凭れ合う人びと・隠れンヴィーニたち
この小説の主人公は凭也(ヒョーヤ)といいます。凭也は自分が認知症の患者だと思っており、十年あまり治療を受けています。治療といっても、月に一度、担当医を訪ね、以前または最近書いたメモや写真を見せながら、それについて担当医あるいは記録係の筆者と約一時間やり取りするだけです。彼と筆者は二十年ほど前から知り合いです。
以下の文章は、凭也のメモと治療中に彼が話した内容をもとに担当医と筆者が彼の記憶世界を時間軸に沿って整理したものです。凭也が話した順に記録していますが、時期が前後するため読みにくくなっています。なお、彼はこの記録以外の時期について語っておらず、メモも提出していません。
この記録をもとに担当医は、遅くとも一九九〇年には凭也が認知症を発症していたと考え、それ以前に認知症特有の風景の揺らぎと時間軸のずれを生じていた可能性も認めています。ちなみに、認知症患者はすべての記憶を失うわけではありません。最近の記憶が定着しないだけで、過去の記憶とその情景は鮮明に保存されています。
この小説では、認知症の特徴を風景と時間軸のつながりが不確かになり、未来を含め自分の年表のどこに風景の記憶が保存されているか特定できない状態として捉えます。患者には自覚症状がある人とない人がいます。症状が進行すると、自分がいま時間軸のどこにいるかわからなくなり、身近の人々が誰かも不明になります。なお、情景と光景を区別し、情景を心象風景の同義語として用います。光景は感情移入を伴わない景色そのものをいい、情景と光景を合わせて風景と呼びます。日常よく使われる景色は光景に近いといえます。
また、担当医の所見によれば、凭也は彼自身、少年期に信者だったと考える「ンヴィニ教」(コンヴィニエンスに由来する)に執拗な関心を寄せ、敵愾心さえ抱いていたようです。その教徒「ンヴィーニ」について長年観察を重ね、彼らの生態と認知症患者の症状に共通するものを追究していたと考えられます。以下、「ンヴィニ教」と「ンヴィーニ」に関する叙述が多いのはそのためです。凭也のメモと口述内容を整理していると、筆者も教徒ではないか、と思うことがよくあります。
1. 電車という名の寺院
第一章に記録された時代は一九八〇年代です。担当医は、凭也(ヒョーヤ)の口述記録やメモにもとづいて、八〇年代後半から九〇年にかけて彼の意識内で認知症特有の時間軸の揺らぎが生じていただろうといいます。この章の記録にそのような兆しは認められませんが、ンヴィーニに対する彼の執拗な関心に尋常でないものを感じる読者もいると思います。
ラッシュアワー
電車の発車を知らせる電子音が、駅のホームの上方からけたたましい音量で鳴り響く。ホームには出入口が二ヵ所あり、階段とエスカレータでそれぞれ上の階と下の階に通じている。それぞれを駆けおり駆けあがる人々の群れが電子音にせき立てられるように停車中の電車に向かって疾走する。がっしりした体格の男、乳房を揺らす女、子どもの手を引く母親、息が切れそうな老人、蒼白い顔の勤め人など、さまざまな人々が一斉に発車直前の電車に殺到する。
電車に乗り込むと、人々はその日の新聞や好きな本を読み、それぞれの内面に沈潜する。会話を交わす人々は、彼らにしかわからない言葉を話し、まわりの人々が理解できないことをひそかに喜ぶ。あるいは、当時多くの都会で流行していた音楽付きイヤホンをして、自分を外界から遮断する。イヤホンからもれる音は周囲の人々には騒音でしかないが、彼らは不快に感じながらも、ひたすら我慢する。彼らのあいだでは他人に向かって敵対的な態度をとることが許されない。他者に対して自分の感情を抑えることが習性となり、不快感すらも内面に閉じこめてしまう。こうして彼らは自分を守るために、自己と他者を隔てる特異な防御法を発達させた。
凭也によれば、その発達を促したのは無宗教派の「ンヴィニ教」です。この無宗教派において、外界はすべてその信仰を反映したものと考えられます。周囲の世界が(無)信仰によって人々の内面に取り込まれた結果、現実界と人々の関係は断ち切られました。「ンヴィーニ」たちは自分たちが取り込んだ外界だけを信じ、他の世界を認めようとしないし認められない、と凭也はいい、彼らの妄信が数世代に及んでいるといいます。
ンヴィニ教の寺院は、電車網が広がっている地域の至るところに設けられ、数棟並ぶことも珍しくなかったそうです。ンヴィニ教にも他の宗教と同じようにいくつか有力な宗派があり、都市部では電車の便のよいところに宗派を異にする寺院が軒を連ねたからです。ちなみに、凭也がいう「寺院」とは読者の多くが想像する厳かな神社や寺院または教会ではありません。二十世紀後半から日本島を席捲したコンヴィニエンス・ストアにきわめてよく似た建造物です。以下、彼の観察が続きます。
鉄道の駅構内には各宗派の小さな分院が置かれ、日々大量生産される新聞や雑誌を人々に供給していた。これらの印刷物を通じて、人々は自分たちの精神世界が不断に豊かになると信じている。同じ分院には、小型の固形食料や液体飲料が護符(お守り)として売られている。駅構内だけでなく、ほとんどあらゆる地域の至るところに自販機と呼ばれる賽銭箱が置かれ、人々はささやかな寄付の見返りとして缶入り飲料やタバコを受け取った。これらの行為は宗教行為と考えられ、日常生活にきわめて巧妙に組み込まれていた。ただ、その巧妙さゆえに、人々は自分たちが信仰にもとづいて行動していることを意識しないし、できない。ひたすら無信仰だと思い込んでいる。
凭(もた)れ合う人びと
駅のホームに立っているだけで、じっとり汗ばんでくる、暑い夏の日の朝だった。ラッシュ時の電車に乗り込んだ人々はみな立ったままだ。車内には座席がなく、ガラス窓付き冷蔵貨物車のような列車だった。そこで彼らは密生した樹々のように体を接して凭れ合い、かろうじて倒れないでいる。車内の温度は低く保たれ、夏だというのに寒いくらいだ。大きな冷蔵庫のような車内で、人々は押し黙ったまま湖底の藻のように揺れる。電車が停止する前後に各車両は大きく揺れ、人々はひときわ激しくからみ合う。
一号車のあちこちで男と女、男と男、女と女の組み合わせが車両の揺れに体をあずけ、不器用な愛撫をくり返している。その周囲に寄生植物のように人々が群がり、電車の速度が変化するたびに生じる揺れやカーブするときの揺れに抗しながら、じっと立っている。ただ、みな体を接するだけで、偶然隣り合わせになった以上の関係はない。
人々は特異に発達した触覚によって同性や異性間のからみ合いを感じるといわれるが、決して周囲の人や物を見ないし感じようとしない。自分のまわりの平穏が失われることを極度に恐れ、手にした本や新聞・雑誌が作り出す自分の世界に沈潜しようとする。読み物を持たない人々は車両内部の天井と側面に掲示された文字や写真を鑑賞し、音楽付きイヤホンをして窓外の景色を見ている。車内にはイヤホンからもれる雑音や何組かの人々の交わす会話、ときどき割り込んでくるけたたましい音量の車内放送が交錯している。
そこは、ステンレス鋼やガラスで造られた電車という名の大きな箱型の伽藍であった。人々は電車を寺院の一部とみなし、その運転にたずさわる人を崇めて、絶大な権限を与えていた。一人は先頭の車両にいて電車を操縦する運転手で、その意のままに連結された全車両がレールの上を運行する。もう一人は最後尾の車両にいる車掌で、車内放送を通じて延々と説教をした。人々は時おり聞こえてくる放送をほとんど聞かないが、人々の行動は知らず知らずのうちに毎日くり返される説教の内容に支配されていた。
球戯に興じる老人たち
平日の昼さがり、三号車ではソフトボール大の紅白のボールが一つずつ、車両の揺れにつれて車体の床を不規則にころがっている。電車の進行方向に沿って両側に配された横長の座席に、老人たちが曲がった腰をいたわるようにして、窓枠を背にすわっている。立っている人はいない。彼らはもう車両の揺れに抗して立ち続けることも支え合うこともできない。
箱型の車両の中央あたり、進行方向の左右両側に複数のドアがあり、そこには座席がない。両側のドアのあいだに車イスが一台ブレーキを掛けて止まっている。車イスに乗った浅黒い顔の老人が審判役を務めていた。頭髪もあごひげも白い老人は七十歳ぐらいに見える。怒ったような形相をしているが、どこか少年の人なつっこさを感じさせる、印象に残る老人だった。
電車の進行方向の左右いずれの座席にすわるかによって、老人たちは紅白二チームに分かれ、二つのボールと彼らだけの球戯に熱中している。ボールが自分たちの足もとに近づくと慌てて床から足を上げるのだが、何人かは座席からずり落ちそうになる。座席から落ちたり、相手チームのボールが足に触れると減点され、相手方の得点になる。自分のチームのボールが近づいたときは、審判の車イスをめざして足蹴りするが、力のない老人には至難の技だ。
脚を上げるたびに、老人たちは同じチームのメンバーとともに陽気な喚声をあげた。それぞれのチームのボールが審判の車イスの下を通過すると加点され、両チームの得点数が壁の画面に表示された。二つのボールは電車の速度変化や車両の揺れに応じて不規則にころがった。老人たちは近くに来た自分のチームのボールを足で蹴るほか、ボールの動きにいっさい関与できない。ボールの運動は電車の揺れに依存し、老人たちの動きはボールの動きに依存していた。
電車の発着時やカーブを曲がるとき、二つのボールは激しくころがり、老人たちの興奮も最高潮に達した。電車が停車しているときは座席の上に総立ちになって大声をあげるなど、他のスポーツ競技の観客と変わらない熱狂ぶりだ。その興奮ぶりを目立たせたのは、球戯に参加しないで死んだように眠っている数人の老人だった。ただし、眠っている老人も座席の位置によっていずれかのチームに属したから、彼らの足もとにボールが近づくと、隣りの人があわててその脚を持ち上げる。老々介護そのままだが、彼らはおかしくてたまらない。
