宦官は去勢された男の意味だが、ここでは文化的伝統を喪った者、アイデンティティを見失った者について考えようと思う。日本には制度としての宦官はなかったが、精神的に去勢された者は少なからずいたのではないか、そして今も大勢いるのではないか、と考えるからである。この考え方はどこか江戸時代後半の国学思想に通じるものがあるかもしれない。とはいえ、僕は本居宣長や賀茂真淵の説を詳しく知っているわけでもない。お前もいい加減なものだな。
文化的伝統を喪った者は漢心にあるいは欧米の思潮に傾倒するが、どちらも掘り下げて考えているわけではなく、周囲に同調しているだけの場合が多い。伝統文化も宗教的伝統も深く考えたことはなく、ただ何となくという人々が大半であろう。だから、1868年以降は大日本帝國の、1945年以後は日本国の敷設したレールの上を走る列車に乗っているだけなのだ。そういうお前は何なんだ。同じ列車に乗っていながら批判めいたことを言っているだけではないか。それは否めない。所詮、同じ穴の狢なのだろう。
戦前戦後という時期区分は19世紀後半以降の体制を連続する政体として捉えるものだ。明治時代(1868-1911)と昭和20(1945)年までの立憲君主制と昭和20年以降の主権在民の民主主義体制は同じ日本列島の上にあり、そこに住む人々も重なっているから連続してみなされる。本来はまったく異なる国と考えなければならない。それを見えにくくしているのが天皇制の継続である。この程度のことは少しでも法律を学んだことがある者はみな考えることだ。
精神的去勢者を英語で depersonalizers あるいは ego losers というようだが、ここでは後者のほうを使いたい。いずれにせよ、真の意味の個性を持たないということである。個性を持たないとは単に没個性というのではなく、自分の拠って立つ文化的伝統を見失っている状態をいう。本当はとっくの昔に文化的伝統など捨てていながら、臆面もなく伝統文化の大事さを訴える。何が護るべき伝統なのか文化なのか考えないまま、世のなかの流れに沿っているだけなのだ。こんな考えかたをする者は変人扱いされるばかりだが、言い続けなければならない。後世のためではない、自分のためにである。
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