いつか名もない魚になる

小栗(おぐり) (しょう)

この文章の主人公は凭也(ヒョーヤ)といいます。彼は自分が認知症の患者だと思い込んでおり、十年あまり治療を受けています。治療といっても、月に一度担当の女性医師を訪ね、以前または最近書いたメモや撮影した写真を見せながら、それについて彼女あるいは記録係と約二時間やり取りするだけです。凭也が治療のため病院に通い始めたころ、記録係は同じ病院の事務部に勤めていました。夏が終わろうとするころだったと思います。記録係が病院の食堂で食事をとっていると、同じテーブルの向かい側に凭也がすわりました。その一ヵ月後に二人はまた同じ場所で会いました。さらに一ヵ月後、また同じ食堂の同じ場所で会ったので、たがいに相手のことを変に時間と場所に几帳面きちょうめんな人だと感じました。

その翌週、凭也の担当医だという神経内科の女性医師が記録係のところにやって来て、凭也が診療中に記録係について話したと伝えました。よほど印象に残ったようで、名札をみて名前を記憶したらしいというのです。診療中に記録係について話すことがその後も続いたので、その医師は記録係に診療に同席して話の内容を記録するように依頼しました。彼女によれば、ちょうどそのころ記録係にも認知症の初期症状が表れていたようです。ただ、凭也と違って記録係には自覚症状がまったくありませんでした。記録係が診療に同席し認知症患者に接することで自らの症状を自覚できる、彼女はそう考えたようです。

以下の文章は、凭也のメモと彼が診療中に話した内容をもとに医師と記録係がその記憶世界を年代ごとに時間軸に沿って整理したものです。彼が話した順に時期区分ごとの時間軸に沿って編集しました。この記録をもとに医師は、凭也が認知症を発症していたと考え、それ以前に認知症特有の風景の揺らぎと時間軸のずれを生じていた可能性も否定していません。彼の場合もそうですが、認知症の患者は記憶をすべて失うわけではないようです。最近の記憶は定着しませんが、過去の記憶と情景は鮮明に保存されています。この記録では、風景と時間軸のつながりが不確かになり、未来を含め自分の年表のどこに風景の記憶が保存されているのか特定できない症状を認知症とします。患者には自覚症状がある人とない人がいます。症状が進行すると、自分がいま時間軸のどこにいるかわからなくなり、身近の人々が誰かも不明になります。

担当医の所見によれば、凭也は「ンヴィニ教」(便利・好都合を意味するコンヴィニエンスに由来する)に執拗な関心を寄せ、敵愾心てきがいしんさえ抱いていたようです。その教徒「ンヴィーニ」について長年観察を重ね、彼らの生態と自分を含む認知症患者の症状に共通するものを追究していたと考えられます。以下、「ンヴィニ教」と「ンヴィーニ」に関する叙述が多いのはそのためです。

[この記録が書かれた時期は二〇三〇年、場所は日本島の都会です。大半は凭也(ヒョーヤ)のメモからの引用ですが、記録係の時間軸が二〇二〇年で止まっているためか、よく理解できない記述が少なくありません。後半で記録係の意識において彼と凭也の境界が曖昧になり、記録の文体が乱れます]

老人たちとの再会

一月か二月の冷え込んだ日の午前中だった。日本島の首都の中心部にあり、その象徴ともいえるグローブ(球体の意)駅構内はいつものように多くの人で混み合っていた。みな一様(いちよう)にうつむいて手のひらを見ながら歩き、人や物にぶつかると頭を上げる。通路の壁ぎわに止まって見ていると、人々の動作はどこか機械的でロボットのようだ。その雑踏のなかに一瞬、むかし車イスに乗って球戯の審判をしていた老人を見たような気がした。いや、ゴー()沿いに走る列車の老人だったかもしれない。彼らが同一人物だったかどうかも不確かなのだ。いや、二人だったかもしれない。

二〇二〇年代を通じて車イスはすべて電動式になり、都会では軽自動車に取って代わるほどになった。どこでも多くの人が軽快に乗り回していたから、三〇年当時、車イスは特に珍しい光景ではない。いつもなら気にも止めないが、目に止まった車イスには四五十年ほど前に見た老人とそっくりな人が乗っていた。ただ、半世紀前の彼(ら)が生きているはずはない。打ち消そうとするが、何かがそうさせない。考えあぐねているあいだに、彼(ら)の強い引力に引かれ、そのあとを追っていた。その容姿と顔を見て必死に記憶の断片を拾おうとするが、思い出せない。二十歳の青年が七十歳の老人になるほどの年数が()っているのだ、と言い聞かせながらも、何が彼(ら)を同一人物と思わせるのか不思議でならない。

