ちうくらゐ再考

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昨年末にこの記事をアップしたが、正月になって「おらが春」の序文があることを知り、「ちうくらゐ(中位)」について再考した。

「おらが春」より(1)
昔、たんごの国普甲寺ふこうじといふ所に深く浄土をねがふ上人ありけり。としの始は世間祝ひごとしてさゞめけば我もせんとて大卅日おおみそかの夜ひとりつかふ小法師こぼうしに手紙したゝめ渡してあすの暁にしかじかせよときといひをしへて本堂へとまりにやりぬ。
 小法師は元日のあしたいまだ隅み隅みは小闇おぐらきに初烏の声とおなじくがばと起て教へのごとく表門を丁々ちようちようたたけば内より「いづこより」と問ふ時「西方弥陀仏より年始の使僧つかいそうに候」と答ふるよりはやく上人裸足にておどり出で門の扉を左右へさつと開て小法師を上坐にしようじてきのふの手紙をとりてうやうやしくいただきて読ていはく「其世界は衆苦充満に候間はやく吾国に来たるべし。聖衆しようじゆ出むかひしてまち入候」とよみ終りて「おゝおゝ」と泣れけるとかや。
 此上人みづからたくこしらへたる悲しみにみづからなげきつゝ初春の浄衣を絞りてしたゝる涙を見て祝ふとは物に狂ふさまながら俗人に対して無常をのぶルを礼とすると聞からに仏門においてはいはひの骨張こつちようなるべけれ。
 それとはいさゝか替りておのれらは俗塵に埋れて世渡る境界きようがいながら鶴亀にたぐへての祝尽しも厄払ひの口上こうじょうめきてそらぞらしく思ふからにから風の吹けばとぶ屑家はくづ屋のあるべきやうに門松立てず煤はかず雪の山路の曲りりにことしの春もあなた任せになんむかへける。
 目出度さもちう位也おらが春 一茶
https://koten.sk46.com/sakuhin/oraga.html

「西方弥陀仏からの年始の使僧」を自作自演で演じながら自らしたためた弥陀仏からの手紙を読んで感涙にむせぶという常軌を逸した上人の話をなぜ前段に述べたのだろう。「仏門においては祝ひの骨張」とし、諷刺しつつも賞讃しているかにさえみえるが、後段で次のようにいう。

「俗塵に埋れて世渡る境涯ながら鶴亀にたぐへての祝尽しも厄払ひの口上めきてそらぞらしく」とし、「ことしの春もあなた任せになんむかへける」とした彼の真意はどこにあるのだろうか。「ちうくらゐ(中位)」は考えれば考えるほど、その意味が深く広がってくる。とりあえずは、正月だといっても特につくろわないありのままという意味に解しておこう。「おらが春」は堂々としていてすがすがしい。

同じく「おらが春」の序文に「あなたまかせ」について以下の記述がある。これも、つくろわないありのままに通じるところがあるように思う。

「おらが春」より(2)
 他力信心他力信心と一向に他力にちからを入て頼み込み候輩はつひに他力縄に縛れて自力地獄の炎の中へぼたんとおち入候。
 其次にかゝるきたなき土凡夫どぼんぷをうつくしき黄金の膚になしてくだされと阿弥陀仏におしあつらへに誂ばなしにしておいてはや五体は仏染み成りたるやうにるすましなるも自力の張本人たるべく候。
 問ていはくいか様に心得たらんには御流義に叶ひ侍りなん。答ていはく別に小むづかしき子細は不存ぞんぜず候。
 たゞ自力他力何のかのいふ芥もくたをさらりとちくらが沖へ流してさて後生の一大事は其身を如来の御前に投出して地獄なりとも極楽なりともあなた様の御はからひ次第あそばされくださりませと御頼み申ばかり也。
 如斯かくのごとく決定しての上には南無阿弥陀仏といふ口の下より欲の網をはるの野に手長蜘の行ひして人の目をかすめ世渡る雁のかりそめにも我田へ水を引く盗み心をゆめゆめ持べからず。
 しかる時はあながち作り声して念仏申に不及およばず。ねがはずとも仏は守り給ふべし。是則、当流の安心あんじんとは申也。穴かしこ。
 ともかくもあなた任せのとしの暮 一茶

