小林一茶@wikipedia2

2025年6月24日放送の「開運!なんでも鑑定団」(テレビ東京)で依頼者がネットオークションで購入した「小林一茶の書」が鑑定に出された。愛知東邦大学の増田孝客員教授が鑑定して、一茶による未発見の発句と診断された。その書の文頭に「東都にかへる人をおくる」とあり、「むくかたや 一足 ツヽに 花盛り」と続く。日付は「閏正月十五日」とあるから1822年の作と推測され、署名は「志那のゝ一茶」と記されている[320][321]

句の特徴

句作スタイル「・」

一茶の句の特徴として挙げられるのがまずその作品数の多さである。作品数は21200句近くとされ[322]、芭蕉の約1000句、蕪村の約3000句と比較して圧倒的な多さである[323]。しかも一茶の書や門人が編纂した書籍などから、新たな句が発見され続けている[324]

これだけ膨大な作品の中には、互いに類似する作品が数多くみられる[325]。例えば

雪とけて村いっぱいの子どもかな

には、

雪とけて町いっぱいの子どもかな

があり[326]

名月を取ってくれろと泣く子かな

には、

あの月を取ってくれろと泣く子かな

がある[327]

そして21000句を超える作品の全てが傑作というわけでは無く、駄作の数も多いとされている[328]。荻原井泉水は「生涯に2万近い句を書き残して、その大部分がつまらない作で……砂漠の砂の中に宝石が見出されるような句のある」と評した[329]

一茶の多作は、その句作のやり方に起因しているとの見方がある。加藤楸邨は一茶の句作スタイルを「反射型」に分類している。これは明日のことまでを見据えて現実社会との感覚的な統合を目指す芭蕉や、濁った世間からの高踏的な離脱をした上での美の世界を構築した蕪村とは異なり、一茶は大きく分裂した己の魂のあるがままに、反射的にその場その場で句を作っていったとする[330]。一茶がいわば即興的に、悪く言うと粗製乱造といった形での句作を重ねたとの評価は他にも見られ[331]、繊細な詩的センスを持ち合わせていながらも、十分に練り上げることなく性急に作品として固定化してしまう傾向があるとの指摘もあるが[332]、一茶の遺した書簡などから判断すると、一茶は決していい加減な形で作句をしていたわけでは無く、古典などからしっかりと事物を吸収し、広く先達、同時代の俳人の作品を学んだ上で句を詠んでおり、きちんとした句作スタイルを取っているとの反論がある[333]

表現方法について

一茶は独特な表現方法、題材の選び方から在世中から「一茶調」と呼ばれるほど、独自の俳風を押し進めたという印象が強いが、若い時期は様々な試行錯誤を繰り返しながらも主として伝統的な、芭蕉の影響が濃い句を詠んでいた。伝統的な手法においても一茶の力量は決して低いものではなく、当時の俳人の中では有数の実力を持っていたと考えられる[334]。享和年間以降、一茶はその独特な表現方法を意欲的に開拓していき、「七番日記」の執筆が始まった文化年間後期以降、「一茶調」は確立した[335]。なお、一茶調が確立されたと考えられる文化年間後期以降も、伝統的な手法で詠まれた高水準の叙景句が見られる[336]

涼しさや糊のかわかぬ小行燈(こあんどん)

文政2年(1819年)、一茶57歳の作であるこの句には「新家賀」との詞書が付けられており、いわゆる新築祝いの句である。新築間もない家にまだ糊も乾かない真新しい小行燈が置かれている情景を詠んでおり、優れた叙景句であるとともに、新築の家の気持ちよさが伝わってくる句でもある[337]

一茶の句の表現方法で目立つ特徴として挙げられるのが、擬声語擬態語擬音語、いわゆるオノマトペの多用である。一茶は享和年間という比較的早い時期からオノマトペを句に用いている。文化年間以降、しばしば用いるようになり、文化7年(1810年)の七番日記開始以降、自由自在に使っていくようになった[338]

雪とけてくりくりしたる月夜かな

くりくりという擬態語からうるおいが感じられ、また雪解けの春の月夜の喜びを伝えるのに大きな役目を果たしている句である[339]

俗語や、糞尿などといった尾籠な題材も一茶はしばしば用いた。

屁くらべがまた始まるぞ冬籠り

冬、どか雪に閉じこめられるようになり、また室内で屁くらべが始まってしまうという情景を詠んだ句である[340]

擬人法は、一茶の句の中で最もしばしば見られる表現である。一茶の擬人法は小動物、植物、はては雲や星といった無生物まで対象としている。やはり文化年間からその使用が目立つようになり、やはり七番日記以降、盛んに用いるようになった[341]