一九八〇年の夏、動くンヴィニ教寺院の三号車の老人は車イスに乗っていた。九〇年の晩秋、H市の列車で出会った老人は大股(おおまた)で歩いた。いま目の前にいる彼(ら)は上下とも黒い服を着ていて、当時と同じように白髪(はくはつ)が目立つ。彼らが同一人物だとすれば、百歳を超しているはずだが、一見して七十歳前後でむかしとあまり変わらない。ただ、以前の活気がなく、ひどくやつれて見えた。違う人ではないか、そう思いつつも車イスのあとを追った。グローブ駅の地下道を人々は軍靴(ぐんか)のような(くつ)音を響かせて行進し、車イスにぶつかっては横を過ぎ、小動物の群れのようにエスカレータに吸い込まれていった。人の集団が見えなくなると、構内はいっとき静けさを取り戻し、彼(ら)の車イスのモーター音と靴音が静かに響く。彼(ら)は長いエスカレータに乗って上がって行く。車イスはしっかりエスカレータに()み合い安定して水平に保たれ、彼(ら)は身動き一つせずに運ばれていく。

彼(ら)が乗っていた段が最上段に達すると、車イスはスムーズに放たれる。さらに進んで地上に通じるゲートを通過すると、かん高い電子音が鳴り、彼(ら)はひどく(おび)えた。すべてのゲートの出入りが記録されることを彼(ら)は知っている。日本島の住人は、短期滞在の異教徒を含め、この管理体制から(のが)れられない。島内にいる人々の行動がすべて監視されていた。長い通路を進んで地上に出ると、彼(ら)は道路の向かい側にそびえ立つガウディ建築さながらの高層ビルをめざす。駅構内からここまでずっとバリアフリーだから、車イスの動きが(とどこお)ることはない。車イスはビルの一階に突き出した建物にさっと入って行った。さまざまな品物を置いた(たな)が、人と車イスが通れるスペースを空けて並んでいる、巨大な倉庫のような空間の一角にテーブルとイスが置いてあり、カウンターも備えている。二千年ごろから日本島の津々浦々に普及したンヴィニ教寺院の典型的な建築様式だ。

死にゆく人々

冬の日の正午近く、ンヴィニ教寺院は老若男女で(にぎ)わい、みな棚のまわりを歩き回りながら祈りを捧げている。二〇二〇年代の後半、寺院は人々の求める欲望だけでなく、金融や郵便から葬儀まで扱うようになった。たとえば、最も簡素な葬儀は、寺院の他の物品とともに座棺(ざかん)式の厚手ビニール袋で出棺(しゅっかん)され、トラックに乗せられて河川敷まで運ばれ、川の流れに沈める河葬(かそう)だった。異教徒も同じようにトラックで運ばれ、粗大ごみと一緒にゴミ処理場で火葬(かそう)された。その手配も寺院が行った。多くの殺人事件が河葬(かそう)()して行われ、行方不明者が増加する弊害もあった。人々は不安のなかで生活したが、それを恐れる人は(まれ)だ。彼らにはコンヴィニエンスの負の側面が見えないからだ。この日、彼(ら)はンヴィニ教寺院の棚にあった食料を二つ車イスのサイドバックに入れると、入口近くに立っている浅黒い肌の女性に会釈(えしゃく)し、入って来たドアから出ていった。そのときまた電子音が鳴る。ここでも出入りが記録され、彼(ら)が保有するドット数から布施(ふせ)した額が引かれた。ンヴィーニの出生から死亡まで、あらゆる行動がドット数とともに記録され保存されたのだ。

[ドット数は二〇〇〇年代初めのポイント数とは比較にならないほど深く人々の命運に関わる数値と考えられたようです。その一部は経済力と呼ばれ、寿命の長短に関係するとも考えられました。ンヴィニ教で賽銭(さいせん)箱の役割を果たす自販機(じはんき)もドット数と関係します。記録係には迷信としか思われませんが、ンヴィーニは信じて疑わなかったようです。そんな彼らもなす(すべ)がなかったのが自死者の増加です。多くは何かをきっかけに突然ドット数が低下し自死行為に及びます]