停車中、三号車に乗り込む人はいない。車両は老人以外の乗客を拒絶する独特の熱気をはらんでいて、ドアの上にしめ縄こそないが、紙垂(しで)がさがっていた。老人たちはほかのンヴィーニから明らかに遊離していた。彼らに確たる行き先はなく、紅白の球戯に没頭するしかない。そんな老人たちも偶然隣り合わせただけの関係だったから、電車を降りれば他人同士だ。電車の揺れにつれて人々が凭れ合うのと老々介護という違いこそあれ、いずれも電車の運行と揺れに身を委ねることに変わりはない。
排斥される異教徒
ンヴィーニたちはみな身分証明を兼ねた数次パスを持っている。父母のいずれかが電車の運行区域内に生まれ育ち、自らも同じ地域で生まれた者に与えられるもので、電車を利用するのに必要だった。地域外の出身者が電車を利用するには、ンヴィニ教寺院に一定額を寄付して一次パスを取得しなければならない。数次パスの保持者は、電車の駅のゲートを通過するとき、それを読み取り装置に挿入するだけでよいが、一次パスの保持者は係官のいる専用ゲートを通らなければならない。こうして異教徒を差別したが、ゲートを通過して駅構内に入ってしまえば、何の区別もない。それぞれ階段やエスカレータをへてホームに行き、行きたい方面行きの電車に乗るだけだ。
凭也は電車やンヴィニ教寺院によく出入りし、その光景を鋭く観察しています。特にンヴィ-ニの異教徒に対する態度に注目しているように見えます。
ンヴィーニと異教徒は混ざり合うことがない。肌の色や体臭、毛髪から体形、言葉、衣服などで異なることはひと目でわかるから、異教徒とみなされた人々は多数派のンヴィーニに囲まれ、その視線を浴びることになる。それをはねつけようとして、異教徒たちは大きな声で話し、徒党を組んで自己防衛する。
四号車には、ンヴィーニに混ざってアジア系の若い男女が数名ずつ、人々から少し離れたところに立っていた。彼らはンヴィーニたちと同じ黄色の肌と黒髪を持ち、胴長の体形をしていた。一つのグループは強い語調の抑揚ある言葉を、別のグループは柔らかい高低のない言葉を話したが、いずれも大声で周囲の人々の視線を浴びた。ンヴィーニたちは、少しでも異質な者に敏感に身構える。たとい同じンヴィーニであっても、一般の教徒に判読できない文字の新聞を読んでいると、刺すような視線を感じたほどだ。
肌と毛髪の違いが一見して明らかな南アジア系やアフリカ系の人々に対しても同じだったが、欧米系の人々に対するンヴィーニの対応は違った。言葉を理解できないことも体臭についても南アジア系やアフリカ系の人々と同じなのに、欧米系の人々に対する態度はどこかおどおどしている。
彼らが使うアルファベットに対する感覚も敬虔そのもので、至るところにその文字が溢れていた。ンヴィーニたちの衣服や所持品の多くも、もとは欧米系の嗜好や習性を取り入れたものなのに、もはや外来のものとは考えられていない。他方、ンヴィニ教の信仰の基層にはアジア系の多数民族が使う象形文字が織り込まれ、あらゆる印刷物に使われていた。当然、その文化も組み込まれているが、ンヴィーニはそのいずれをも意識できない。ひたすら異教徒との違いを強調し、独自性を誇っていた。
ンヴィニ教寺院は表立って外部の者や異教徒を排斥しない。寺院の主たる目的が寄付(金銭)によって入手できる物的または精神的・肉体的な欲望の充足にあったからだ。異教徒も含め、人々の欲望は幼いころから物心両面で矯正され矮小化されており、金銭でまかなえる範囲の欲望を入手する限り、寺院に入ることは許された。
その店内ならぬ境内に陳列された物からその時々に欲しい供物を手に取り、デジタル処理という儀式を受けて、寄付金を支払うだけだった。この単純な儀式によって人々は欲望と幸福感を満たされた。一連の儀式に言葉は必要なく、ンヴィニ教は消極的な意味で超言語性という世界宗教の条件を備えていた。寺院の伽藍はいつも彼らが好む音楽と説教放送で満たされ、多数派の宗派の信徒たちが話す複数の言語でくり返し帰依をすすめた。
サイレント車両
五号車はサイレント車両または禁音車と呼ばれ、車内での飲食のほか、会話や音の発生を禁じていた。他の車両のような車内放送はなく、音楽付きイヤホンも使えない。がらんとした車内には電車の車輪とレールがぶつかる音と摩擦から生じる金属音やモーター音が低く響いた。
車両のドアとガラス窓はすべて二重で、ドアは停車中でも開かないから、ホームの電子音や外部の騒音もほとんど車内に届かない。乗客は隣りの四号車または六号車の車両との連結部を通って乗り降りした。連結部のドアは一メートルほど離れて二枚あり、いずれか一方は常に閉まっている。隣りの車両から侵入する音を遮るためだ。紙に印刷された読み物が禁じられ、車内の壁には文字も写真も掲示されず、動画も禁じられている。他の車両がどんなに混んでいても、この車両にはほとんど乗客がいない。数えるばかりの人はみな座席にすわって外の風景を追っていた。
この車両にいる限り、異教徒というだけの理由で排斥されることはない。ただ、サイレント車両に長い時間いられる人は滅多にいない。たいていの人はしばらくすると、隣りの車両に移動する。車内に何の掲示もなく印刷物も読めず、車内放送もない静けさに耐えられないのだ。なお、一九八〇年代において、スマホはまださほど普及していない。
ンヴィーニの特徴の一つは音に対する寛容さというより鈍感さだ。車内放送やホームの電子音だけではない。電車そのものが巨大な騒音を発し、それが通過するとレール周辺の地面が揺れた。周辺住民もまたンヴィーニだったから、車内の乗客と同じで、騒音や震動に対し不快感をあらわにしない。車内放送が電車の発着前後に同じ文言の説教をくり返しても、ホームの上のほうから大音量でくり返し同じメロディが流れても人々は意に介さなかった。
この感覚的な麻痺症状ゆえに、人々は短時間でも何の刺激もない車内にいることを拷問と感じたのだろう、と凭也は推測しています。逆に、自分たちに理解できないほど騒音に神経質な者を異常者とみなした、と彼は自己弁護しているようにもみえます。できる限りサイレント車両を利用した彼は、停車中ほとんど音の聞こえないサイレント車両から駅のホームでうごめく人々を見て、その滑稽さを嘲笑っています。人々がサイレント車両の静けさに耐えられないのは、日常的にテレヴィから流れる音と映像に浸っていたからだ、と凭也はいいます。彼はンヴィニ教の象徴ともいうべきテレヴィに対して敵愾心を持っていたようです。
スモーカー車両
六号車にはタバコの煙が霧のように立ちこめ、車内にはヤニの臭いが充満していた。床のところどころにタバコの吸い殻が散らかり、人々がその近くを歩くと散らばった。車内の壁にはタバコの効用を記したポスターを掲げ、片隅にタバコの害の警告文が添えてあった。車内のすべてのものにヤニの臭いがしみつき、全体が黄ばんで見えた。壁の目立つところに禁煙マークを掲げているが、黄ばんで見えにくい。そもそも、どんな警告文やマークがあっても、この車両の乗客は意に介さない。多くが非識字者だったようだ。なお、六号車以外の車両はすべて禁煙車両だった。
駅のホームにタバコの吸い殻を捨てないように注意する掲示があっても、守らない人が多い。彼らは注意文を読んで一応理解できるが、実行しないという意味で非識字者だった。これはンヴィーニの言語コミュニケーションが貧しいことと関係している。彼らは基本的な意思疎通にきわめて消極的だったし、みずから領域を狭め、外に対する意識をなくしていったのだ。
駅構内だけでなく、線路の周辺にも道路わきにもタバコの吸い殻やゴミがたまった。人々は自分の住居や敷地以外の場所を汚すことを何とも思わないから、自分の領域外はどこもゴミ捨て場になった。領域内をきれいにすることは域外を汚すことだった。人々が降り立つことのない線路わきが特に汚れたのは、そこが誰にとっても域外だったからである。
タバコの製造販売は規制されていたが、ンヴィニ教寺院には規制が及ばないから、棚にはいつもタバコが並んでいる。タバコも寄付の見返りとして得られるから、罪意識など持つはずがない。ンヴィーニには男女とも喫煙者が少なくなかった。ムダを嫌う便利主義にもとづくもので、タバコを吸っていれば何か考えごとをしているような気分になれたからだろう。
周囲の人々は健康を害される不快感をいだきながら、吸いたくない煙を吸わされた。それだけではない。騒音や排気ガス、工場の煤煙、由々しきは放射能にも寛容だった。彼らの生活そのものがこれら汚染源のうえになり立ち、それらを取り除くことは生活の便利さや快適さを失うことを意味したからだ。タバコの煙も騒音もやがて消えるし、いつまでも消えない放射能は目に見えない。目に見えないものや形を持たないものを捕捉できないのだ。
寺院以外でも、自販機という賽銭箱に少額の寄付を投げ入れれば、タバコを入手できた。飲んだあとに空きカンを捨て、読み終えた新聞雑誌を車内に置いたように、彼らはタバコの吸い殻を捨てた。ひとたび満足感を得れば、残りかすに用はない。年月の経過とともに、人々の周囲にはタバコの吸い殻やゴミと排泄物が堆積されていった。それが目に見え、異臭を放つようになっても、彼らの行動は変わらなかった。
スモーカーを含むンヴィーニに対して敵愾心を持っていた凭也は、異教徒にも怒りの感情を抱いていたようです。凭也は、タバコを吸うことが多くの無宗教派や他の宗派において宗教儀礼だったとも考えています。タバコを吸うこと自体に精神的な効用があるとでも考えたようだ、と酷評しています。
テレヴィという名の祭壇