一茶の句の中には金銭を詠んだ句が多いのも特徴のひとつに挙げられている。一茶が生きていた江戸時代後期、基本的に俳諧は金銭を詠まないしきたりであった。花鳥風月ではなく、人生のありのままの姿を表現することを重んじる一茶はそのようなしきたりに拘ることなく、自らが関心を持つ金銭を積極的に句に詠み込んだ[342]

木がらしや二十四文の遊女小屋

吹きさらしの木枯らしの中に建つ、二十四文で体を売る最下等の遊女たちの粗末な小屋掛けの光景を詠んだこの句は、二十四文という金額が過酷な現実をより切実に表している[343]

オノマトペや俗語、擬人法の多用、当時俳句には用いないしきたりであった金銭を詠むなど、当時の俳句では大胆といえる表現方法を積極的に用いた一茶であったが、季語を欠く無季の句や、五・七・五を大きく崩した破調の句の数は少ない。このように俳句の伝統的な決まりごとに忠実な一面もあった[344]

しかし一茶は当時の俳壇の主流であった季題に基づいて句を詠む、いわゆる季題趣味に従うことは無かった。むしろ安易な季題趣味に反発するような句をしばしば詠んでいた。

おらが世やそこらの草も餅になる

一茶がこの句の前書きとして「花をめで月にかなしむは雲の上人のことにして」と、記している色紙が残されている。生活苦に代表される様々な人生の苦闘を体験してきた一茶にとって、花鳥風月を愛でて句に詠むような風雅など無縁のものであった。この句のテーマは食べていくこと、そして生きていくことである[345]。一茶も花鳥風月の美しさを句に詠み込むことは皆無ではなかった。しかし一茶の詠みぶりはあくまで人間生活の一こまとしてのものであって、花鳥風月の美しさを主題とする伝統的な手法からはかけ離れたものであった[346]

小動物、植物などの句

一茶の句には小動物、植物を詠んだものも多い。後述するように一茶の句の主要テーマは「生」であると考えられており、小動物や植物、そして蚤や蚊、蠅などといったいわゆる害虫までもしばしば句としている。また一茶が信仰篤かった浄土真宗の教えや、生来の動物好きも影響していると考えられる[347]。また蚤や蚊、蠅という人に嫌われる題材をあえて多用する点などは、一茶自身の姿の投影であると見られている[348]

菜の塵や流れながらに花の咲く

人にごみとして分別されて川に捨てられた菜が、しぶとく根付いて花を咲かせる様を賞賛したこの句は、逆境にめげずに生き抜く小さな命を詠むという、一茶の主要テーマの「生」を描きだしている[349]

ありのままの姿で生き抜くことを賞賛する一茶は、また動植物の姿を通じて、行き過ぎた人為に鋭い批判の目を向ける[350]

かすむ日や目の縫われたる雁が鳴く

春霞のうららかな日に、太らせるために狭く暗い場所に閉じ込められた上に、動き回らないように目を潰され、縫われた雁が鳴いている姿を詠んだ句である。雁はやがては富裕層の酒食に供される運命にあり、一茶は凄惨な雁の運命に深く同情するとともに、人間の身勝手さ、業の深さまでも描き出している[351]

また一茶は猫好きであった。故郷柏原に永住して結婚した後には猫を飼っていた。当然数多くの猫の句を詠んでおり、生涯300句を超えるとされている。

猫の子がちょいと押さえる落葉かな

風に舞う落ち葉を押さえようとする子猫のかわいらしい仕草をそのまま詠んだ句であり、猫に限らず愛情を持って小動物を詠んだ句の存在は、一茶が多くの人々に親しまれる大きな要因となった[352]

その一方で、一茶は

慈悲すれば糞をするなり雀の子

のような句も詠んでいる。この句では雀の子を可愛がっていたら、糞をされてしまった。気持ちが仇になってしまったと詠んでおり、一茶が小動物に対する愛情とともに、その行動に文句をつける感覚も持ちあわせていたことがわかる。また小さいとはいえこのような矛盾を見逃せないのも一茶の特徴のひとつであった[353]

子どもの句

あこが餅あこが餅とて並べけり

鳴く猫に赤ん目をして手まりかな

あどけない小さな女の子が「これあたいの、これもあたいの」と言いながら搗き立ての餅を並べている最初の句。そしてやはり手まりをついている小さな女の子に、猫がすり寄ってきたところが、女の子が猫にあっかんべーして手まりを続ける光景を詠んだ2句目。一茶は数多くの子どもの句を詠んでいるが、童謡の世界を描いたかのようなこれらの句は多くの人々に受け入れられ、明治中期以降、一茶の名声を高める大きな要因となった[354]

境涯句

一茶は早い時期から自らの生活苦、孤独、各地を旅する姿、つまり己の境涯を句にしていた。50歳を過ぎ、故郷に定住して遅ればせながらも妻を迎え、家庭を持った後は、境涯句にもくつろいだ印象が加わるようになった。しかしその後相次ぐ子どもの死、妻の死別、再婚の失敗、2度の中風と、立て続けに一茶の身に不幸が襲った。結果として一茶を襲った様々な不幸は、一茶の句に最後まで緊張感をもたらすことになった[355]