都市部も地方部も自死者が増え、特に高齢者に多かった。高い自死率はどの宗派にとっても好ましくないので、司祭たちは何とかして減らそうとしたが、止めようがない。どこかで誰かが自死を図ると、地域ごとに寺院を統括する寺院センターに連絡が入り、最寄りのセンターの司祭が立ち会って検死する。ただし、自死のなかで最も多い鉄道自殺の場合は違った。地下鉄や列車の先頭車両はセンサーを備え、豪雪地帯のラッセル車に似た(ふた)つき運搬ネット装置を取り付けていた。線路上や側溝(そっこう)に倒れている人を発見すると、すぐに装置が作動し、体をすくい上げて(ふた)(おお)う。同時に高濃度の高圧洗浄液で事故現場の周辺を洗浄する。そのまま最寄りの集配センターのある駅まで運び、そこで司祭が生死の確認を行う。いずれの場合も延命措置は(ほどこ)さない。自死者の意思を重んじるといえなくもないが、鉄道の場合は事故に伴う電車の遅延を最小限に抑えるのが主な理由だった。以前は事故現場の検証のために時間を要し一時間以上運行が止まることも珍しくなかったからだ。処理時間は大幅に短縮されたが、問題がなかったわけではない。自死か他殺かを究明する現場検証が(はぶ)かれ、犯罪の温床(おんしょう)となったからだ。

寺院センターの内部

彼(ら)は、ロビー階にンヴィニ教寺院のある、この地区の寺院センターに入って行った。階層は、ロビーを含む(ゼロ)層・十層・二十層から七十層・八十+(プラス)層まで九層ある。各層には零階から九階(八十+層は零から九+階)まで階があって、ンヴィーニはそれぞれの年齢階層に行く。零層と十層の各階には教徒の保護者も同行でき、他の階層も介護人や後見人などは同行できる。高齢者たちは年齢に応じてセンターの七十層または八十+層に出入りしたが、三年以上勤めた司祭は、どこへでも自由に出入りできた。

ロビーから最上階層まで吹き抜けで、ロビー階から見上げると、巨大な深い井戸の底にいるように見える。このビルは、地域の人口動態グラフを立体化した形状を持ち、人口動態に応じて定期的に外装を改修した。円形ロビーの周縁部には階層ごとのドアがずらっと並び、信者たちは、それぞれの階層に通じるドアに入っていく。自分の階層でないドアの前に立つと、立っている人も車イスの人も風圧でロビーの中央に押し戻される。ロビーの床は黒と白の正方形を交互に配したアルゼンチンタンゴのサロンと同じチェック模様だ。グローブ駅のドームの床と同じだ。

ビルの各階にはその階に応じた年齢の人々が保有するスペースがある。彼(ら)もンヴィーニだったようで、寺院とロビー階のほか自分の年齢の階層に行くことができる。彼(ら)の階層は七十層四階であった。夜間の時間帯を除き、信者たちがドット数を獲得する仕事あるいは自習や遊戯の場を提供した。ビルの内部はいつも温度と湿度が一定に保たれ、夏は涼しく冬は暖かいので季節感がない。人々は定温・定湿の人工的な状態を望んだ。

[三〇年当時、日本島の大半の人々がンヴィーニだった、と凭也は解釈しています。一九七〇年代を通じてンヴィニ教寺院が増え続け、二〇年には飽和状態に達したようです。寺院のない辺鄙(へんぴ)な場所や何の変哲(へんてつ)もない住宅地に自販機が置かれ、単なる賽銭(さいせん)箱ではなく地域の人々を(まつ)(びょう)を兼ねたといいます。自販機内部も常に一定の温度に保たれました]

季節がないのは寺院センターやンヴィニ教寺院だけではない。電車は当然ながら、地下鉄は道路下のトンネル内を走行するため、乗客は外の景色を見ることなく、外気すら感じようがない。快適な環境を最も必要としたのは老人たちで、生死に関わる問題だった。七十層四階には数百名がスペースを持っていた。当時の人口動態を反映し、他の階層より広いスペースが確保されている。人々が生まれると、それぞれの遺伝子情報にもとづいて三次元符号が与えられる。この符号は日本島のあらゆる生物と人々を識別できるので、人々には個人名が必要ない。ロビーの周縁に並ぶエレベータのドアも生体認証によって人々を監視している。老人たちは毎日このビルに通い、ほとんど会話を交わすことなく、黙々と手のひらを見つめた。人々の保有スペースはサイバー上にあり手の指で操作できた。自分のスペースに入ると、日々の仕事が与えられ、ほとんどの作業は手のひらの上で行われる。その対価として些少のドット数を得た。