「ちうくらゐ」は長野方言で曖昧あいまい・あやふや・いい加減かげんの意味だそうで下の解釈がわかりやすい。だが、上の序文とかけ離れていてやや物足りない。

めでたい新年を迎えた。自分にとっては上々吉のめでたさとはいえないが、まずまず中くらいといったところだろう。
[解説]このころの一茶は生涯でも幸せな時期にあり、妻は元気に働き、長女のさとはかわいい盛りだった……半年後に痘瘡もがさ(天然痘)によって死んでしまうのだが。
https://bonjin-ultra.com/issa.htm

当時、小林一茶(1763-1828)は57歳だったという。一茶記念館のサイトに載ったその生涯は次のとおり(一部編集)。一茶の実像は案外知られていないのではないか。その作品もあまり読まれていないのではないか。

一茶(小林弥太郎)の生涯
小林一茶は宝暦13年5月5日(1763年6月15日)長野県の北部・北国街道柏原宿(現・信濃町)の農家に生まれ、本名を弥太郎やたろうといいました。3歳のとき母がなくなり、8歳で義母を迎えました。働き者の義母になじめなかった一茶は、15歳の春、江戸に奉公ほうこうに出されました。奉公先を転々てんてんとかえながら、20歳を過ぎたころには俳句の道をめざすようになります。
 一茶は葛飾派三世の溝口素丸・二六庵小林竹阿・今日庵森田元夢らに師事して俳句を学びました(圯橋いきょう[土橋]・菊明・新羅坊しらぎぼう[唐の時代に黄海沿岸地域に存在した新羅人の集団居留地]・亜堂の後に一茶という俳号を用いる。庵号は二六庵・俳諧寺)。
 29歳で14年ぶりにふるさとに帰った一茶は、後に「寛政三年紀行」を著しました。30歳から36歳まで関西・四国・九州の俳句修行の旅に明け暮れ、知り合った俳人と交流した作品は句集「たびしうゐ」「さらば笠」として出版しました。
 39歳のとき、ふるさとに帰って父の看病をしました。父は一茶と弟で田畑・家屋敷を半分ずつ分けるよう遺言ゆいごんを残し、1ヵ月ほどでくなりました。このときのようすを「父の終焉しゅうえん日記」にまとめています。その後ふるさとに永住えいじゅうするまで10年余り継母ままはは・弟との財産あらそいが続きます。
 江戸蔵前の札差ふださし夏目成美の句会に入って指導をうける一方、一茶は房総の知人・門人を訪ねて俳句を指導し、生計をたてました。貧乏ととなり合わせのくらしでしたが、俳人としての一茶の評価は高まっていきます。
 50歳の冬、一茶は再びふるさとに帰りました。借家かりいえ住まいをして遺産いさん交渉をかさね、翌年よくねんようやく和解わかいしました。52歳で28歳のきくを妻に迎え、千太郎・さと・石太郎・金三郎と次々に子どもが生まれましたが、みなおさなくして亡くなりました。妻きくも37歳の若さで亡くなり、一茶はひとりだけになりました。その後再々婚し、一茶の没後に妻やをとの間に次女やたが生まれています。
 家庭的にめぐまれないなか、北信濃の門人を訪ねて俳句指導や出版活動を行い、句日記「七番日記」「八番日記」「文政句帖」や句文集「おらが春」などをあらわして2万句に及ぶ俳句を残しました。文政10年うるう6月1日に柏原宿の大半を焼く大火にって母屋を失った一茶は焼け残った土蔵どぞうに移り住み、同年11月19日(1828年1月5日)に64歳の生涯をじました。
http://www.issakinenkan.com/about_issa/
一茶終焉の土蔵(現・長野県信濃町柏原)

市川蛇蔵氏の一茶評伝も興味深い。

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