ンヴィーニたちはいたるところにテレヴィを設置したようです。住居、自家用車、電車やバスの車内、飛行機の機内、空港ターミナル、学校の教室、ホテルの個室、病院のベッドなどに大小のテレヴィが置かれ、どの家にも一台はテレヴィがあったといいます。病気で入院したときも、よほどの重体でない限り、テレヴィなしでは過ごせない彼らは、テレヴィが伝える社会のようすと司祭たちの言葉を聞かないと不安だったともいいます。凭也はさらに観察を続けます。
七号車の壁に埋め込まれたテレヴィに向かって人々が祈っている。テレヴィとは電子機器であり、日本島で一九六〇年代に普及したテレヴィジョンのことだ。ンヴィニ教は無宗教の一宗派で汎神教の一種だから、信仰の対象はさまざまだった。信者の数だけ神々がいたといってもよい。それらの神々を小さな箱に納めるために考案されたのがテレヴィで、電子装置によってあらゆる神々を祀ることができた。祈りを捧げるときはもちろん、それ以外のときも人々はテレヴィから流れる音を聞き、映像を見るともなしに見た。
テレヴィに表れる神々(といっても人間である)には、特に人気のある者がいて、よく画面に登場した。新聞雑誌も神々ならぬ人々のシンポジウムから醜聞に至るまでさまざまな記事を掲載した。ンヴィーニたちは電車の壁に表示される雑誌の目次を読んでは、それらを寺院や分院で入手して読む。人々は神々を崇めるだけでなく、喜怒哀楽を共にする親近感ある存在に仕立てたのだ。
テレヴィには複数のチャンネルを選択する装置が付いており、人々は自分の好みでチャンネルを選ぶことができた。この選択行為はまったく個人の好き嫌いと気分に委ねられている。ンヴィーニはこれを信教の自由と称し、自画自賛した。新聞雑誌が神々の動向を取材して掲載することは表現の自由の一部として認められた。彼らには、自由に行動していると思えることほど大事なことはなかった。
凭也はそんな彼らを嗤うゆえにンヴィーニから侮られ、相手にされなかったようです。彼自身はその原因を認知症に求めていますが、別の要因があったとも考えられます。筆者は凭也が恐らく異教徒の末裔だったと考えており、ンヴィーニに対する複雑な感情の淵源も彼の幼児期における被差別体験にあったと推察しています。
ンヴィーニの子どもたち
夏の日の夕暮どきだった。電車が駅に停車してドアが開くとすぐ、ホームで待機していた子どもたちが、降りようとする人々のあいだをすり抜け、一斉に車内へ駆け込んできた。空席の取りあいゲームに興じているのだ。同時に一つの座席に着こうとした二人の子どもが口論を始め、取っ組みあいのけんかになった。周囲にいた人々はただ遠巻きに見るばかりで、関わらない。別のところでは、「席がない」と叫んで子どもが泣いている。いくら親があやしても泣きやまなかった子どもが、近くの婦人が席を空けるや、とたんに泣きやんだ。子どもたちは泣き続ければ席にありつけることをよく知っており、人々もそれを容認した。
ンヴィーニのあいだでは、子どもが必要以上に甘やかされた。彼らがもっとも純真な信者と考えられたからで、混みあっている車内でも、子どもたちはわがもの顔にふるまった。かん高い声でしゃべりまくり、背中のカバンを周囲にぶつけながら人々のあいだを抜け、車両から車両へと移動して遊んだ。子どもたちは樹々のあいだをすり抜ける小動物のように、球戯車両やサイレント車両、スモーカー車両を除くどの車両にも出没した。
子どもたちが時として、ほとんど発作的に奔放にふるまうことがあった。車両に彼ら同世代の者しか乗っていない、たとえば夏休みの午後の時間などだ。こんなとき、子どもたちは首輪を外された犬のようにはしゃぎ回った。学校や家庭にいるあいだ、彼らに勝手な行動は許されない。子どもたちにはそういう束縛に対する反抗心が隠されていた。彼らだけで行動するとき、その隠れていた衝動を表したのだ。
子どもたちはまた、よく学校近くの寺院に出入りした。彼らの好きなスナックやマンガ本を入手できたからだ。彼らは、教科書・参考書・マンガ本など、さまざまな形の書物に書かれた内容に沿って行動し、電車に乗っているあいだもムダのない行動をとった。子どもたちはまた、家にいるとき、よくテレヴィに向かった。彼らの好きなアニメの主人公たちが登場したからだ。
一方、外部者を排斥するやりかたは、子どもたちのほうが露骨だった。彼らは同世代の者であっても異質な者を決して容赦しない。いじめと呼ばれた集団行動が広く蔓延していた。子どもたちは学校の行きかえりにゴミを投げ、ガムを吐き捨てて、飲みほした空きカンを捨てた。置き去りにされた空きカンが車内の床を転がるようすは、老人たちの球戯のボールそっくりだった。
八号車には小学生らしい子どもとその親たちが乗っていた。どの子も凛々しい顔をしているが、頭の形が一様にまん丸く無表情だ。背中に同じ色と形のカバンを背負っているから、一人一人を区別するのがむずかしい。子どもたちはたいてい二三人のグループでかたまり、かん高い声でにぎやかにしゃべり続けるか、スナックを取り出しては口を動かしている。ゲームに夢中な子もいる。
凭也によれば、ンヴィーニたちは頭蓋骨の形状を丸くすることで頭がよくなると信じていたようです。どの親も自分の子どもの頭がよくなることを願い、子どもたちは一日の大半を学校という施設で過ごし、そこで団体訓練を通じて頭の形状を徹底して丸く整形されたのです。親たちはそれで満足することなく、さまざまな整頭術を求めたといいます。学習塾や予備校と呼ばれた施設における訓練もその延長上にあり、子どもたちは学校が休みの日も喜んでこれらの施設に通ったそうです。施設では、さまざまな手法を用いて頭を丸くするための訓練を施したといいます。凭也はンヴィーニのなかでも特に子どもたちを嫌っていたようで、次のメモを残しています。
角張った形の頭は嫌われ、人々から蔑まれて、電車の車内でも敬遠された。人々が密集する車内では、とがった頭はほかの人々に危害を与える恐れがあると考えられた。だから、頭蓋が柔らかい少年期に頭の形状を整えて丸くしようとした。そのガイドとして参考書やノウハウ本が大量に発行され、どんな小さな寺院も宗旨にあった出版物を置いていた。子どもたちは、同世代の者がみな同じ行動をとっているという、単純ながら、彼らにとってきわめて重大な理由にもとづいて、そうしなければならないと信じた。
2. 二〇三〇年のメモ
第二章では主に凭也(ヒョーヤ)のメモから抜粋して引用します。時期は二〇三〇年と記され、彼の時間軸は大きく揺らいでいます。他方、筆者の時間軸は未来に向かって同期できないので、メモの内容を十分に理解できない点があります。そういう部分を含め、凭也が記述したとおり記載していることを付記しておきます。
浅黒い顔の老人
一月か二月の冷え込んだ日の午前中だった。日本島の首都の中心部にあるグローブ(球状の意)駅構内はいつものように多くの人で混み合っていた。みなうつむいて手のひらを見ながら歩き、人や物にぶつかると頭を上げる。通路の壁ぎわに止まって見ていると、人々の動作には全体としてどこか機械的なところがある。その雑踏のなかに、一瞬、かなり昔に車イスに乗って球戯の審判をしていた浅黒い顔の老人を見た、確かに見たような気がした。
二〇二〇年代に車イスはすべて電動式になり、多くの老人が軽快に乗り回していたから、当時、車イスの老人はさほど珍しい光景ではない。いつもなら気にも止めないが、目に入った車イスの老人は五十年ほど前に見た老人とあまりにもよく似ていた。一方で、半世紀を隔てて、なお生きているはずはない。そう否定して打ち消そうとしても、何かが消させない。
そんな葛藤があったが、気がつくと、強い引力に引かれて老人のあとを追っていた。彼の後ろ姿や横顔を見ながら、必死に五十年前の記憶の断片を拾おうとするが、思うようにならない。二十歳の青年が七十歳の老人になるだけの年数が経っているのだ。仕方ないと言い聞かせつつも、何がどのようにして、五十年を隔てた二人の老人を同一人物と思わせるのか不思議でならなかった。
一九八〇年の夏、老人の専用車両だった。当時も彼は車イスに乗っていた。いま目の前にいる老人は上下とも黒い服を着ていて、五十年前と同じように白髪が目立つ。同じ老人だとすれば、百歳を超しているはずだが、一見したところ、七十歳前後で五十年前とあまり変わらない。ただ、彼に以前の精悍さはなく、ひどくやせ衰えて見えた。違う人ではないのか。そんなことを思いながら、車イスのあとを追った。
人々は軍靴のような靴音を響かせて行進し、車イスにぶつかっては横を過ぎ、小動物の群れのようにエスカレータに吸い込まれていった。人の集団が見えなくなると、構内はいっとき静けさを取り戻した。老人の車イスのタイヤが通路に接する音が静かに響く。地下の構内から地上に出るため、老人はさらに長いエスカレータに乗って上がって行く。車イスはしっかりエスカレータに噛み合って安定し、ほぼ水平を保っている。ほかには誰も乗っていない。老人はエスカレータに乗ったまま身動き一つせずに運ばれていく。
老人が乗っていた段が最上段に達して吸い込まれると、車イスはなめらかにエスカレータを離れた。地上に通じるゲートを通過するとき、かん高い電子音が鳴ると、老人はひどくおびえた。すべてのゲートの通過記録がデータ化され、どこかに保存されている。老人はそのことを知っているのだろう。日本島の住人は、外来者を含め、この管理システムから逃れられない。島内にいる人々の行動はすべて監視されていた。
長い廊下のような通路を進んで地上に出ると、老人は道路の向かい側にそびえ立つガウディ建築さながらの高層ビルをめざす。駅構内からここまでずっとバリアフリーだから、老人の車イスの動きがさえぎられたことはない。彼の車イスはビルの一階に突き出している建物にさっそうと入った。飲食物を主とするさまざまな品物を置いた棚が、人と車イスが通れる通路だけ空けて並んでいる、巨大に明るい倉庫のような空間だった。二千年ごろから日本島の津々浦々に普及したンヴィニ教寺院の典型的な構造であった。