寺院センターの各階には必ず回転ドアがあった。自死を望む者が司祭による意思確認を()て、そのドアを通過すると、外側に飛び降り用の台が設けられている。回転ドアが回るあいだに自死を思いとどまった人を戻すためなのだが、戻る人はほとんどいない。自死者が落下する場所はセンターの周囲を流れる川で、底知れぬ深い谷があった。落下した体は肉食魚類の餌食(えじき)になり、濁流(だくりゅう)にのまれて太い骨だけが谷底に沈んだ。ふだんプラスチックの破片ばかり食べていた(うを)たちは、ヒトの肉を(むさぼ)()らった。

手のひらを見つめる人々

人々は睡眠を除くほとんどの時間、手のひらを見て過ごした。歩くとき、電車や地下鉄の到着を待つとき、電車の車内、エスカレータに乗っているとき、便座にすわっているとき、食事中、時間つぶしなど、家にいるときも外出先でも、いつも手のひらを見つめていた。車を運転するときや自転車に乗るときも手のひらを見ることをやめなかった。歩くとき、人々は手のひらを自分に向け(ひじ)を九十度曲げて歩いた。駅構内の至るところで、手のひらを見ながら歩かないように注意するが、従う者はいない。手のひらに保存された写真や動画を含むデータに自分だけの領域を見いだし、好きなニュースやマンガを読み、ゲームに興じて時間を費やすことが大半の人々の日常になった。歩きながら事故に()う人も多く、駅ホームから線路に転落する人も絶えなかった。

[三〇年までにスマホが画期的変化を遂げ、スマフォと呼ばれるようになったようです。二〇年代と違って、手のひら自体がその機能を果たしたらしいのです。医師と記録係には想像しにくいのですが、凭也は診察中にそれらしい動作をすることがありました。スマホを手に持っていないのに、あたかも手のひらにあるように操作し、熱心に説明するのです]

左の手のひらを指でこすると、左手にスマフォ画面が立ち上がり、両方の手のひらを合わせてこすると両手に画面が表示される。画面サイズの拡大縮小もできる。スマフォの下辺が手首に接し、画面全体が手のひらの上に浮いて見える。画面はいつも見やすい角度に保たれ、指を立てたりそらせたりして画面の角度を自在に調整できる。画面の解像度がはるかに向上し、以前ほどのぞき込む必要がない。立ち上げたスマフォ画面を消すには、もう一度手のひらをこすればよい。体の一部がスマフォになった感覚なので、置き忘れや落下の心配はなく、倒れて手のひらをついたときは自動的に消える。生体の新陳代謝にもとづく微弱電流を利用したからバッテリーもいらない。カメラのレンズ機能は人差し指か中指の爪に納められ、シャッターは同じ指の指先にあって、親指の指先で軽く押すだけだ。録音用のマイクとスピーカー機能も指先にあり、入力は音声か指で行われる。音声入力の場合は手のひらを口の近くに持ってきて小声で話せばいいし、手のひらに反対の手の指で文字を書けば文字入力もできる。手のひらをかざすだけで、別紙に書いた文章や画像をスキャンできる。手洗いや入浴時には画面を消せば、ただの手のひらになる。手のひらにプロジェクション・マッピングされた旧型のスマホ画面を想像すればよい。

ただ、スマフォが普及するにつれ、人々はますます自閉し、他者の意見を聞かなくなった。自分の体の一部に映し出されるものを自分だと思い込んだ人々は自分の手のひらばかりを見た。入力も電話も手のひらに向かうだけで、写真も動画も自在に撮れたから、盗撮(とうさつ)がさらに巧妙化した。周囲も他者も(かえりみ)ない、自閉症とスマフォ依存症を合併した症状を持つ人が(ちまた)(あふ)れた。二〇二〇年代はじめに新型コロナウイルス感染症が世界中に猛威をふるい、外出が禁止された時期の状態が日常化したのだ。親子を含む家族内の衝突が増え、親が殺され、子が虐待(ぎゃくたい)される事件が多発した。自分の利益を守り正当化するのに汲々(きゅうきゅう)とする人が増え、職場や学校でもいじめや殺傷事件がふつうになった。さらに禁句が増えて自由な会話が制限され、人々が口にする言葉が空疎(くうそ)になった。