荻原井泉水は、妻を亡くした後に詠んだ一茶の句を評して、芭蕉以来の伝統的風雅とは全く異質なもので、人情をぶっつけに書いたものであるとして、自然の趣ばかりではなく人間の心そのものも立派に俳句となりうることを実証した最初の俳人であると評価している[356]

また一茶の句の欠点として、恋の句が不得手であることが挙げられる。金子兜太は一茶に恋愛を詠んだ佳句が見られない理由として、独身時代、本気で恋愛感情を抱いた女性がいなかった上に、女性にもてなかったのではとの説を唱えている[357]

生活句

一茶は北信濃の農民の出で、江戸での奉公生活、安定しない俳諧行脚による生活と、生活の苦労を肌身に感じながら生きてきた。また華やかな大御所時代の影で都市や農村で生活苦にあえぐ人々の姿も身近に感じていて、そのような人々の姿を句に詠んだ。一茶が詠んだような厳しい生活苦、人生の矛盾を詠んだ俳人はそれまで皆無であった[358]

麦秋や子を負ひながらいわし売り

この句には「越後女旅かけて商いする哀れさを」との詞書があり、麦が実る夏、越後から子どもを背負いながら鰯の行商に来る女性の姿を詠んでいる。夏、子どもを背負いながら越後から信濃まで鰯の行商に向かうという厳しさ、いたましさとともに、母親の逞しさまでも描き出した句である[359]

その一方で

とうふ屋が来る昼顔が咲きにけり

のような句も詠んでいる。昼時になってとうふ屋がやってきた、昼顔の花が咲いているなあと、庶民の日常生活の一こまを表現している。このようなありのままの庶民生活を詠んだ句も、一茶が新たに開拓した生活句であった[360]

社会的なテーマの句

一茶は若いころから国学に傾倒しており、日本びいきであった。一茶の日本びいきは一面では古典学習に見せた情熱へと繋がったが、その一方でロシア人が修交を求めて来航し、対外関係の緊張が感じられるようになると日本びいきはより強化され、日本を神国と称え、ロシアを貶める句を詠むようになった[361]

けふからは日本の雁ぞ楽に寝よ

北のシベリア、つまりロシアから渡って来た雁に対し「今日からは日本の雁だぞ、(安全な日本で)楽な気持ちで寝なさい」と、自国意識丸出して雁に呼び掛けた[362]

また、一茶は

桜さく大日本ぞ日本ぞ

のような、日本を称える句を晩年まで詠み続ける[363]

日本びいきの一茶にとって、日本は平和で繁栄し続けなければならなかった。平和で繁栄した社会を詠む句は、文政年間中期まで比較的多く見られる。しかし当時の日本は、実際には社会の矛盾が深まり、多くの農民、都市生活者たちはその日の生活に苦しみ、一揆や打ちこわしが頻発する社会不安が増大した時代であった。文化10年(1813年)、善光寺門前で打ちこわしが起きた年には

とく暮れよことしのやうな悪どしは

と、早く打ちこわしが起きたような悪い年が終わってくれないかと詠んだ[364]

また一茶はしばしば「世直し」を句に詠み込むようになった。

世が直るなほるとどでかい蛍かな

世が直る、直るといって大きな蛍が飛んでいくという句であるが、世直しが成就して、大きな蛍が闇夜を照らすように明るい世の中になって欲しいとの一茶の願望が込められていると考えられる[365]。またこの句は連句の中の句であり、連句の参加者から続けて、「下手のはなしの夜はすずしい」との句が付けられている。一茶は「世直しが起きるぞ!世の中が変わるぞ!!」と、下手な政治談議のようなことをよく話していた可能性がある[366]

一茶はまた、当時、幕藩体制における支配者であった大名などを批判する句を詠んでいる。

づぶ濡れの大名を見る炬燵かな

北国街道は加賀藩などの参勤交代のルートであった。この句は折からの雨で濡れ鼠になった大名行列をぬくぬくと炬燵に入りながら眺めている情景であり、一茶は冷たい雨の中でも隊列を組み、参勤交代の務めを果たさねばならない大名のことを皮肉っている[367]

しかし一茶は基本的には平均的な庶民感覚の持ち主であり、権力や権威への反感を思想化したり行動化することは無かった。一茶は閉塞感が強まりつつある社会の中で、なによりも己自身に執着してもっぱら自らの周りの世界に関心を深め、様々な句を詠んでいった[368]

