Review

処女作「いつか名もない魚になる」の第一部<ハイジン教徒たち>と第二部<漆喰の菩薩像>を読み直した(全体は三部構成)。我ながらよく書けていると思う。習作というより力作ぐらいにしてもいいのではないか。自画自賛は自覚しているが、この作品はなぜ好評を得られないのか。悪評でもいい、誰か批評してくれる人がいれば、とさえ思う。

縦書き文庫「いつか名もない魚になる」
第一部 ハイジン教徒たち
駅のホーム
 大きくカーブした線路に沿ってホームが弧状こじょうに延びている。ホームの上には、白い塗料をぬりたくった鉄柱が規則正しく並び、半透明なアーチ状の屋根を支えている。何本かおきに柱の上方に取りつけられたスピーカーが、朝暗いうちから深夜まで、一定の間隔をおいて電子音のチャイムと駅員のヒステリックな声を吐き出し続ける、いかにも都会的で無機質むきしつな風景だ。
 電車の最前部の車輌が、みるみる大きくなって駅に近づいてくる。
 ブァアアン(電車の警笛が響きわたる)
 電車が入ってまいります(録音された声が流れる)
 足元の黄いろい線の内側までおさがりください(録音された声が流れる)
 朝のラッシュ時間、ひっきりなしにホームに入ってくる電車が威厳いげんを示すように警笛けいてきを鳴らすたびに、駅員たちがあわただしく動き回り、苛立いらだたしげに決められた台詞せりふを叫ぶ。それにあおられるかのように、ホームを行き来する人々の動きがあわただしさを増す。
 電車が入ってまいります(録音された声)
 ピピーピッピー(駅員がホイッスルを吹く)
 足元の黄いろい線の内側までおさがりください(録音された声)
 ブァアアン(電車の警笛が響きわたる)
 駆けこみ乗車はおやめください(駅員が叫ぶ)
 ダンダラダーダンダラダーダンダラダラダー(発車の電子音が響く)
 ドアが閉まります、無理なご乗車はおやめください(駅員が叫ぶ)
 次の電車がまいります(電光掲示板の文字が表示される)
 次の電車をご利用ください(駅員が叫ぶ)
 電車が発車します、おさがりください(駅員が叫ぶ)
 ピピーピッピー(ホイッスルが鳴る)
 この物語の主人公である凭也ヒョーヤは、朝のホームが好きだった。毎朝夕こんな光景を見ていた。そのまっただなかで、改札口を通り過ぎていく相手の定まらない人々に向かって、数秒ごとにあいさつをくり返すのが彼の仕事だった。仕事の一部としてそうするのだが、彼にあいさつを返す人はいない。改札係など機械じかけの人形ぐらいにしか考えていない人々は、うつむき加減かげんに急ぎ足で彼のよこを通り過ぎるだけだ。彼が発するあいさつのことばは人々の靴音くつおとのなかにむなしく消えていく。
 ドドッドドッドドードドッドドッドドー(人々の靴音が響く)
 おはようございます、おはようございます(改札係が声を出す)
 通勤お疲れさまです、お疲れさまです(改札係があいさつする)
 改札係になって数ヵ月のあいだ、凭也には駅のホームとそこを通過する電車が作り出す光景が神聖な伽藍がらんのように見えた。朝夕の陽光を浴びてホームを動き回る人びとの姿は敬虔けいけんな信者のように映ったし、仕事とはいえ宗教儀礼のようにあいさつすることに何の疑いもいだかなかった。人々に対して、家畜に対したときのような優越感を抱くことはあったが、ホームも駅舎もすべて通過する人々の寄進きしんで建てられたものだったし、彼らがいなくなれば改札係もいらなくなると考えていた。まるで当然のことのように、通過していく人々をうやまっていたのである。
 お勤めごくろうさまでした、ごくろうさまでした(改札係があいさつする)
 本日もご利用いただき、ありがとうございました(改札係が頭をさげる)
 ありがとうございました、ありがとうござ……
 電子音と駅員たちの声がスピーカーから流れるたびに、ホームの光景に駅員たちの苛立ちと怒りが渦巻うずまいているように感じるようになったのは半年ほどたってからだった。それでも、自分をとりまく光景を不自然に感ずることはなかった。ごくあたりまえのことだと考えていた。一年以上ものあいだ、彼はほとんど休むこともなく働きつづけたのだから。それは敬虔といってよいほどであった。それがわざわいしたのかもしれない。いつのころからか、駅員たちの叫び声が罵声ばせいに聞こえるようになった。
 おい、いったい何度いったらわかるんだ
 ホームのはしを歩くんじゃない
 ドアがしまるといってるんだ
 おい、走るんじゃない
 ほかの人に迷惑だからやめろといってるんだ
 やめないか、おい、いい加減にしろ
 おまえたちなんか家畜とおんなじだ
 電車に引かれて死んでしまえ