[コロナ後の数年間、官製マスクの着用が義務づけられ、言論封じ込め手段の一つとして日本島の支配層に利用されたことがありますが、それが常態化したのです]

スマフォの普及とともに、旧支配層による無宗教派の取り込みが一気に加速される。二〇年代後半には、旧テレビも旧新聞もスマフォに取って代わられ、これら旧メディアの入っていた高層ビルが無用の長物と化し、ンヴィニ教を含む無宗教派の寺院や教会のセンターに変貌していく。センターの一階に旧コーヒーショップやコンビニに似たスペースがあるのはその名残(なごり)である。

曖昧になった性差

無宗教派の隆盛に伴い司祭の数も増えていた。かつてンヴィニ教の司祭の多くは男性だった。その後、他の無宗教派の人々から批判を受けて女性の司祭を増やし、二〇二五年には男女比がほぼ等しくなる。教義を持たないンヴィニ教では数字が重要な役割を果たすから、女性比率五十%という数字が大事だった。女性司祭が増える前から異教徒の司祭が男女ともに急増していた。二〇年には異教徒を制度内に組み込むが、ンヴィニ教が異教徒に寛容だったわけではない。明文化された教義がないから、外部の圧力が高まって抑えきれなくなると、仕方なしに受け入れるだけである。

[凭也によれば、二〇年のコロナ禍をきっかけに三〇年までに公衆衛生と男女の性意識に大きな変化が生じたようです]

公衆トイレの便器は西洋式で、半個室のブースに一つずつ置かれている。半個室には、壁に沿って並んだ左右のブースのあいだに二メートルほどの高さの間仕切りがあるだけで、天板とドアがない。水槽タンクはなく、ただ便座が置かれている。利用者は、従来型のように壁を背にせず、壁面に向かってブース内の便座にすわる。利用者の背後にドアはなく、人が二人すれ違えるほどの通路があるだけだ。通路側からは利用者の背中とお尻が見える。ほとんどの利用者は壁に向かって手のひらを見つめている。誰かが便座にすわると、そのブースの換気扇とライトが作動する。男性は小用のときも便座に腰をおろすから、男子専用の小便器はない。男女別の公衆トイレは必要なくなったのだ。

[三〇年までに日本島の農業は有機農法に転じ、排泄(はいせつ)された糞尿(ふんにょう)は瞬時に脱水されて粉末状になり堆肥(たいひ)として再処理されたそうです。水洗トイレがなくなり、水槽タンクは無用の長物になったのです。そういえば、都会でも水洗トイレが普及する前は肥溜(こえだ)め式でした。脱水トイレへの移行を促したのは、二〇年末に日本島全域を次々と襲った日本島大震災だったそうです。日本島でも、二十世紀にはトイレも浴場も男女で区分されていました。さらに(さかのぼ)れば、地方の温泉や湯治場(とうじば)などは男女混浴で、十九世紀以前は一般の浴場も混浴だったといわれます。十九世紀後半に入って、異教の教えに押されて混浴が非文明的とされ、しだいに別浴になった、と凭也はいいます。混浴を経験した者が別浴に移行するのはさほどむずかしくないでしょうが、別浴に慣れた者が混浴に戻るのはかなり抵抗があります。二千年代に入って、人々は急速に性的な羞恥(しゅうち)心を失いますが、そんな彼らでも混浴を定着させるのに時間を要し、普及には地域差があったようです。当時は過渡期にあった、と凭也はいいます]

老人たちは毎日、公衆浴場を利用したが、ここの出入りも監視された。だだっ広いところに老若男女が全裸ですわり、体を洗い流して髪を洗っている。小さな浴槽に一緒に入る男女もいる。サバンナで動物の群れが水浴びする光景を想像すればよい。所詮(しょせん)、ヒトも動物なのだ。浴場でも彼らはあまり口をきかない。ときどき子どもの泣き声が響いた。人々は手のひらから解放されたかったのかもしれない。定温・定湿の環境になれた彼らは、高温・多湿の浴場で心地よい刺激を受けた。それ以上に十九世紀への郷愁が強かったに違いない。

[凭也はンヴィーニの恋愛感情についても興味深い観察をしています]