句の背景

時代的背景

一茶が俳人として活躍した時代は、その駆け出し時代は田沼時代から寛政の改革が行われた頃になるが、主に活躍した時代は文化、文政年間、つまり化政文化の時代であった。厳しい引き締めが行われた寛政の改革期から徐々に綱紀は緩み、その中で都市ばかりではなく、地方にまで文化が広がっていった。また化政文化の時代になると、これまで文化を享受していた上流階層ばかりではなく、庶民にまで文化が広まっていった。俳諧もその例外ではなく、様々な形で大衆化が進んでいった[369]

一茶自身も文政3年(1820年)には

虫鳴くやわしらも口を持た(もった)とて

と詠み、俳諧の大衆化によって多くの人々がその恩恵を被ったとしている。句の中で虫とは一般大衆のたとえであり、一般大衆も口、つまり俳諧という自らの心を表現する手段を持ったと喜び、鳴いているという意味である[370]

文化の大衆化が進み、都市ばかりではなく地方にまで文化が広がり、化政文化が花開く一方で、幕藩体制の行き詰まりも明らかになりつつあった。文化の爛熟期とも言われる文化文政期はまた、都市や農村で貧困に苦しむ人々が増え、外国船の来航で対外的な緊張も徐々に高まるなどといった社会不安が増大し、閉塞感が高まりつつあった時代でもあった。閉塞感が高まりつつあった文化文政期と、江戸時代前期の闊達とした雰囲気が社会にあった時代に生きた芭蕉とでは、社会環境に極めて大きな違いがあった。この点からも一茶が芭蕉のような俳句を詠むことには大きな無理があった[371]

芭蕉や当時の俳壇との関係

一茶が俳人として活躍していた時代、俳句界では芭蕉のことを尊崇し、神格化が進められていた。例えば寛政3年(1791年)、白川伯王家から「桃青霊神」の神号が芭蕉に授与され、文化3年(1806年)には朝廷から「飛音明神」の神号を賜った。その一方で俳句の大衆化は俳壇の俗化をもたらしていた。芭蕉の名を借りた怪しげな由来書などが幅を利かせ、よく言えば平明、悪く言えば低俗な句作が横行するようになった[372]

芭蕉の神格化と俳壇の俗化は、互いにリンクして更なる問題を引き起こした。風雅趣味の固定である。平均した季題による均質化した句が大量生産され、ほとんどの俳人はその流れに飲み込まれていった。閉塞感が高まりつつある社会の中で、ほとんどの俳人たちは重苦しい時代に対峙しようとはせず、かといって己の姿や生き様を見つめなおして句を詠もうともせず、芭蕉の劣化コピーともいうべき句作に明け暮れた。一茶と同時代の名が通った俳人である夏目成美、鈴木道彦、建部巣兆らの作は、高い教養に基づく技巧的には完成度が高く、よくまとまった句を詠んだ。しかしそれぞれ生命感に乏しく、名前を入れ替えてみても通ってしまいそうな作品しか残せなかった[373]

一茶はこのような俳壇の中にあって一生涯芭蕉のことは敬っていた。俳諧に身を投じて以降、一茶は芭蕉の句作を学んだ。特に30代までの一茶の作品には芭蕉の影響が色濃い。しかし芭蕉と一茶とでは個性が大きく異なり、また時代背景も全く違う。やがて一茶は、一茶調と呼ばれるようになる独自の句作を押し進めていくことになる。芭蕉の存在は尊重しながらも、ある意味芭蕉離れ、芭蕉との訣別を経て、一茶は自らの俳句を詠むようになったと考えられている。当時進んでいた芭蕉の神格化についても追随していたとは考えにくい[374]

独自の俳風を確立していく中で、当時の俗に流れる俳壇の風潮が影響を与えた点も大きい。例えば俗語や口語、方言の多用は当時流行していた田舎風の俳諧との関連性が指摘できるし、また諷刺的な内容の句が見られることや季題を重要視しない点などは雑俳、そして川柳との類似性も認められる。また一茶の俳風に大きな影響を与えたと考えられるのが芭蕉以前の俳句であった。俳句のルーツともいうべき山崎宗鑑、そして貞門派談林派について学び、技術的には季の扱い方などを参考にし、そして俳諧が本来有していた滑稽の精神を蘇らせた。一茶の句作における挑戦は、当時の大衆化した俳壇のエネルギーを取り込むとともに、また一面では俳句の原点回帰でもあった[375]

また一茶の場合、当時の俳壇主流とは決定的に異なるのが、一茶は人間の肉声を句に詠んでいったことである。このような挑戦を可能としたのは、野性味溢れる一茶の個性と、人間生活全般に対する強い関心であった。一茶の挑戦は成功し、大衆化の反面、通俗化、マンネリ化が著しかった当時の俳壇にあって、真の生命感を持つ、独自の世界を句に詠むことに成功した[376]