 死んでしまえばいいんだ
電車という動く寺院
 ダダッダダーダダダッダダー(人々の靴音が響く)
 危険ですので、駆けこみ乗車はおやめください(駅員が叫ぶ)
 ダンダラダーダンダラダーダンダラダラダー(電子音が響く)
 電車の発車を知らせる電子音が、駅のホームの上方からけたたましい音量で鳴り響く。ホームには出入口が二ヵ所あり、階段とエスカレータで上の階と下の階に通じている。それぞれを駆けおり駆けあがる人々の群れが電子音にせき立てられ、停車中の電車に向かって疾走する。体の半分ぐらいあるカバンを背負った少年、巨大な楽器を抱えた男、乳房を揺らす女、子どもの手を引く母親、引かれて悲鳴をあげる子ども、息が切れそうな人、あお白い顔の勤め人など、みな一斉に発車直前の電車に殺到する。
 電車に乗り込むと、人々はその日の新聞や好きな本を読み、それぞれの内面に沈潜する。会話を交わす人々は彼らにしかわからない言葉を話し、まわりの人々が理解できないことをひそかに喜ぶ。あるいは、当時流行の音楽付きイヤホンをして、自分を外界から遮断しゃだんする。その周囲にいる人々にはイヤホンからもれる音は騒音でしかないが、人々は我慢する。この電車の乗客は他人に敵対的な態度をとることが許されない。他者に対して自分の感情を抑え表出しないことが習性となった人々は、自分を守るために自他を隔てる特異な防御法を発達させた。
 [凭也によれば、その発達を促したのは無宗教派のハイジン教です。ハイジン教の寺院は、電車網が広がっている地域のどこにも設けられ、数棟並ぶことも珍しくなかったようです。ハイジン教にも他の宗教と同じようにいくつか有力な宗派があり、都市部では電車の便のよいところに宗派を異にする寺院が軒を連ねたからです。ちなみに、凭也がいう「寺院」とはおごそかな空気に包まれた神社や寺院、教会ではありません。二十世紀後半から日本島を席捲せっけんした北米発祥のコーヒー店や小型スーパーによく似た造りの建物です。以下、彼の観察が続きます]
 鉄道の駅構内には各宗派の小さな分院が置かれ、日々大量生産される新聞や雑誌を人々に供給していた。これらの印刷物を通じて、人々は自分たちの精神世界が不断に豊かになると信じている。同じ分院には、小型の固形食料や液体飲料が護符ごふとして売られている。駅構内だけでなく、ほとんどあらゆる地域の至るところに自販機じはんきと呼ばれる賽銭さいせん箱が置かれ、人々はささやかな寄付の見返りとして缶入り飲料やタバコを受け取った。これらの行為は宗教行為と考えられるが、日常生活にきわめて巧妙に組み込まれているため、人々は自分たちが信仰にもとづいて行動していることを意識しない。ひたすら無信仰だと思い込み、恥じるところがない。
 ラッシュ時の電車に乗り込んだ人々はみな立ったままだ。車内には座席がなく、ガラス窓付き冷蔵貨車そのものだった。そこで人々は密林の植物の茎と茎のように体を接してもたれ合い、かろうじて倒れないでいる。車内の温度は低く保たれ、夏だというのに寒いくらいだ。大きな冷蔵庫のなかで、人々は押し黙ったまま湖底の藻のように揺れる。電車が停止する前後に車両は大きく揺れ、人々はひときわ激しくからみ合う。
 一号車のあちこちで男と女、男と男、女と女の組み合わせが車両の揺れに体をあずけ、不器用ぶきよう愛撫あいぶをくり返している。その周囲にやじ馬が群がり、電車が変速するたびに生じる揺れやカーブするときの揺れにこうしながら突っ立っている。ただ、みな体を接するだけで、隣り合わせになった以上の関係を求めない。自分のまわりの平穏が失われることを恐れ、手にした本や新聞・雑誌の世界に没頭ぼっとうする。読み物を持たない人々は車内の天井と側面に掲示されたポスターや窓外の景色をぼんやり見ている。車内にはイヤホンからもれる雑音と何人かの交わす会話が流れ、耳をつんざく音量の放送がときどき割り込んでくる。
 ここは、ステンレス鋼とガラスで造られた電車という大きな箱型の伽藍がらんである。ハイジーンにとって電車は寺院そのものであった。だから、運行者をあがめ、絶大な権限を与えていた。一人は先頭の車両にいて電車を操縦する運転手で、その意のままに連結された全車両がレールの上を運行する。もう一人は最後尾の車両にいる車掌で、車内ならぬ院内放送を通じて延々と説教をした。人々は時おり聞こえてくる放送をほとんど聞いていないつもりだが、その行動は知らず知らずのうちに毎日くり返される説教に支配されていた。(後略)
「いつか名もない魚になる」

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