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異界に逝った老人

老人と再会したあと、凭也は以前とは違う不安に(おそ)われました。この不安が彼を彼女から遠ざけ、列車には乗らないで地下鉄を利用するようにさせました。二人のあいだに感情のもつれがあったわけではなく、一方的に遠ざけたのです。

ある朝、凭也がいつものように地下鉄のW駅で降りようとすると、勢いよく乗り込んできた男にぶつかって倒れそうになりました。バランスを取り戻して顔を上げると、立ちふさがったのは例の老人です。凭也は足がすくみ、またしてもその引力に(とら)われました。地下鉄の車内に押しもどされ、そのまま彼について博物館駅まで行きました。博物館の前で彼と並んで腰をおろし、しばらく空を見上げていましたが、開館するとすぐ彼のあとについて館内に入りました。仏教壁画に囲まれた薄暗いドーム状のホールに着くと、老人は歩みを止め、中央に配された雲崗(うんこう)石仏を思わせる仏像の前で祈る姿勢をとったまま動かなくなりました。洞窟(どうくつ)のような静けさに包まれ、八九世紀の仏教隆盛(りゅうせい)期にいるような錯覚を覚えました。しばらくすると、仏像を見つめていた凭也の目から(なみだ)がこぼれ、やがて嗚咽(おえつ)に変わりました。少年のころ、母方の祖父の葬儀場で似た経験をしたことがあります。

[祖父は孫のなかでも僕を特にかわいがってくれた。母が末娘だったからだろうか。ときどき家に来ては庭の草取りをし、垣根(かきね)のヒバを()ってくれた。高校受験のためA市に行ったのも祖父と二人だった。最後の蒸気機関車の旅だった。汽車がトンネルに入ると(すす)が入ってきて、祖父があわてて窓枠をおろした。あのときの祖父の笑顔、煤でざらざらした木の窓枠、学生服の袖口から出た白いシャツ、汽笛の音のなかにそんな映像が浮かぶ。地方の農村で育った祖父は若いころ田畑を処分して夫妻で上京し、上野駅構内でスリに襲われて、全財産を失った。途方(とほう)にくれた祖父はバナナのたたき売りから始め、上野のほおずき市や植木市を転々として、(もう)けの多い植木と生花商に落ち着いた。一緒にふろに入ると、(かめ)の子たわしでごしごし背中を洗わされた。どんなに力を入れても痛いと言わない。よく笑いながら僕を(しか)ったが、僕も笑っている。そんな祖父と目の前の老人がどこかでつながっている]

博物館に入って、かなり時間が()っていました。少し落ち着きを取り戻して周囲を見回すと、目の前にいたはずの老人がいません。仏像の裏側に回ってもいないのです。W駅の雑踏で見失ったときと同じく、彼は忽然と消えました。もう一度正面に回って仏像を見上げたとき、凭也は信じがたい光景を見ました。巨大な仏像に従う従者のようにして老人が立っているのです。(まぶた)をこすってもう一度見ると、それは漆喰(しっくい)の修行僧の立像(りつぞう)で、まちがいなく彼の姿をとどめ、やさしくほほ笑んでいます。初めて彼に会ったときの忘我(ぼうが)状態と浅黒い肌の女性の唇を奪ったときの感触が一瞬よぎりました。修行僧に向かって合掌(がっしょう)していると、老人と女性が遠く去って行く姿が浮かびました。

わきびとたち

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