ンヴィーニには、男と女・女と女・男と男のあいだの自由恋愛が許されていた。特異に思われるのは、少なからぬ恋愛が動く寺院のなかで生まれたことだろう。ラッシュ時に、男と女・女と女・男と男が体を密着したときの感触から愛着が生まれる。恋愛感情は視覚からめばえると考える人が多いが、日本島ではそういう恋愛は多くない。一部の昆虫に見られるように、触覚から性愛に移るのだった。触覚から生まれる恋愛感情を信じない人でも、皮膚感覚から性愛を連想することはできるかもしれない。ただ、恋愛感情のめばえたカップルの接触は、あくまで表皮における触れあいであり、すぐ交合に至ることはない。視覚から恋愛感情を抱く人には理解しにくいだろうが、触覚恋愛では接触しているだけで恋愛が完結する。アルゼンチンタンゴを踊っているときの擬似(ぎじ)恋愛に通じるものがある。

[凭也によると、日本島は二十世紀後半を通じて温帯に属していたのに、二〇年代に入って急激に気温と湿度が上昇し、三〇年には亜熱帯性の気候になったといいます]

老人たちは毎日のように近くの寺院センターに通った。そこは外界から遮断され、かつての温帯の環境が保持されていた。問題は、彼らがそれぞれの住居にいるときと、ンヴィニ教寺院や寺院センターに行くために地上の電車や地下鉄の駅構内に入るまでの区間だった。実際、寺院と住居の往き来に疲れ、途中で倒れる人が少なくなかった。行き倒れになると、荼毘(だび)にふされることもなく、河川敷までトラックで運ばれ、川に流される。最も簡素なンヴィニ教の葬儀と同じだった。

潮騒とタンゴ

[老人たちが通う寺院センターに地域住民が利用する広場があり、凭也はよくここにやって来て、大勢で踊りながら時計と反対方向に回るミロンガの輪に入ったといいます]

地上階の出入り口は回転ドアで、ビルの地下二階から地上三階まで五階層が吹き抜けになっている。毎夜、その広場にどこからともなく老人たちが集まり、明けがたまでアルゼンチンタンゴを踊った。ンヴィーニだけでなく異教徒もいた。子どもたちの騒々しい声もなく、人々の会話や電話のやり取りもない空間にタンゴの曲が響きわたる。

[老人たちはまた、ときに無性に海に()がれて海辺に行ったそうです。潮騒(しおさい)を聞き、繰り返し打ち寄せる波を体感しようとして、近くの海岸に行くのです。ある日の明けがた、凭也と老人たちがいた浜辺に、背の低い見覚えのある人たちが大挙して近づいて来ました。彼らは一人また一人と()きおこり、波に乗って押し寄せたのです。みな無表情の笑みを浮かべ、凭也と老人たちをどこかに誘いました。老人たちがそれに応じるのをためらっているあいだに夜が明け、彼らは跡形(あとかた)もなく消え去りました。その日、老人たちはテントに戻っても眠りにつけず、全身が麻痺(まひ)したような感覚に襲われたそうです]

海辺に行った数日後、老人たちは同じフロアの女性司祭たちを誘い、深夜に寺院センターに向かった。午前一時を過ぎ、電車も地下鉄も運転していないが、グローブ駅のドームには煌々(こうこう)と明かりがついていた。ところが、寺院センターのロビーに着くと、彼らがその前に立つだけで開くはずの七十層のドアがびくともしない。一度もなかったことなので、老人は(ばく)とした不安に押しつぶされそうになった。しばらくして、ドームの天井から耳をつんざくような怒声が響いた。それは人の声というより動物の()え声のようで、その不気味(ぶきみ)さが不安をあおり、老人たちと女性司祭たちはいても立ってもいられなかった。

息の詰まるような時間が続いたあと、突然、アルゼンチンタンゴの歌声が大音量で流れてきた。まるで、誰かが上空で歌っているようだった。そのとき、老人たちと司祭たちは寺院センターのロビーにいたはずだが、あるいはグローブ駅のドームだったかもしれない。どちらにせよ、いつもとは違う荘厳なタンゴの曲が響いていた。何度か七十層のドアに向かうが、そのたびに引き戻され、あとずさりさせられた。いくらあがいても近づけない。動転した老人たちと司祭たちは力尽きてロビーの中央で腰をおろしてしまった。まわりを見回すと、ほかにも数百人いや数千人の人々が集まっていた。

