で怒りやすかったという。
1822年5月(文政5年3月)、三男が生まれるが、菊は産後の肥立ちが悪く病気がちになった。翌年正月、一茶(60歳)は「春立や愚の上に又愚に帰る」と、自らの来歴を振り返っている。愚禿と自称した親鸞(1173-1263)の<自然法爾>「悲しいときは泣き嬉しいときは喜び苦しいときは苦しんで生きる境地」を表現したものと云われる。
1823年(文政6年)、菊の痛風の病状が悪化する。俳諧師として門人宅回りを続ける一茶は子の世話をできないので知人宅に預け、菊も実家で療養させた。しばしば妻を見舞うが、病状はしだいに悪化し、1823年6月(文政6年5月)、37歳の若さで、子どもたちを追うように菊も他界する。「小言いふ相手もあらばけふの月」。いかにも孤老の句である。
菊の葬儀に三男も戻ってきたが、すっかり痩せ衰え、間もなく死んでしまう。知人が、乳が出ないのに保育料欲しさに子どもを預かったとして、一茶は罵倒する俳文を書く。この子も虚弱体質だったと云われる。
その後再婚するが、1カ月余りで離婚した。1824年9月(文政7年閏8月)に、善光寺町の門人宅で一茶は中風を再発する。一命はとりとめたものの言語障害が残る。
菊の他界、亡くなった子への思い、再婚相手との不仲、2度の中風を患うなか、一茶は最晩年を迎える。身体的な不自由と言語障害もあった。1825年(文政8年)、63歳の一茶は竹駕籠に乗り、年の大半を北信濃の門人巡りをして過ごす。この間、彼の家や留守時の管理は徳左衛門が支援していたようだが、一時家政婦を雇っている。1826年(文政9年)、64歳の一茶に再々婚の話が浮上する。
1825年(文政8年)、柏原の旅籠小升屋に奉公をしていた越後二股(妙高市)の富裕農民、宮下家の娘やを(31歳)が私生児を産む。相手の倉次郎は十代で、柏原の本陣中村六左衛門家の分家で柏原一の地主の三男だった。周囲はこの問題を巡って、64歳の孤老の再婚を画策する。
一茶は自作農で後継ぎがいれば小林家を存続できるし、中風で体が不自由だから、介護を必要とした。私生児倉吉の父は柏原有数の名家である。母のやをも越後二股の富裕な家の娘であり、小林家は柏原でも有力な家だから、倉吉が一茶の家を継ぐのに問題はない。こうして、1826年(文政9年8月)、一茶(64歳)とやを(32歳)は結婚する。連れ子の倉吉は2歳だった。
後継ぎも決まり、平穏な晩年が訪れるかにみえたが、1827年7月(文政10年閏6月)、柏原に大火が発生し、柏原宿の8割以上の世帯が焼け出された。一茶の家も隣に住む義弟の家も全焼したが、一茶所有の土蔵は焼失を免れた。
やむなく一茶の家族は土蔵を仮住まいとする。そこは高いところに窓が一つ空いているだけで昼でも薄暗かった。一茶は不自由な体と言語障害を抱え、手も震えていたが、火災後も俳諧師として門人巡りを続けた。柏原の大火後、門人の一人が、一茶の話す言葉が聞き取りにくく、怒りっぽくて困ると記しているという。
死の影を感じながら、一茶は精力的に門人宅を巡回し、越後の小千谷の片貝にある観音寺に奉納する俳額の撰を行い、約1万5千句のなかから丁寧に選句を行うなど、衰えを感じさせない活動だった。土蔵の修理も行っている。
1827年12月25日(文政10年11月8日)、俳諧師匠の巡回指導を終え、一茶は久しぶりに柏原に戻る。その10日後の夕刻に亡くなった(65歳)。遺骨は菩提寺の明専寺にある先祖代々の墓地に合葬された。妻やをは子を孕んでいた。




Leave a comment