浄土真宗の影響

一茶は浄土真宗の熱心な信者であり、一茶の俳句には浄土真宗の教えが大きな影響を与えていると考えられている。一茶の庵号である「俳諧寺」は、俳諧と浄土真宗の教えの両立を示していると見られている。浄土真宗の教えの中で、一茶の俳句に最も大きな影響を与えたのは「自然法爾」の思想である。「自然法爾」は浄土真宗の根幹をなす思想のひとつで、あるがままをそのまま受け入れる生き方、思想である。一茶の俳諧には、仕組まれ、図られたものよりもあるがままを、技巧よりも自然を良しとし、そして無為を重んじる姿勢が見られるが。これは「自然法爾」の教えの影響が大きいと考えられる[377]

また一茶を師匠とした一茶社中の運営方式も、浄土真宗の教えが大きく影響していた。一茶は当時の俗化著しい俳壇にある意味殴り込みをかけるような句作を行っていたが、反面、俳諧の大衆化に代表される庶民文化の隆盛が大きな意味を持っていることも理解していた。庶民の文化である俳諧に余計な権威付けは不要である。一茶は浄土真宗の教えにある、師も弟子も真理を追求する同志であるという、「御同朋」、「御同行」といった考え方に基づき、上下関係を否定して自由闊達な雰囲気で社中を運営していた[378]

浄土真宗の熱心な信者であった一茶ではあるが、僧侶の堕落した姿には手厳しい批判を加えた句を詠んでいる[379]。また最晩年の句である

花の影寝まじ未来が恐ろしき

から、未来(あの世)が恐ろしきとは、一茶は浄土真宗に対する深い信仰にもかかわらず、阿弥陀如来の姿を見て極楽往生を確信することは叶わなかったことを意味するのではとの意見もあるが[380]、一方、一茶は浄土真宗の教えを会得しており、この句は過去、現世そして未来に至るまで自力を否定することを唱えたものであるとの説もある[381]

影響、評価

影響

前述のように在世中の一茶は俳句界でその名が広く知られ、死後も知名度や人気は落ちなかった。一茶は化政期を代表する俳人としての評価を確立していた。しかし一茶の作風は当時の俳句界に広まることは無く、一茶社中の影響力も門人までに止まり、他の北信濃の有力俳諧結社ほどの影響力も残せなかった。このように江戸期における一茶の俳句界における影響力は限定的なものにとどまったと言える[382]

明治後期以降、一茶の句は俳句界の枠を超え、多くの人々に親しまれるようになった。そして芭蕉、蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳人であるとの評価も固まっていく。しかし近代俳句の主流が客観写生から精密かつ静的な花鳥諷詠へと移行していく中で、俳句界からは一茶の句は異端視され、一部を除いてその影響力は小さかった。近代俳句の中で一茶の影響を指摘できるのは村上鬼城である[† 18]。鬼城は生活苦と身体的な障害に苦しみながら、俳壇の主流とは大きく異なる優れた境涯句を詠み続けた。一茶の句と鬼城の句には類似点が多く指摘され、一茶の作風が鬼城に大きな影響を及ぼしたものとみられている[383]

いずれにしても一茶には高い知名度があり、更には芭蕉、蕪村と並ぶ傑出した個性、独自の俳風が認められているのにもかかわらず、芭蕉、蕪村と比較して俳壇、文学史に与えた影響力は小さかった[384]

批判的な意見

一茶の句については、特にプロの俳人たちから多くの批判を集めてきた。加藤楸邨は一茶ほど専門の俳人から反発を受けた例は少ないとしている[385]。一茶が世に持て囃されるのは俗情に訴えかけるからにすぎす、詩人としては低級であるという見方をされるのである[386]山本健吉も一茶の句にはあまりにも多くの私的な感情が含まれていて、これは一茶の句の汚点と感じられるとしている[387]

2万句を超える一茶の句の中には、上記のような批判を甘んじて受けざるを得ない句が相当数含まれている。加藤楸邨は一茶の句には詩的な共感ではなく、素材が持つ共感に振り回されてしまう句が見られると指摘している。また一茶の句が下手をすると単なる洒落に陥ってしまい、芸術の枠を飛び出しかねない危惧は、早くも師であり同志でもあった夏目成美が鋭く指摘していた[388]。一茶は擬態語や擬声語、擬音語、いわゆるオノマトペを多用している。しかしオノマトペを句に上手に生かすというよりも、句の中心に置いてしまう傾向がある。その結果、オノマトペに句全体が引きずられてしまい、余韻や余情に乏しい、詩的内容に欠ける作品が多く見られる[389]。もちろん一茶にとってオノマトペの多用に代表される俳句の表現方法における様々な挑戦は、型に嵌り切って窮屈なものになってしまっていた既成俳句の世界から脱出するための大きな武器になったが、反面、定型との厳しい葛藤を経ながら自らの作品を完成させていくという俳句本来の性質から遠ざかってしまうものでもあった[390]