前述のとおり、凭也は当時のコンヴィニエンス・ストアを寺院として解釈し、ンヴィニ教寺院と呼んでいます。
ンヴィニ教寺院
冬の日の正午近く、ンヴィニ教寺院は多数の老若男女で賑わい、みな棚のまわりを徘徊しながら、祈りを捧げている。二〇一〇年代を通じて、寺院は単なる食品や生活用品の供給施設ではなくなった。お金の出し入れから葬儀まで扱い、人々の生活に必要な物心両面のあらゆるサービスを提供して、莫大な布施を得ていた。まさに門前市をなす活況を呈していた。
葬式や法事も簡単に手配でき、医療機関とのやり取り、簡単な診療もできた。人々の生老病死すべての領域に深く入り込んでいたのだ。参考までに、もっとも質素な葬儀は、遺族が見守るなか、ンヴィニ教寺院の他の物品とともにダンボールで出棺され、トラックに乗せて河川敷まで運ばれ、川の流れに沈められる河葬であった。教徒でない人々は、所定の日に周回してくる遺体回収車で運ばれ、ゴミ処理場で焼却された。これらの予約もンヴィニ教寺院を通して行われ、いずれの場合も医者の死亡診断書が必要だった。多くの殺人事件が河葬を模して行われ、行方不明者が急増した。人々はコンヴィニエンスの代償として日常的な恐怖のなかで生活していたのである。
この日、老人はンヴィニ教寺院の棚にあったおにぎりを二つ、車イスのサイドバックに入れ、入口近くに立っている浅黒い肌の女性にうやうやしくあいさつすると、入って来たドアから出ていった。そのときまた電子音が鳴った。ここでも人々の出入が記録され、個々人が保有するドット数から布施した額が引かれる。すべての人の出生時から死亡時まで、あらゆる行動がドット数とともに記録され保存されていた。
ドット数とは、二千年代初めのポイントよりも人生に関わりが深い運数ともいうべきもののようです。その一部は経済力や生命力と呼ばれ、人々の寿命を秒単位で延ばすと考えられていたようです。ンヴィニ教で賽銭箱の役割を果たす自販機もドット数と関連づけられています。二千年代初めの読者は迷信といって一笑に付すでしょうが、日本島の住人たちは信じて疑わなかったようです。人々は読者が想像するよりもはるかに迷信深く、その反面きわめて実利的だったのです。
人口動態を模したビル
老人は、ロビー階にンヴィニ教寺院のある高層ビルに入っていった。階層は、ロビーを含む〇層、一〇層、二〇層、三〇層、四〇層、五〇層、六〇層、七〇層、八〇+層まで九階層ある。ロビーから最上階層まで吹き抜けで、見上げるような構造を持っている。このビルは、地域の人口動態に基づく人口ピラミッドを立体化した形をしている。ガウディ建築そのもので、人口動態に応じて二十年に一度ビルの形が改造される。ただ、その変化は外壁だけで、ビルの内部にいる人はほとんど変化を感じないという。
ロビー周縁には階層ごとのドアが複数並んでいる。信者たちは、それぞれの階層に通じるドアに入っていく。他の階層に行くことはできない。自分の階層でないドアの前に立つと、立っている人も車イスの人も風圧のような力でロビーの中央に押し戻される。ロビーの床は黒と白の正方形を交互に配したアルゼンチンタンゴのサロンによく見られるチェック模様だ。老人に再会したグローブ駅のドームの床も同じデザインだった。
ビルの各層にはその層に応じた年齢の人々がスペースを保有できるが、個人ごとの固定スペースはない。このビルのロビーとンヴィニ教寺院には誰でも自由に出入りでき、それ以外の領域は信者の一部または司祭しか入ることができない。老人もンヴィーニのようで、寺院とロビー階のほか自分の年齢の階層に行くことができる。彼の階層は七〇層であった。彼らに与えられた僅かなスペースがそこにあり、日中の居場所を提供していた。彼らに信者としての安心感とドット数を獲得する仕事または学習材料や遊戯の機会を与えてくれた。
高層ビルのなかは外界と違って、いつも温度と湿度が一定に保たれている。夏は涼しく冬は暖かいので、ほとんど季節感がない。人々は季節の変化や自然を好むといいながら、定温・定湿の人工的な状態を望んだ。何よりも自分たちの快適さと心地よさを重んじることがンヴィーニの特徴の一つである。
当時、日本島の大多数の人々がンヴィーニだったと、凭也は解釈していたようです。一九七〇年代を通じてンヴィニ教寺院が増え続け、二〇三〇年には飽和状態に達したともいいます。寺院のない辺鄙な場所に自販機が置かれていたのも偶然ではありません。自販機は賽銭箱であり、地域の神々を祀る廟を兼ねていました。
季節がないのはビルやンヴィニ教寺院だけではない。電車は当然ながら、地下鉄は道路下のトンネル内を走行するため、乗客は外の景色を見ることなく、外気すら感じようがない。人々はそれを快適と考えたが、それをもっとも必要としたのは老人たちであった。生存に関わる問題だったからだ。七〇層には数百名の老人がそれぞれスペースを持っていた。当時の人口動態を反映し、他の階層より広い床面積が確保されていた。
人々が生まれると、それぞれの遺伝子情報にもとづいて個別の三次元符号が与えられた。この符号は彼らが住む島のあらゆる動物と彼ら個々人を識別できるので、支配層にとって個々人の名前はあってもなくてもよい。ロビーの周縁に並ぶエレベータのドアも生体認証によって人々を監視している。老人は毎日このビルの七〇層に通い、そこでほとんど会話を交わすことなく、黙々とパソコンに向かう。人々の保有スペースはサイバー上にあり、それぞれのバーチャルスペースに入ると、日々の仕事が与えられ、その作業もサイバー上で行われた。その対価として些少のドット数を得るのだった。
手のひらを見つめる人びと
二十世紀末からスマホと呼ばれる電子機器が急速に普及しました。それは暇な時間と自我のすき間を埋めるのに格好の機器でした。凭也の観察が続きます。
人々は睡眠を除くほとんどの時間、手のひらを見て過ごした。歩くとき、電車や地下鉄の到着を待つとき、電車の車内、エスカレータに乗っているとき、便座にすわっているとき、食事中、時間つぶしなど、家にいるときも外出先でも、いつも手のひらを見つめていた。
歩くとき、人々は手のひらを自分に向け肘を九十度曲げて歩いた。電車の車内や駅構内の至るところで、手のひらをみながら歩くのをやめるよう注意したが、それを守る者はいない。手のひらに保存された写真や動画を含むデータに自分だけの領域を見いだし、好きなニュースやマンガを読み、ゲームに興じて時間を費やすことが大半の人々の行動の形になっていた。歩きながら事故に遭う人も多く、駅ホームから線路に転落する人も絶えなかった。
凭也によると、二〇三〇年にはスマホの形態が大きく変化したようです。スマホと違い、手のひら自体がスマフォになったというのです。筆者には想像しにくいのですが、凭也は診察中に時として、彼の手のひらがスマフォになったような仕種をすることがあります。スマホを手に持っていないのに、あたかもあるように操作し、担当医や筆者に向かって説明するのです。たとえば、次のように興奮ぎみに話すのです。
左の手のひらを指でこすると、左手にスマフォ画面が立ち上がり、両方の手のひらを合わせてこすると両手に画面が表示される。画面サイズの拡大縮小もできた。スマフォ画面の下部が手のひらの下部と接し、手のひらの上に浮いているように見える。画面はいつも見やすい角度に保たれ、指を立てたりそらせたりして画面の角度を調整できた。画面の解像度がはるかに向上し、人々は以前ほどのぞき込むことがなくなった。
立ち上がったスマフォを消すには、もう一度手のひらをこすればよい。体の一部がスマフォになったので、置き忘れや落とすことはないし、倒れて手のひらをついたときは自動的に消える。生体の新陳代謝にもとづく微弱電流を利用したので、バッテリーもいらなくなった。
なお、カメラのレンズ機能は人差し指か中指の爪に納められ、シャッターは同じ指の指先にあって、親指の指先で軽く押すだけだ。録音用のマイクとスピーカー機能も指先にあり、入力は音声か指文字で行われる。音声入力の場合は手のひらを口の近くに持ってきて小声で話せばいいし、手のひらに反対の手の指で文字を書けば文字入力できた。別紙に書いた文章や画像に手のひらをかざしてスキャンすることもできた。完全防水だが、手洗いや入浴時には画面を消せば、ただの手のひらになった。手のひらにプロジェクションマッピングされたスマフォを想像すればいい。
ただし、いいことずくめではない。スマフォが手のひらに納まると、人々はますます自閉し、他者の意見を聞かなくなった。自分の体の一部に映し出されるものを自分だと思い込んだ人々は自分の手のひらばかりを見ていた。入力も電話も手のひらに向かうだけで、写真も動画も自在に撮れたから、盗撮がさらに巧妙化した。周囲も他者も顧ない、自閉症とスマフォ依存症を合併した人々が巷に溢れた。
二〇二〇年代はじめに新型コロナウイルス感染症が世界中に猛威をふるい、外出が禁止された時期の状態が日常化したのだ。みな自分の手のひらしかみなくなり、しだいに他者を意識する感官そのものが退化した。親子を含む家族内の衝突が頻発し、親が殺され、子が虐待される事件が頻発した。自分の利益を守り正当化するために汲々とする人々が増え、職場や学校でもいじめや殺傷事件がめずらしくなくなった。並行して禁句の語彙がどんどん増えて自由な会話が制限され、人々が口にする言葉が空疎になった。その最たる者が日々テレヴィに登場する面々だった。
コロナ後の数年間、官製マスクの着用が義務づけられ、言論封じ込め手段の一つとして支配層に利用されたことがありますが、その事態が日常化したようなのです。
無宗教派が生まれた背景
無宗教派が生まれた歴史的な背景について、凭也は次のメモを残しています。
