一茶は宝暦13年5月5日(1763年6月15日)に生まれ、文政10年11月19日(1828年1月5日)に世を去った。彼の句日記「七番日記」(文化11-18[1814-21]年)には、52歳で結婚した彼と若妻とのヰタセクスアリスについて日常雑記事のなかに断続的な記録がある(文化13年8月と14年8月・12月)。
交合について夜五交・暁一交・旦二交などと記した(回数だけのものは日中か)。巷間に流布するのはその精力絶倫ぶりであり、子ども欲しさ故という俗説だが、果たしてそうだろうか。一茶の観察眼そのものと深く関わっているのではないか。それは彼の俳句の核心をなす、つくろわない、ありのままという仏教的生命観にもとづくのではないか。こんな仮説を立てたいと思う。
この時期における一茶のヰタセクスアリスとも云うべき部分を抜粋してみよう。
- 文化11年4月[1814年]
- 11日晴れ 妻来る、徳左衛門(生母の実家で一茶の後見役)泊まる[注: 一茶の生家は間口9間余り奥行き23間で面積約220坪。10年越しの遺産相続問題が前年に決着し、一つの屋敷を義弟の弥兵衛の家族と折半した]
- 14日晴れ 妻役人巡り
- 16日晴れ 未の刻に地震
- 17日晴れ 巳の刻よりときどき地震、夜戌下の刻、中地震、母妻二倉に泊まる、一茶野尻に泊まる
- 19日晴れ 午の下刻、妻赤川に行く
- 25日晴れ 長沼上町に入る
- 26日晴れ 呂芳に入る
- 27日晴れ 上町に入る
- 28日晴れ きくと入る
- 文化11年に交合の記録はなく、12月に妻の月水とあるだけで、文化13年[1816年]正月に初めて交合の記述がある。
- 文化13年8月に交合の記述が多く、
- 6日にきく月水、弁天詣で
- 8日晴れ 夕方一雨、雲龍寺葬、きく帰る、夜五交合
- 12日晴れ 夜三交
- 15日晴れ 三交
- 16日晴れ 三交
- 17日晴れ 墓詣で、夜三交
- 18日晴れ 夜三交
- 19日晴れ 三交
- 20日晴れ 三交
- 21日晴れ 四交
- 閏8月と9月に交合の記録はなく、次に出てくるのは翌14年になる。
- 文化14年8月[1817年]
- 14日小雨 三交、墓詣で
- 15日晴れ 二交
- 文化14年12月[1817年]
- 15日大雪 暁一交
- 21日晴れ 暁一交
- 23日晴れ 旦一交
- 24日雪 旦一交
- 25日雪 旦一交
- 29日晴れ 五交
参考: 文化年間の和暦と西暦の対照表
ごく卑近な例で云えば、一茶の交合記録は高齢者が朝晩に血圧を測定して記録するようなものではないか。淡々としていて、どこかで気にしている。この例えは嗤われそうだが、少なくとも精力的だとかいう解釈よりも彼に寄り添った解釈だと考える。一茶の考え方の基盤につくろわない、ありのままという仏教的な嗜好性があったのではないだろうか。
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