栗山理一は、一茶は繊細な詩的センスを持ち合わせていながら、そのセンスを生かしてひとつの句を完成させるよりも、性急に句として完成させてしまう傾向を指摘している。様々な俳句の素材を貪欲に発掘し続けた一茶は、それら豊富な素材をパッチワークのように当てはめて、句を大量生産したと見ている。そのため一茶の作品における感性の出来不出来がはっきりと出てしまう結果となったとしている[391]

また一茶は高い次元での統一性を成立させることが無かったという指摘も見られる。栗山理一は一茶の句作は自然を純粋に見る目、諧謔をもてあそぶ姿勢、繊細な詩的センス、現実を見据えた情念など、様々な要素が混在したまま自己統一を図ることなく、もっぱら己の発想を強引に押し進め続けたとしている[392]。加藤楸邨もまた、一茶は歪んだ我執が強い感情と無垢な童心に分裂したまま、事物をその都度反射的に受け入れ、バラバラな形で自己を封じ込めた作品を作り続けたとしている[393]

生の俳人

江戸時代を代表する俳人として、「芭蕉、蕪村、一茶」の三名の名前を挙げる習慣がある。この記述は多くの文学書などに見られ、一茶が芭蕉、蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳人のひとりであるという評価は定着している。もちろん他にも優れた俳人は存在したが、この三名には他の俳人と比較して傑出した個性、独創的な作風があることは疑いようはない[394]

山下一海は、いわば江戸時代の俳人の三巨頭である芭蕉、蕪村、一茶の句の特徴をそれぞれ一字で表すと、芭蕉は「道」、蕪村は「芸」、そして一茶は「生」であるとしている[395]。津田左右吉、加藤楸邨、金子兜太ら、これまで多くの一茶についての論者は、生活、生命、生命感などといった一茶の句に見られる「生」に関わる事柄に着目してきた[396]。一茶に対して批判的な山本健吉も、一茶の句の生命的な強さは比類がないと評価している[387]

また一茶にとって俳句は人生そのものであったという指摘も見られる。荻原井泉水は一茶のことを寝ても起きても俳句を作らなくてはいられない「骨の髄まで俳人」であると評価し、丸山一彦もまた、一茶は死に至るまで意識、感覚をよぎる全てを手あたり次第に句に詠み続け、俳諧一筋に生き抜いたとしている。一茶の作品と「生」とは分かち難く結びついている[397]。また夏目漱石は「芭蕉は自然に行き、一茶は人に行く」と評している[398]

一茶の句の生命力の源として多くの論者が指摘するのが、農民気質、土への意識、生来の野生である。実際一茶が手に汗して田畑を耕したのは江戸に奉公へ出る以前の15歳以前のことであったが、最後まで農民気質、土への意識を失うことは無かった。栗山理一は一茶を貫く宿命的な土への愛着を指摘し、閉塞感が強まる社会の中で著しいマンネリ化に陥っていた俳壇に生来の野生、土着の性根でぶつかっていったと評価している[399]。加藤楸邨は一茶の中に息づいていた農民気質こそが一茶の句の生命力の源泉であると評価し[400]、丸山一彦もまた、一茶は大衆化の反面、低俗化や堕落が顕著となっていた俳壇のあり方に反発し、生来のたくましい野生、飽くこと無き人間生活全般に関する関心を原動力として強烈な自我、人間の生々しい肉声を句に反映させようと試み、成功したとしている[401]。そして水上勉は、一茶の生きざまは故郷の土と深く繋がっており、土俗の魂を抱きつつ、うめき続けた現世追求の修羅の人として句を詠み続けたとしている[402]

金子兜太は、一茶が詠む糞尿、放屁といった主題の句に嫌みが感じられず自然である点からも、やはり土や生き物を相手にしていく生業である農民魂を見いだしながら、それに加えて生きとし生けるものと共存、共感し、一体化していくアニミズム的なものを見ている[403]。一茶の句には万物の精霊に呼び掛けていく性格があるとの指摘は他にも見られ[404]渡邊弘は一茶の句の世界における、生きとし生けるもの全てに対する共生的な世界観に注目している[405]

一茶の俳句が生きることを主題としているといっても、もっともらしい理屈や人生論などに拠ったものでは無く、市井に生きる人々が日常感じているありのままの喜怒哀楽を句に詠んでいった。いわば一茶は生活の中から文学を生み出していったのであり、加藤楸邨は一茶の作には生身の人間から放射されるような体臭があり、それは鍛え抜かれたものから漂ってくる生命感ではなく、町で軒を並べて生活している人間同士で嗅ぎ合うような生の感触があるとしている[406]。丸山一彦は不幸続きであった生涯の影響を受けて一茶の作品には特異な歪みがあるが、これは生きる悲しみに深く根差した歪みであって、人の世の深さに触れる何かがあると評価している[407]