歴史を振り返れば、日本島にもアジアの他の地域と同じように護国仏教が盛んな時期があった。その後しだいに衰退し、二十世紀前半、富国強兵と称して護国仏教と神道を融合させた「神国」思想が日本島を席捲する。数次に及ぶ侵略と戦争で内外に数百万人の犠牲者を出して「神国」が破綻し、人々の信頼を失って、葬式仏教と儀礼神道とでも呼ぶべきものに堕してしまう。政体は形として存続したものの、人心は政体から離れ、宗教を日常生活に必要ないものと考えるようになった。
「神国」思想という感染症に欺かれ宗教を喪った人々は、二十世紀後半に試行錯誤をくり返しながら、無宗教派と呼ぶべきものを形成していく。その過程で、独自のアイコンを創造する必要が生じ、それを納める祭壇が求められた。一九六〇年ごろ、他の地域で生産された電子受像機が彼らの要求に合致し、急速に普及した。無宗教派の人々はこぞってその箱型の機器に飛びつき、祭壇として崇めた。日本島の支配層は、それを巧みに利用し、テレヴィと名づけた。
テレヴィは二〇一〇年ごろから薄型になり大型化した。スマホが手のひらに収まるのと逆方向の変遷をたどったのだ。スマホの普及とともに祭壇の小型化が進み、支配層による無宗教派の取り込みが一気に加速される。無宗教派という名の漠とした信仰が、人々に意識されない形でスマフォとともに身体化されていく。二〇二〇年代には、テレヴィも新聞もスマフォに取って代わられ、三〇年には紙の新聞は贅沢品になった。テレヴィや新聞などの情報発信を担っていた機関の高層ビルが次々とンヴィニ教の地域寺院センターに組み込まれていった。これらのビルの一階や地階にかつてのコーヒーショップやコンヴィニエンス・ストアを模した寺院があるのはその名残である。
曖昧になった男女差
この無宗教派においては男女の違いがはっきりしない。二千年代初めに宗派内でLGBTに関する論争が起こったが、圧倒的な多数派だった男性の思考法から脱することはなかった。そもそも彼らには議論する習慣がない。議論できない人々が持つのは好き嫌いの感情と羨望や嫉妬にもとづく賛成・反対だけで、多くの場合は多数派に付和雷同する形で決着した。
当時、司祭の多くは男性だった。その後、他の無宗教派の人々から批判を受けて女性の司祭を増やし、二〇二五年には男女比がほぼ等しくなった。教義を持たないンヴィニ教では数字が重要な役割を果たすから、女性比率五十%という数字が大事だった。興味深いことは、女性司祭が増える前から異教徒の司祭が男女ともにかなりの勢いで増えていたことだ。それは二千年に一部地域で顕著になり、二〇二〇年には異教徒を制度内に組み込んだ。とはいえ、ンヴィニ教が異教徒に寛容だったわけではない。明文化された教義がないから、外部の圧力が高まって抑えきれなくなると、仕方なしに受け入れるだけである。
凭也によれば、二〇二〇年から三〇年にかけて公衆衛生と男女の性意識に大きな変化が生じていたようです。
公衆トイレの便器は西洋式で、半個室のブースに一つずつ置かれている。半個室には、壁に沿って並んだ左右のブースのあいだに人の身長ほどの高さの間仕切りがあるだけで、天板とドアがない。水槽タンクはなく、ただ便座が置かれている。利用者は壁面に向かってブース内の便座にすわる。利用者の背後にドアはなく、人が二人すれ違えるほどの通路があるだけだ。通路側からは利用者の背中とお尻が見える。ほとんどの利用者は壁に向かって手のひらを見つめている。誰かが便座にすわると、そのブースの換気扇とライトが作動する。男性は小用のときも便座に腰をおろすから、男子専用の小便器はない。
二〇三〇年当時、日本島の農業は有機農法に転じており、人々の糞尿は瞬時に乾燥され堆肥として保存され再利用できたそうで、水洗トイレは不要になったようです。その変化を促進したのは、日本島の首都を襲った大震災だったといいます。日本島でも、二十世紀にはトイレも浴場も男女で区分されていました。さらに遡れば、地方の温泉や湯治場などは男女混浴でしたし、十九世紀以前は一般の浴場も混浴だったといわれています。十九世紀後半に入って、新宗派の教えに押されて混浴が反文明的とされ、しだいに別浴になった、と凭也は説明します。混浴を経験した者が別浴に移行するのはさほどむずかしくないでしょうが、別浴に慣れた者が混浴に戻るのはかなり抵抗があります。二千年代に入ったころから人々は急激に性的な羞恥心を失ったようですが、そんな彼らでも混浴を定着させるのに時間を要したらしく、その普及は地域差があったようです。二〇三〇年当時はいわば過渡期にあった、と凭也はいいます。
老人たちはほぼ毎日、公衆浴場を利用したが、ここの出入りも監視された。だだっ広いところに、老若男女が全裸ですわり、体を洗い流して髪を洗っている。小さな浴槽に入っている男女もいる。二千年代初めの読者は戸惑うだろうが、サバンナで動物の群れが水浴びしている光景を想像すれば、理解できなくはない。所詮、ヒトも動物なのだ。
浴場でも彼らはほとんど口をきかない。ときどき子どもの泣き声だけが響いた。電車の車内と変わるところはない。老人たちはサイバースペースから解放されたかったのかもしれない。定温・定湿の環境になれた彼らは、高温・多湿の浴場で心地よい刺激を受けた。それ以上に十九世紀に対する郷愁が強かったに違いない
凭也はンヴィーニの恋愛感情についても興味深い観察をしています。
ンヴィーニたちのあいだでは、男と女・女と女・男と男の自由恋愛が認められていた。特異に思われるのは、少なからぬ恋愛が地下鉄の車内で生まれたことだろう。朝夕の混雑時に、男と女・女と女・男と男の老若男女が体を密着したときの感触に触発されて独特の恋愛感情がめばえた。恋愛感情が視覚からめばえると考える人が多いが、日本島ではそういう恋愛はあまり多くない。一部の昆虫にみられるように、触覚から性愛に移るのが普通だった。触れ合ったときの感触の微妙な一体感や相性のよさが愛着を生じさせ、恋愛感情を生むきっかけになる。
触覚から生まれる恋愛感情を信じない者でも、皮膚感覚から性愛を連想することはできるかもしれない。ただ、恋愛感情のめばえたカップルの接触は、あくまでも想像世界における触れあいであり、すぐ交合に至ることはない。視覚から恋愛感情を抱く人々には理解しにくいだろうが、触覚からの場合、恋愛感情と性交は直接結びつかない。接触している時間だけの恋愛として完結し、接触はあくまでも表面的な触れあいである。アルゼンチンタンゴを踊っているあいだの擬似恋愛に通じるものがある。
老人の住居と河葬場
凭也の話したところによると、日本島は二十世紀後半を通じて温帯に属していたようです。ところが、二〇二〇年代に入って急激に気温と湿度が上昇し、三〇年には亜熱帯性の気候になったといいます。
老人は毎日のように地域寺院センターに通った。そこは外界から遮断され、かつての温帯の環境が保持されていた。問題は、老人たちがそれぞれの住居にいるときと、ンヴィニ教寺院やセンターに行くために地上の電車や地下鉄の駅構内に入るまでの区間だった。実際、寺院と住居の往き来に疲れ、途中で倒れる人が少なくなかった。行き倒れになると、医者の死亡診断を受けた後、荼毘にふされることもなく河川敷までトラックで運ばれ、そこで川に投棄される。もっとも簡素なンヴィニ教の葬儀だった。ふだんプラスチックの破片ばかり食べていた魚たちにとって、ヒトの遺体はまたとないごちそうだった。
ンヴィニ教には儀礼としての葬儀はない。しいて言えば、海葬または河葬であり、葬儀を行う場合、すべての段取りは司祭が執り行う。三〇年当時、司祭の多くは外国籍の人々だったが、言葉の障害はない。ンヴィニ教寺院における人々の行動と同じく、葬儀においても信者と司祭はほとんど会話を交わす必要がなかった。
老人の住居はテントだったが、道路の橋梁と土手が接するところに位置し、雨風をしのげ、陽ざしも防げた。人々の往来に煩わされることもなく、テント生活者の誰もがうらやむ場所だった。それでも、亜熱帯に特有のむし暑さはどうすることもできない。また、雨期に襲ってくる暴風雨と洪水に立ち向かうことはできず、避難するしかなかった。河辺のテント生活者は、河葬場に隣接して住んでいたようなもので、老人が死ねば河葬で処理され、別の老人がそのテントに入り込むだけだった。
3. 車窓の風景と心象風景
一九九〇年の晩秋から冬にかけて、凭也(ヒョーヤ)は日本島ではなく北米大陸に滞在していたようです。第三章では、治療の過程で彼が話した滞在中の特異な経験について記します。ちなみに、凭也がダーラに向かって一方的に告白する場面は、彼が治療のとき担当医や記録係の筆者に話すときのようすに酷似しています。
GOトレインという列車
当時T市に駐在していた凭也は、郊外のアパートから市街地の事務所まで毎朝オンタリオ州営のGOトレインで通勤していました。朝夕の通勤時間帯に四両編成の列車が上下三本ずつ約三十分間隔で運行し、大半の区間は単線でした。二階建ての車内には日本島の長距離列車のように通路の両側にゆったりした四人掛けボックスシートが並んでいました。
凭也が乗るO駅から終着のU駅まで約三十分かかり、途中の停車駅は一つしかないので、同じ時刻の列車を利用する乗客は毎朝ほぼ一定していました。通路やドアの傍に立っている乗客はいません。朝は座席の位置がほぼ固定している者も多く、始発駅の乗客は指定席を得ているようなものでした。郊外の住宅地を抜けてオンタリオ湖岸の市街地に至るまで、ドン河沿いの谷あいを南下しました。O駅の次の駅を過ぎると、市街地に入るまでほとんど谷あいの風景が続き、通勤列車に乗っていることを忘れさせるほどでした。