そのときだった。凭也の追っていた老人がいつも乗り込んでいた七十層のドア近くが急に暗転し、別のドアが開いて彼らを招くように見えた。ドアはふつうのスライド式ではなく、回転式だった。ロビーの中央にすわり込んでいた人々は、その回転ドアに向かって進み、吸い込まれるようにして次から次へと入って行った。回転ドアが止まると、数千人は()せたであろう巨大なエレベータがゆっくりと静かに地底に降りていった。地底に行った者は二度と地上に戻れないといわれるが、そんなことはどうでもよかった。スライド式であれ回転式であれ、ドアが開けば乗り込むしかない、そんな強制力がロビーに集まった全員に作用したようだ。電車のドアに向かって我先に突進するンヴィーニあるいは異教徒たちの習性がそうさせたのだ。

葬送の回送電車

[ここはどこなのだ。記録係と凭也の境界がぼやけていました。目に見える風景はこれまでと同じなのに何かが違う。音楽もよく聞いたものなのに、どこか不確かで頼りないのです。寺院センターのようであり、グローブ駅のロビーのようでもあります。確かなのは巨大に明るい広場に老人たちが溢れていること、いや、老若男女というべきで、肌の色を異にする異教徒も大勢いる。みな一様に無表情で微笑を浮かべている]

凭也は一人の老人を追い、彼と周囲の人々の行動を観察してきたはずだが、いつのころからか、一人が複数に見え、また一人に戻ることが起きるようになった。この錯覚がしだいに増え、追っていたはずの老人たちを急に見失うこともあり、不安を(つの)らせていた。急にめまいに襲われることもあった。

[同じころ、記録係も似たような症状に悩まされていました。凭也の治療の記録を作成する仕事が以前のようには進まなかった。これまで一人の患者として見ていた凭也に親近感を覚えるようになった。記録係の認知症が進行し、彼を近しく感じたのかもしれません。どこかで何かを失ったようなのに、それが何でいつだったか、どこで起きたのかわからない、そんな状態に陥ることがあったのです]

寺院センターかグローブ駅のロビーでタンゴを夜通し踊るミロンガが開かれていた深夜、回送列車が単線の線路の上をゆっくり動いていた。ヘッドライトに照らされたレールと枕木のあいだに外来種の雑草がおい茂り、線路の両側にゴミが堆積している。運転手は二本のレールに沿って電車を動かし、車掌は誰もいない車内に向かって説教する。漆黒(しっこく)(やみ)のなか、回送電車がゆっくり今にも止まりそうな速度で動いている。

ガッターンドットーン、ドッターンゴットーン、ダッターンゴットーンドットーン、ゴットーンダッターンドットーンガッターン

踏み切りのまん中に立って電車の最後部に光る紅い球状の照明を見ていると、踏切と電車のあいだでンヴィーニと異教徒たちがからみあい(もた)れ合いながら蜃気楼(しんきろう)のように揺れて踊っている。電車の行く手には断崖(だんがい)が迫り、はるか遠くに列車のヘッドライトが照らすトンネルの入り口が小さく見える。レールの先は川のように蛇行(だこう)し下降している。

[何だか変です。凭也ではなく、彼の記憶世界を記録するはずの記録係は、自分がその風景を見ているような気がしています。そんなことが起こるはずはない。この回送電車は回転ドアの向こうにあった数千人乗りのエレベータではないか。だとすれば、乗っていた人々はどこへ行ったのだ。回転ドアを通ってエレベータに乗り込んだ老人たちや若い男女、子どもと司祭たち、同行したはずの凭也はどこに行ったのだろう]

名もない魚の群れ

回送電車の場面から数年後、誰も凭也のことを話さなくなり、彼は忘れられた人になりました。なのに、記録係だけは彼の呪縛(じゅばく)から逃げられなかった。凭也が老人たちの引力に(あらが)えなかったように、彼の強い引力に(とら)われ、身動きが取れないのです。

凭也のテントがあった橋に行っても、二〇二〇年の洪水でテントも家具類も跡形もなく流されていました。彼が通った寺院センターのロビーや寺院に何度となく通いましたが、凭也の痕跡は何一つ残されていない。記録係はンヴィニ教を含むいろいろな無宗教派の寺院や教会で過ごすことが多くなりました。初夏のころ、ある教会のカウンター席でスマホを操作しながらガラス窓越しに外を見ると、強風が渦巻いて街路樹の枝を激しく揺らしていた。上空には黒々とした雲がすさまじい勢いで飛んでいる。何か不吉なことが起きるかもしれない。でも教会にいる限り心配はないはずだった。無宗教派は誰でも受け入れるのだから。