そして矢代静一は、一茶の句について孤高な文学者の作品などではなく、すぐそこに住む世俗的な一般庶民と同じく、地を這う人のものであるとした上で

一茶は、人生をてくてく歩みながら、肉声で句をものした凡庸にして非凡の人である。

と評価した[408]

連句について

一茶がメンバーの一員となっている連句の数は270巻以上確認されている。芭蕉は340巻、蕪村は112巻確認されているとされ、一茶が参加した連句の数は、芭蕉よりも少ないが蕪村よりは多い。しかし芭蕉、蕪村の連句に較べて一茶の連句に関する研究は遅れており、2013年の時点でいまだに全連句の評価、解釈が終わっていない[409]。また一茶の参加した連句においても、内容的に出来不出来がはっきりしているとされている[410]

連句とは五・七・五の長句と七・七の短句を交互に、参加者が一定の決まりに従って繋いでいく一種の共同作品である。江戸時代の俳諧師にとって連句は俳諧の王道とされており、中でも芭蕉は優れた力量を見せた。しかし俳句が庶民にまで広まった文化、文政期になると、他の参加メンバーとの共同作業、時には駆け引きや、煩瑣なルールの熟知が必要など力量、熟練を要する連句は徐々に敬遠されるようになり、発句、いわゆる五・七・五を詠む発句の会が中心となりだしていた[411]

270巻余りの一茶が参加メンバーとなった連句は、若い時期は先輩俳人のグループに参加させてもらった形のものが多く、江戸住まい後期の俳諧師としてある程度名が通るようになった時期は、夏目成美主催のグループの一員としてのものがほとんどである。そして一茶が郷里信濃で参加した連句は、宗匠である一茶がリーダーとなって連句を詠む形となっている。中でも郷里信濃で一茶がリーダーとなって詠んだ連句の数が最も多い。上記のように連句は煩瑣なルールがあるなどリーダーの場の捌きが重要となる性格があり、一茶が活躍した時期には下火となりつつあったが、俳諧の王道とされていた連句に最後まで積極的に取り組み続けた[412]

一茶が郷里、信濃で指導した連句では決まりごとを厳格に守るような詠み方はせず、内容的には郷土色豊かなものが見られる。この信濃で一茶が指導した連句は、内容的には芭蕉や蕪村のものと比較して文学的には見劣りするのは否めず。江戸で連句に熟達した夏目成美らと詠んだものと比較しても劣っているとの評価が一般的である。しかし終始孤独感が付きまとった一茶の人生において、郷土の気心が知れた門人たちと詠む連句はその孤独を癒すとともに、民衆のしたたかな活力、エネルギッシュな姿を生き生きと描き出しているとの意見もある[413]

記念館、一茶関連の行事

一茶記念館、一茶忌の行事

終戦後まもなく、地元柏原では一茶顕彰の機運が盛り上がり始めた。昭和21年(1946年)は一茶百二十回忌に当たり、時の柏原村長を中心として「俳諧寺一茶保存会」が新たに設立された。この昭和21年の一茶百二十回忌以降、毎年一茶の命日である11月19日に一茶忌の行事を行うようになった[414]

そして昭和26年(1951年)、一茶の百二十五回忌を記念して大法要、句碑建立、一茶俤堂(俳諧寺)の修理、記念出版、そして全国俳句大会が催された。この全国俳句大会は「俳諧寺一茶保存会」が主催となり、「科野」主催の俳人、栗生純夫らの協力を得て、毎年、一茶忌に行われる行事として定着する[415]。この一茶の百二十五回忌を記念して出版されたのが、一茶の研究書として重要視されている「一茶まつり」である[416]。そして一茶の百二十五回忌の記念事業として「俳諧寺一茶保存会」の財団法人化が目指され、昭和28年(1953年)、正式に財団法人として認可された[417]

一茶の命日である11月19日の一茶忌は、柏原(信濃町)では前述の全国俳句大会の他に、一茶の菩提寺、明専寺での法要、記念講演会の他に、地元の新そばがふるまわれる催しとなって、地元恒例の行事として定着する[418]。また昭和30年代頃から一茶俤堂(俳諧寺)の天井に、訪れた俳人に俳句の揮毫をしてもらう習慣となった。初期の頃の揮毫者には高浜虚子中村草田男山口誓子飯田龍太秋元不死男らの名前がある。なお、一茶俤堂(俳諧寺)には日光が入りどうしても退色してしまうため、平成15年(2003年)頃には古い揮毫については外して別の場所で保存し、一茶俤堂(俳諧寺)内には新しい揮毫を掲示することにした[419]

昭和32年(1957年)5月8日、一茶終焉の土蔵が「小林一茶旧宅」として国の史跡に指定された。史跡に指定されたことを記念して、信濃町は一茶旧宅の隣にあった弟、仙六が住んでいた家屋敷を購入した。そして同じく史跡指定記念事業として記念館の建設が計画され、昭和35年(1960年)9月19日、小丸山公園内の一茶俤堂(俳諧寺)の隣地に一茶記念館がオープンする[420]