列車を利用するようになって二ヵ月ほどは、毎朝、車窓の風景をみているだけで飽きませんでした。赴任したのが真夏でしたから、夏から秋に移る時期だったでしょう。谷あいの草むらに見え隠れする野草の花の群れが、萌黄から淡い紅や淡い紫へと日々変化しました。列車の通過する瞬間だけでも、これらの風景をとらえようとして、じっと見入りました。日数が経つと、列車の両側に見えては消える地形を断片的に覚えるようになりました。特に引かれる場所が数ヵ所あり、そこを通過するときは決まって特定の心象風景が浮かぶのです。
途中に踏切が一ヵ所あり、いつも決まって少し手前で列車が汽笛を鳴らします。その位置の西側、小高い丘の上に緑青を塗り付けたような小屋とレンガ作りのエントツが建ち並んでいました。そこを通過するたびに、幼少期を過ごした山奥の鉱山町を思い出すのです。幼少期の記憶をほとんど失っていましたが、五歳のとき鉱山町を離れた日の情景だけは脳裏に残っていました。
薄暮のなか、小さな駅のホームにたたずむ人々とすぐ背後に迫った山並みのなか、蒸気機関車の汽笛が鳴り響く。ピィーィーィーィーポォーォーォー、ピィーィーィーィー、いつまでも途切れずに汽笛が鳴り響く。
列車が汽笛を鳴らし、小高い丘の光景が見えると、決まってその情景が浮かびました。こうしてドン河沿いのいくつかの光景と凭也の内面の心象風景のあいだに特別な関係が作られました。初めはただ外界の光景に触発されて内面の風景が現われたのですが、しだいに凭也の精神状態に応じて特定の風景が迫って来るようになりました。
白髪の老人
列車で通勤するようになって数ヵ月経った晩秋の朝のことです。凭也の指定席に見慣れない老人がすわっていました。白髪の頭と顔の下半分をおおう白いひげから察して、年令は七十歳ぐらいだったでしょう。がっしりした体は白人のなかでも大きいほうでした。列車の進行方向に背を向けてすわり、ずっと車窓に額を押し付けるようにして、過ぎ去って行く風景を見送っていました。
仕方なく、凭也は同じボックスシートの向かいの通路側にすわりました。その位置からは、老人に気づかれないで斜め前にいる彼を観察できました。ただ、そのうちに老人の発する魅力に引き付けられ、身動きできなくなったようなのです。経験したことのない不思議な感覚でした。それは老人に向かって突進せんばかりの強さで凭也をとらえました。
その朝はじめて、凭也は窓外の景色をほとんど見ないでU駅に到着しました。U駅で乗客が全員降りた後、しばらく経って車掌に肩を突かれ、ようやく我に返ったのです。あの忘我状態は何だったのか。この疑問が、以来凭也の脳裏を離れませんでした。翌日から凭也は、通勤のためではなく、老人に会うために列車に乗るようになりました。その魅力の淵源を知ろうとして老人との再会を求めたのです。
次の日、老人は現れませんでした。O駅の次の駅で一旦降りて隣の車両を見渡しても、彼の姿はありません。彼に会う以前は、ドン河沿いの光景と自分の心象風景の交錯に沈潜していたのに、老人と出会ってからはそれが成り立たなくなりました。このことが凭也を不安に陥れて車窓の風景を一変させ、心象風景との交感が失われたのです。すべての風景が死んだように、凭也の心象風景を受け入れなくなりました。晩秋のドン河は、くすんだ黄いろと赤や橙の色彩を川面に放散し、下流に行くにしたがって色の配合が微妙に変化します。そんな光景も何ら感慨をもたらさなくなりました。老人に会って以来、自分が何かを渇仰しているように感じ、ひたすら老人との再会を欲しました。
第二章(二〇三〇年)の初めにあとを追った老人にも、程度の差こそあれ、凭也は同じ引力を感じたようです。時間の先後関係にとまどう読者がいると思いますが、老人の虜になってからの凭也の行動も類似しています。
木彫りの観音像
ドン河の谷あいにその年の初雪が降った日の翌朝、凭也の指定席に一人の女性がすわっていました。老人のときと同じように、彼は彼女の斜め前にすわりました。浅黒い肌の彼女はふくよかなガンダーラ仏を連想させ、脚を大胆に組んだ姿が肉感的でありながら、彼をどことなく敬虔な気持ちにさせました。ガンダーラにちなんで、彼女をダーラと呼びます。
数ヵ月前の老人とまったく同じように、ダーラも左肩を窓枠に凭れ、後方に過ぎていく風景を追っています。その姿を見ているうちに、凭也は想像のなかで彼女の唇を奪いました。そして、肉厚の紅い唇にしっとりした樹の感触を重ねながら、彼が十七歳だったときの情景を思い浮かべました。
夏の終わりごろのむし暑い夜ふけだった。東京の郊外にあった家の近くの雑木林に出かけた。樹々のあいだに浮かんだ下弦の月を見ていて急に誰かを抱きたい衝動に駆られ、太いクヌギの樹の幹にそっと唇を当てた。上のほうで樹々の枝や葉が黒い切り絵のように揺らいでいた。
ダーラの唇をじっと見ていて、記憶のなかの感触が蘇ったのです。ドン河沿いには、その雑木林に似た風景が点在していました。車窓に映ったダーラの顔の向うに遠ざかっていく風景を見ながら、本当に彼女の唇を奪ったような気がしたのです。そのとき、彼女の顔の向こうに小さな池が映りました。老人に会う前は、この池を見ると決まってある湖の風景を思い出しました。
東京の西端にある湖に彼女と二人で行った。松や広葉樹のあいだに碧い湖水が見える、よく山に登った僕の最も好きな場所だった。中之島の廃屋に入った二人は、雨埃で汚れた窓からぼんやり湖水を見ているうちに風景のなかに溶け込んだような錯覚に襲われた。気がつくと周囲は漆黒の夕闇に包まれていた。帰りの電車で、彼女は窓に肩を押し付け、泪をためていた。
目の前のダーラと数十年前の女性が重なっていました。ドン河沿いの池と心象風景の湖が交錯したのでしょう。その朝、凭也は老人のことを考えませんでした。U駅で降り、しばらくダーラの後を追いましたが、やがて雑踏のなかに見失いました。次の日もダーラは同じ席にすわっていました。凭也は、きのう唇を奪ったせいでぎこちない態度をしていたと思います。こうして毎朝ダーラに会うことが重なるにつれ、老人の残像に煩わされなくなりました。老人の幻影を払拭できた凭也は、以前のようにドン河の谷あいと心象風景の交錯が起きることを期待しました。
カナリアの死
一ヵ月ほど経ったある朝、一本前の列車が約三十分遅れ、いつも凭也が利用する列車の時間を過ぎてO駅を出発しました。大半の客はその列車に乗りましたが、凭也はさらに遅れて到着したいつもの列車に乗りました。閑散とした車内を見渡すと、いつもの席にダーラがすわっています。当然のように、凭也も同じボックスにすわりました。次のM駅まで二人とも言葉を発しません。その駅からの乗客がいないのを確認し、列車が動き出すとすぐ、ダーラが話しかけてきました。
「いつも窓を見てばかりで、いったい何を思っていらっしゃるの」
一瞬、凭也はたじろぎました。ダーラに観音像を見ていた彼は一種のストーカーです。それを詰問されると思い、身構えたのです。想像のなかで彼女の唇を奪っていたものの、彼女は心象風景を引き出すための仕掛けでしかなかった。そう思いながら、しばらく車窓の風景を見送りました。彼女のほうも「次に話すのはあなたよ」と言わんばかりに黙り込み、窓枠に肩を寄せていました。
外は一面の雪におおわれ、陰画の世界そのものでした。枝と幹だけになった樹木は黒々と輝き、倒木の上半分をおおった雪が幹の黒さを強調していました。河原も雪におおわれ、雪の下からのぞく低木は萌黄に赤茶がかった色調で、金粉をまぶしたように輝いています。柳の巨木がしなやかな赤みを帯びた若枝を精いっぱいに広げ、春が近いことを教えていました。
彼女も同じ風景を見ているはずだ。そう思うと、彼女の質問には応えないで、老人と出会う以前に車窓の風景が呼び起こした心象風景について衝動的に話し出しました。凭也が高校生だったときの話です。
東北地方のM市で二年過ごした。都会で少年期を送った僕はM市での生活を楽しめず、いつも東京に戻ることを願っていた。ところが、戻ってみると都会生活に同化できなくなっていた。よりどころを失った不安のため、よく自問した。何のために生きているのか、こんな問いに囚われていた僕は、生来の怠け癖のため、受験勉強などそっちのけで、好きな本を買ってきては部屋にこもって夜ふけまで読んだ。
当時、家でカナリアを一羽飼っていた。毎朝早く、近くの原っぱでハコベを摘んで来るのが僕の日課だった。ある朝、いつものように餌を与えようとして鳥かごを見ると、鳥が仰向けに倒れていた。そっと指を触れても動かない。鳥の死に動揺した僕は、自分が殺したも同然と思い込んだ。生きる意味を考えながら、鳥など存在する理由がないと決めつけていたからだ。毎朝、習慣的にハコベを与えていたものの、この鳥と同じで、僕自身にも何ら生きる必然性がないと考えていた。かごに閉じ込められて一生を送る鳥に自分を投影し、無意味な生き物に仕立てていたのだ。そんな考えに囚われていたせいか、鳥が死んでも泪すら出なかった。とにかく地中に埋めなくては、と焦った。
家族の者を起こさないように注意して鳥の死骸を手につかむと、逃げるようにして外に出た。いつもの散歩ルートに沿って歩き、いつも立ち寄る雑木林に入っていった。ぐったりした鳥の死骸は手のひらにたまった雨水に濡れ、生き物の生々しい感触を伝えていた。樹の根もとにそっと死骸を横たえると、近くに落ちていた木片で埋葬する穴を堀り始めた。犯罪者のように周囲におびえながら必死に堀ったのに、はかどらない。しだいに雨がひどくなり、しずくが顔を伝った。死骸を埋め周囲の土を固めたころには、体中ずぶ濡れになっていた。その朝、僕は家に戻らず、学校へも行かないで、ひたすら歩き続けた。
ドン河沿いに点在する雑木林にこんな心象風景が張り付いていたのです。列車が市街地に入るころ話し終えてダーラを見ると、目に泪をためていました。観音像として崇めていたはずの彼女に向かって一方的に話したことが恥ずかしかったのか、列車がU駅に着くと、凭也は足早に去っていきました。
気圏の底と雷雨の夜