「いらっしゃいませ、ご入会ですか……かしこまりました……以上でよろしいですか……カードで……タッチお願いします……失礼いたします……ご入会は二年ごとに更新されます」

若い女の司祭が、語頭にアクセントのある異教徒らしい抑揚で改宗者を相手に機械的なやり取りを繰り返している。実に無駄のないやり取りだ。ちなみに、入会するかどうか尋ねるのは、見学だけの人々が少なくないからだ。この同じセリフの繰り返しが耳について記録係は耐えられない。

ヒューポーヒューポーヒューポーヒュー、ポヒューポーヒューポヒューポーヒュー、ポーヒューポヒュー

教会を出ようとしてドアに近づくと、一台の救急車が大音量のサイレンを鳴らしながら近づき、敷地内に入って停まった。二人の救急隊員がタンカを下ろしてどこかに消え、しばらくすると、タンカの上に一人の老人を()せて戻ってきた。一瞬、その人に見覚えがあると思ったが、定かでない。タンカに近づこうとしたが、(あお)白い顔色の人が誰かわからない。

教会を出ると、記録係は川沿いの道を歩き始めました。タンカで運ばれていった老人のことを思い出そうとしながら、小一時間歩いた。一休みしようと川辺(かわべ)のベンチに腰をおろし、濁った川面(かわも)を見ているうちに眠りに落ちました。どれくらい経ったのか、(うを)が飛び上がって水面に落ちる音で目がさめたのです。川面を見ると、凭也の顔をした(うを)が無表情の笑いを浮かべている。瞬間、はたと気づいた。タンカで運ばれていった人は彼が追いかけていた老人の一人だった。

凭也は回送電車に乗っていたに違いない。あれはンヴィーニの葬送儀礼だったのだ。彼らはその電車から川に落とされ、(うを)餌食(えじき)になったはずだ。彼がかつて話していたことだが、河葬(かそう)で葬られた人々は(うを)になる、その意味がようやく理解できた。そして、彼が(うを)になったと知るや止めどなく(なみだ)が溢れ、いつしか嗚咽(おえつ)に変わった。

川の(うを)になった凭也はどんな世界に住んでいるのだろう。川のなかは静かだろうか、あるいは騒音に溢れているのだろうか。ヒトの死骸があると(うを)たちがひしめき合って波立つのだろうか。無表情の笑いを(たた)えた彼は、川辺でテント生活をしていたときのように洪水に(おび)えながら生きているのだろうか。記録係は(うを)になった彼を見て、(とが)った顔の表情になぜか安堵(あんど)しました。その日以来、同じ川辺に毎日のように出かけ、ベンチに腰かけて川面を見つめながら過ごすことが多くなりました。

あれほどンヴィーニを嫌っていた凭也は、なぜ執拗に観察を続けたのだろう。ンヴィーニや異教徒たちに囲まれ、怒りながら生きていた彼はいったい何者だったのだろう。(うを)になった彼は川の流れに(あらが)い、あくせく泳いでいるのだろうか。川底でゆっくり休んでいるのだろうか。(うを)になった凭也と次のやりとりをしたように思われますが、定かではありません。

「ねえ君、水中の生活は陰鬱でも不自由でもないよ、君たちの想像をはるかに超えて明るく()んでいる。いろんな方角から多彩な光が差し込んでキラキラ輝いている。水中はいつも滔々(とうとう)とうねってビートを打っている。そんな色と音とうねりに合わせて(うを)たちがアルゼンチンタンゴを舞うんだ。毎晩ミロンガも開かれる。急がなくていいけれど、早くこっちにやって来たまえ」

「そうだね、まだ十年ぐらいこちらにいたいと思うけれど、どうせ僕の希望など聞いてくれないだろうから、すぐに会えるかもしれない」

ヒョーヤー、ヒョオヤー、ヒョーオオヤー、ヒョオオオーヤー、ヒョーオオオーヤー

繰り返し凭也の名前を呼んだ。数百とも数千とも思われる(うを)が数匹あるいは数十匹ずつ(かたまり)になって()み合い、飛び()ね、ぶつかりながら、黒々とした濁流となって、反時計回りに渦巻いている。そんな情景が記録係の頭に浮かんだ。これこそが(うを)たちのタンゴの舞いなのだ。そう確信した瞬間、彼はあっけなく渦巻に()み込まれてしまった。

その後十年ほど()つが、記録係を見たという人の話を聞かない。

わきびとたち

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