史跡に指定された一茶終焉の土蔵であるが、正確な建築年代は不明ながら史跡指定時には既に約築250年と推定されており、柱や土台が腐り倒壊の可能性が指摘されていた。そこで昭和38年度(1963年度)、昭和39年度(1964年度)と解体修理工事が行われた。土蔵の解体修理は平成13年(2001年)から14年(2002年)にかけても行われ、一茶の死去直前に発生した柏原の大火後の仮住まいとして囲炉裏を切り、土蔵の壁面に小さな明り取りの窓を一つ設けた、一茶生前時の姿に復元されている[421]。一方、一茶記念館の運営主体であった財団法人俳諧寺一茶保存会は平成13年(2001年)3月に解散となり、事業は信濃町に引き継がれた。そして一茶記念館についても新館の建設工事が行われ、平成15年(2003年)4月5日、一茶記念館新館と小林一茶旧宅の解体修理工事の竣工式が行われた。一茶記念館では書や遺品、書籍など多くの一茶関連の資料を保存、展示しており、また一茶研究事業を行っている[422]

地元柏原以外の資料館など

一茶の資料館は故郷、長野県信濃町以外でも建設されている。長野県高山村では、「父の終焉日記」など一茶の門人であった久保田春耕が所蔵していた一茶の遺墨や、一茶が活躍した江戸時代後期の北信濃の文化についてなどを紹介する展示を行っている一茶ゆかりの里 一茶館が、平成8年(1996年)にオープンしている。また一茶ゆかりの里 一茶館には、一茶も滞在した久保田家の離れ家が移築されている[423]

一茶の下総方面の俳諧行脚先のひとつで、一茶と親密であった秋元双樹宅があった千葉県流山市では、平成2年(1990年)、旧秋元家を「小林一茶寄寓先」として市の史跡に指定した。流山市では旧秋元家を解体、復元工事を実施し、茶室や庭園を整備して平成7年(1995年)、一茶双樹記念館[424][425] としてオープンした。一茶双樹記念館では秋元家の家業であったみりん関連の資料とともに一茶にまつわる俳句資料が展示され、流山市民の句会や茶会などにも利用されている[426]

また東京都足立区竹ノ塚の炎天寺では、昭和37年(1962年)から一茶まつりを行っており、また小動物や子どもを詠んだ一茶の句が子どもの情操教育に役立つという見地から、翌昭和38年(1963年)以降一茶まつりの中で、全国小中学生俳句大会を開催している[427]。そして平成24年(2012年)までに全国に一茶の句碑が合計348基、建立されていることが確認されている[428]

脚注: 320-

以下の数字に319を加えた番号が脚注番号

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  4.  渡邊(2015)p.4
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  6.  栗山(1976)p.301、玉城(2013)p.556、金子(2014)Ⅵ
  7.  玉城(2013)pp.57-58、青木(2013b)p.48
  8.  玉城(2013)p.336
  9.  加藤(2001)p.55、青木(2012)p.14、金子(2014)Ⅵ
  10.  荻原(1952b)p.321
  11.  加藤(2001)pp.54-55
  12.  小林(2002)p.89、青木(2012)p.13
  13.  栗山(1976)pp.300-301
  14.  矢羽(1994)pp.180-189
  15.  丸山(2000)pp.16-17、加藤(2001)pp.35-42、小林(2002)pp.252-253
  16.  丸山(2000)pp.17-19、矢羽(2004)pp.166-174
  17.  前田(1990)pp.101-102、pp.113-114、小林(2002)pp.252-253
  18.  栗山(1976)pp.340-341、小林(2002)pp.252-253
  19.  丸山(2000)p.18、p.41、加藤(2001)pp.199-200、金子(2012)pp.169-170
  20.  栗山(1976)pp.294-296、加藤(2001)pp.186-187、玉城(2013)pp.56-57、金子(2014)pp.95-96
  21.  玉城(2013)p.492、金子(2014)pp.177-178
  22.  丸山(2000)pp.56-62、矢羽(2004)p.174
  23.  小林(2002)p.92、pp.211-225 、矢羽(1995)pp.17-19
  24.  矢羽(1995)pp.18-19、玉城(2013)p.453
  25.  栗山(1976)pp.270-274、丸山(2000)pp.40-41
  26.  栗山(1976)pp.287-289、水上(1976)p.486、丸山(2000)pp.77-78
  27.  栗山(1976)pp.287-289、矢羽(2004)p.176
  28.  小林(2002)p.252、矢羽(2004)p.194、渡邊(2015)pp.220-231
  29.  栗山(1976)p.311、丸山(2000)p.63、加藤(2001)pp.173-175
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