次の朝も、ダーラはいつもの席にいました。真向いの席には彼女のバッグが置いてあり、ボックスの横で凭也が立ち止まると、そのバッグを取ってすわるように誘ったのです。真正面に腰をおろした凭也は、うつむいたまま窓のほうに顔を向けました。彼女がまぶしかったのです。
M駅を過ぎると、景色は谷あいの風景に変わります。しばらくすると、広々とした河原があり、ドン河が大きく蛇行して線路と交差しています。そこは東北のM市につながっていました。この日も凭也は一方的に話しました。
M市のはずれに北上川が流れ、遠くになだらかな北上山系が見える。自転車に乗って川まで行き、葦のなかを歩き回った。夕日が川面に乱反射して輝くのを見ていると、ほかには何もいらなかった。冬には、凍った流れの上を恐る恐る歩いた。川原の砂地に腰をおろして、川の流れを見て過ごすこともあった。そこは地上ではない、宮澤賢治のいう気圏の底だった。仰向けになって空を見ているだけで、時間の経つのを忘れた。川の流れとたまに通過する車の音、草むらが風にゆれる音、土手にうずくまる大きな牛の吐息などが時おり聞こえる。葦のなかから急に翔び上がるヒバリもいた。夕暮れには鳥が編隊を組んで上空を飛んだ。
転校生だった凭也に友人はなく、孤立していました。北上川の土手は安心して一人っきりになれる場所だったのです。ドン河は北上川につながっていました。T市もM市も二年過ごしただけで、凭也は通過者でしかありません。二つの土地と彼の関係が希薄だったゆえに、かえって記憶に深く刻まれたのです。二つの土地に彼が過ごした時期は二十年以上離れているのに風景はつながっていました。凭也が話しているあいだ、 ダーラはずっと窓外の景色を見ていました。話し終えると、なつかしそうに彼を見たような気がしました。
次の日も、ダーラは向い側の席を取っておいてくれました。前回と同じように、凭也は聞かれるともなく話しました。彼が十一歳のころの話です。
ある夏の夜、僕は一人で家にいた。夜半に雷を伴った激しい雨が降り出し、夜遅くなっても家族の者は誰も帰ってこない。ふとんをかぶっても寝られず、起きたまま、雷が遠のくのを待つしかなかった。時間とともに雷は近づき、溶接の火花のような閃光と、空気を切り裂く雷鳴が激しさを増していった。家中の雨戸を閉めたが、天窓を通して白い閃光が差し、ほぼ同時に雷鳴が轟いた。夜中に雷鳴と閃光のなかにいるのは、少年にとって拷問そのものだった。閃光がきらめくたびに庭と垣根が一瞬青白い光に閉じ込められ、地獄の底にいるような気がした。
停電して、家のなかはまっ暗闇だった。仏壇の下の引き出しからロウソクを一本取り出して手さぐりで火をつけ、居間の卓上に置く。ロウソクの炎は初め安定していたが、じきに揺らぎ始める。ロウが炎の下の芯に溜まり、不安定な炎が燃え上がる。炎の動きに合わせるように、部屋中の物影が踊る。深夜に帰宅した母親に向かって「うそつき」と吐き捨てるように言うと、少年は泣きじゃくりながらふとんに潜り込んだ。
凭也の話を聞いているとき、ダーラは小刻みに震えていました。彼女も雷の恐ろしさを知っていたのでしょう。彼が話し終わると、ほっとした表情を見せました。
GOトレインの終着駅
その日、凭也は珍しくU駅発五時三十分の下りの最終列車に乗りました。会社帰りに列車を利用することは、滅多になかったのです。習慣で朝と同じ車両の二階に行くと、いつもの席にダーラがいました。向かいの窓側の席は空いていませんが、彼女の横の席が空いていたので、軽く会釈して腰をおろしました。冬のことですから、夕方五時を過ぎると暗闇に包まれ、ドン河沿いの光景はほとんど見えません。ときおり鳴り響く汽笛がさえ渡って聞こえる季節でした。O駅が近づいても、凭也は列車を降りる気になりません。彼女も凭也の肩に頭をのせ、腕をからませました。列車がO駅に止まって乗客の大半は降りましたが、凭也は立ち上がらず、そのまま終着駅まで行きました。
駅の駐車場に停めてあったダーラの車に乗り、暗闇のなか、舗装されていない林道を小一時間走ったでしょうか。ゆるやかな起伏に沿って両側に雑木林が見えました。彼女の家は窪地に建っているようでしたが、漠とした感覚でしかありません。あの夜の記憶はすべておぼろげなのです。オンタリオ州の郊外によくみられる木造のこじんまりした家でした。車を家の近くに無造作に停めると、ダーラは木製のテラスに上がって玄関の戸を開け、凭也を招き入れました。
家のなかは暗く、冷え切っていました。彼女が暖炉に火を起こすあいだ、凭也は横でじっと見ていました。炎が勢いよく燃え出すころ、ようやく部屋の暗さに慣れ、体も暖まりました。暖炉の前で立っていた凭也を、彼女が隣室に誘いました。そこはアトリエ風の部屋で、中央にあるテーブルの上に大小さまざまの写真が散乱していました。どれも風景写真のようで、かなり古いものもあります。
部屋の一角にある現像用の暗室に入ると、赤い蛍光管が灯り酢酸の刺激臭が鼻をさしました。たれ下がったベタの写真を指差しながら、彼女が説明します。眼が暗がりに慣れるにつれ、ベタの風景が輪郭を表しました。写真はどれもドン河沿いの光景でした。急に彼女がいとおしくなり、静かに抱擁しました。ダーラはもはや観音像ではなく、ふくよかな肉体を持つ女性でした。
暗室を出ると、部屋に散乱した写真を一枚ずつ手に取り、初めて通勤列車に乗ったときに車窓の風景に引かれたように見入りました。すべてモノクロで、古いものはセピア色をしています。ただ、凭也の知っているドン河沿いの風景と写真のそれは、とうてい同じ場所とは思われません。彼が知っているのは郊外に残された半自然であり、写真の風景は荒れた自然そのものでした。
夕食は質素なもので、ワインを飲みながら、もっぱらダーラの話を聞きました。こうして二人が話を交わすのは初めてです。列車では凭也が一方的に話し、それがどこまで彼女に伝わり、どう理解されているか知る由もありません。一度だけ彼女が言葉を発したとき、それに応えず一方的に独白したのですから。そんな関係だった二人が食卓を共にしていました。
ダーラは三十代半ばだったでしょう。ドン河沿いの小さな町に生まれ、そこで幼少期を過ごしたようです。その後、ドン河の下流沿いに高速道路が建造され、その自然を愛した両親と共にオンタリオ州北部の上流部に移ります。彼女の家族は近くで農業を営んでいたといいます。大学時代をT市で過ごし、そのまま市内に留まって学生時代の友人と結婚しましたが、数年後に離婚し、その後しばらくして現在の家に移り住んだのです。写真は学生のときからの趣味で、数年前から同州に残された自然を求め、週末を利用して撮影していたのです。
終着駅で降りてから数時間、暗闇を車で通過するあいだに現実界から遠ざかってしまったようです。木造の家と、それを取り囲む樹々の漆黒、薄ぐらい部屋に置かれた古びた家具、レンガ造りの暖炉、アトリエに散乱したモノクロ写真、すべての物が凭也を現実界から引き離そうとしていました。恐怖はないものの、そこにいればいるほど自分が現実界から離れて行くような不安に襲われました。一度この感官に囚われると数ヵ月は逃れられないことを知っていたからです。今はまだ現実界との境界にいるので意識できますが、完全に囚われると意識できなくなります。熟知しているはずなのに、その状況に置かれると逃れられないことも承知していました。
その夜、ダーラは観音菩薩そのものでした。現実界からの遊離感覚は、恋愛感情とともに生じることがあります。はじめガンダーラ仏を思わせた女性が傍らに全裸で横たわっている陶酔感と、それがいつまで続くのかという不安が交錯していました。それから三ヵ月あまり、週末には夕刻の列車に乗って終着駅まで行き、彼女の家で過ごしました。季節は冬から春に移行する時期で、ところどころに雪が残っていても、柳の枝の萌黄色や、低木類の枝の薄紅色が春の近いことを教えてくれます。空に向かって逆さに根を生やすように、樹々が褐色の枝を精いっぱいに伸ばしていました。
老人との再会
ある週明けの朝、凭也一人で始発列車に乗りました。いつもはダーラと二人で出勤しますが、彼女は休暇で、凭也を駅まで送ると家に戻ったのです。始発駅にもだいぶ慣れ、ホームで列車を待つ人々のなかにも幾人か見覚えのある顔がありました。
列車の運行と接続するバスから乗客が降りるころ、列車がホームに入ってきます。その朝は列車が少し遅れ、ホームにいる乗客がいつもより多いようでした。その人々のなかに例の老人を見たような気がしたのです。一瞬、体内を電流が走ったような衝撃を受けました。数ヵ月前に出会い、列車で同じボックスシートにすわっただけの人物なのに切々とした情感に襲われます。人々をかき分けて老人のほうに進むと、列車がホームに入ってきました。いつものように停止位置に構わず列車が停車すると、人々がおもむろに各車両のドアに群がります。
老人を見失わないように注意しながら、彼のいる車両のドアに近づきました。老人は悠々と列車に乗り込み、凭也は数人遅れてついていきました。老人は数ヵ月前と同じように、凭也の指定席に腰をおろし、窓外に視線を向けたままじっとしています。凭也は斜め前にすわり、前回と同じ位置で老人を観察しました。すると、どうしたことでしょう。老人に対する渇仰感が嘘だったかのように、波のない湖面のような静けさに包まれていました。
同じ老人なのに、いったいどうしたというのでしょう。前回のような強い衝動が感じられないのです。あれほど渇仰してやまなかった相手が目の前にいるのに、この静けさは何なのでしょう。老人に出会う前はドン河沿いの光景に魅了されていた凭也を一挙に不安に陥れ、得体の知れない渇仰感で満たした彼は何者だったのでしょう。
老人に出会った後、どこか不安定な精神状態のなかで、凭也はダーラと知り合い、それ以前とは違う形でドン河沿いの風景のなかに沈潜していました。異性との関係に付き物の不安定さはあったものの、総じて心地よいものでした。ダーラとの関係が、凭也を老人から遠ざけたことは間違いありません。だとしたら、彼との再会がもたらしたこの落ち着いた静けさは何なのでしょう。凭也は混乱しました。
老人は衰えが目立ち、数ヵ月のあいだにすっかりふけ込んでいました。窓外を凝視する老人の表情も前回とは異なり、病んでいるようです。ドン河沿いの早春の光景と対比するとき、彼の衰弱ぶりが残酷なまでに目立ちました。春という季節の持つ一面です。ただ一つ、数ヵ月前の老人の残像につらなるのは、老人の持つ不思議な引力でした。その引力圏に陥った者には、こばみようのない独特の作用を持っています。こうして凭也は、老人から前回とはまったく異なる印象を受けながらも、結局は彼の引力圏に取り込まれたのです。気がつくと、列車はいつものようにU駅の薄暗い構内に入っていました。
車内に人影はなく、老人と凭也だけが残されています。凭也を意識することなく、老人はおもむろに立ち上がると、通路をゆっくり歩いてホームに降りました。凭也は半ば命ぜられたようにその後を追いますが、通勤客の雑踏のなかに老人を見失いました。老人が幻想ではなかったかと疑われるほど、忽然と消え去ったのです。
木彫りの菩薩像
老人と再会したあと、凭也は以前とは別の不安に襲われました。正体不明な不安がダーラを遠ざけ、彼女と会えるはずの列車には乗らずに、並行して走る地下鉄を利用することにしました。二人のあいだに感情のもつれがあったわけではなく、一方的に遠ざけてしまったのです。
ある朝、いつものように地下鉄のU駅で降りようとすると、乗り込んできた男にぶつかって倒れそうになりました。バランスを取り戻して顔を上げると、立ちふさがったのは例の老人でした。凭也は足がすくんで動けなくなり、またしても老人の引力に囚われました。地下鉄の車内に押しもどされ、博物館駅まで老人について行きました。開館前の博物館の入口前に老人と並んで腰をおろし、空を見上げていても心は虚ろです。開館すると、老人のあとについて館内に入りました。
巨大な仏教壁画に囲まれた、ドーム状の天蓋が高く薄暗いホールに着くと、老人は歩みを止めました。部屋の中央に安置された雲崗石仏を思わせる仏像の前で静かに祈る姿勢をとったまま動きません。洞窟のようなひんやりした静けさに包まれ、八-九世紀の仏教隆盛期にいるような錯覚に陥りました。老人の背後から仏像を凝視していた凭也の目から泪がこぼれ、やがて嗚咽に変わりました。少年のころ、母方の祖父の葬儀場で泪を抑えられなかったことがあります。
祖父は孫のなかでも僕を特にかわいがってくれた。母が末娘だったからだろうか。ときどき家に来ては庭の草取りをし、垣根のヒバを刈ってくれた。高校受験のため東北のM市に行ったのも祖父と二人だった。最後の蒸気機関車の旅をした。汽車がトンネルに入ると煤が入ってきて、祖父があわてて窓を閉めた。あのときの祖父の笑顔と煤で汚れた汽車の窓枠や僕の学生服の袖口から出た白いシャツを汽笛の音とともにありありと覚えている。
地方の農村部で育った祖父は若かったころ田畑を処分して夫妻で上京したが、上野の駅に着いてすぐ、駅構内の雑踏でスリに襲われ、全財産を失った。途方にくれた祖父はバナナのたたき売りから始め、上野のほおずき市や植木市を転々として、もっとも儲かった植木と生花の商いに落ち着いたという。一緒にふろに入ると、亀の子たわしでごしごし背中を洗わされた。よく僕を叱っては笑った。そのよこで僕も笑っている。そんな好々爺とGOトレインの老人が対極にいて、どこかでつながっていた。
博物館に入って、かなり時間が経っていました。少し落ち着きを取り戻して周囲を見回すと、目の前にいたはずの老人が見えません。仏像の裏側に回ってもいないのです。U駅の雑踏で見失ったときと同じように、老人は忽然と消えてしまいました。もう一度正面に回って仏像を見上げたとき、凭也はそこに信じがたい光景を見ました。仏像に従う従者のようにして、老人が立っているのです。瞼をこすってもう一度見ると、それは木彫りの菩薩像で、まちがいなく老人の姿をとどめ、やさしく微笑しているように見えました。
老人に抱いていた畏れが消え、木彫りの像にすがりつきたい衝動が起こるのを覚えました。初めて老人にあったときの忘我状態と、ダーラに出会ったときの唇の感触を思い出しました。ただ、すべて三十年以上前のことですから、確かなことはわかりません。凭也はその菩薩像に向かって合掌すると気持ちが落ち着くように感じました。
4. ンヴィーニの生態
第四章は第一章と同じく、凭也(ヒョーヤ)のンヴィニ教に関する観察メモと口述した内容にもとづいています。日付のないメモが多く、記述時期を特定できないものもあるため、この章の扱う時期を仮に二〇二〇年とします。ちなみに、筆者が最後に凭也にあったのはこの時期です。
海岸に不気味な微笑を浮かべた老人が登場する場面や回転式ドアに至るエレベータに多数の老人たちが乗って地下に下降する場面は展開が急で、わかりにくいかと思います。第二章(二〇三〇年)と同じく筆者にはよくわからない部分もありますが、凭也のメモをそのまま引用しています。この章の曖昧ないし難解さは死の領域に関する叙述ゆえかもしれません。その領域に入り込んで戻って来た者はいないのですから。
ンヴィニ教の動く寺院
ンヴィニ教は無宗教派の一派でありながら、他の宗派にはない電車という「動く寺院」を持っていた。人々の住みかとンヴィニ教寺院の地域ごとの集合体である地域寺院センターを結ぶ交通機関である電車や地下鉄を「動く寺院」と呼んだ。交通機関は日本島以外の地域にもあるが、ンヴィーニはこれを独特な寺院に仕立てたのだった。
動く寺院の司祭は運転手と車掌の二人で、二千年ごろから女性の司祭が増え、二〇二〇年には男女の人数がほぼ同数になった。この寺院で大事なのは、信者たちの耳と目にくり返し同じ内容を伝える車内ならぬ院内放送と院内に流されるテレヴィ映像だった。院内放送とテレヴィ画像の内容が人々の会話の多くを占め、共通の話題になった。文章化された教義を持たない宗派においては、これら共通の話題が人々のつながりを強める。ときに、それは踏み絵のような機能を持ち、共通の話題にうとい者は仲間外れにされた。
老人たちはくり返し流れる院内放送を覚えていたから、ニュース以外は聞かない。哀しいことに、長年、放送とテレヴィを通じて洗脳されている彼らは、自分がそうなっていることを自覚できない。そんな彼らを刺激するニュースがくり返しテレヴィから流れ、同じ内容が音声で繰り返された。
ンヴィニ教の司祭たち
ンヴィニ教の教圏の及ぶところ、司祭たちはどこにもいた。車両の点検員、乗務員、各駅の駅員、駅構内の清掃員、エスカレータの保守係、売店の販売員、警備員、コーヒーショップの店員などがみな司祭だった。北米派の教会にも司祭がいた。司祭たちは表面上、顧客と呼ばれる信者たちにサービスを提供するだけだが、その行為自体が無宗教派の布教と勢力維持に深く関係していた。ただし、彼ら自身は宗教活動に携わっているとは考えていない。無宗教派と呼ばれる所以である。多くの無宗教派で外国籍の司祭が増えた理由の一つは、日本島の人々が宗教に対する不信感から司祭になりたがらなかったからで、ンヴィニ教も例外ではなかった。
老人たちが通う地域寺院センターにも多くの司祭がいたが、地上階にある寺院の司祭は外国籍が大半だった。センターの空調係、清掃員、エレベータの保守係、警備員、フロアごとの管理者なども多くは外国籍で、彼らには自分が司祭だという自覚はない。老人たちはセンターの七〇層または八〇+層にしか出入りできないが、三年以上勤めた司祭は、どこでも自由に出入りできた。彼らのサービスこそ組織維持と拡大に不可欠だったのだ。センター全体の運営管理の多くが異教徒に委ねられていたということだ。
動く寺院は一つ大きな問題を抱えていた。都市部における鉄道自殺者が絶えなかったことだ。電車の先頭車両には遺体を検死するセンサーが取りつけられ、ラッセル車に似た遺体運搬機を備えていた。遺体は各地の寺院または地域寺院センターを経由するか、電車のターミナル駅にある専用コーナーで処理された後、霊柩トラックで搬出され、河葬で処理された。信者の誰かが地域寺院センターの域内で自死すると、五年以上従事している司祭が検死する。特に若年層と七十歳以上の高齢層の自死が多かった。高い自殺率は無宗教派にとっても好ましくないので、司祭たちは何とかして自死を思いとどまらせようするが、大半は止められない。
老人たちが出入りする七〇層と八〇+層を含め、各階層には必ず回転式ドアがある。自死志望者が何回かの意思確認をへて、司祭の付き添いのもとで飛び降りるときの踏み台が階層ごとに設けられている。そこに通じるドアが回転式ドアなのだ。ドアがゆっくり回るあいだに自死を思いとどまった人は戻れるわけである。自死者が落下する場所は地域寺院センターの下を流れる汚水まみれの川であり、深い溝であった。水没した体はすぐ肉食魚類の餌食になり、時間を要せずに骨だけが川底に沈む。だから、川は自死者の墓場でもあった。病死や事故死の遺体も各地のセンターにいる司祭の手配で近くの川に運ばれ、荼毘にふされることなく河葬で処理された。
紅い球時計
ンヴィーニたちは、野球やサッカーなどの団体球技を好んだ。少年男子の多くは野球かサッカーのチームに所属し、平日は朝早くから練習して、休日は他のチームとの交流試合に臨んだ。試合の日は親たちも観戦する。応援の熱狂ぶりは三号車の老人たちと異なるところがない。テレヴィは団体球技のようすを毎日のように中継し、どの宗派のチャンネルも定期的に野球とサッカーの試合結果を報じた。
球技(戯)が盛んな理由の一つはンヴィニ教における理想の立体が球体だったことに関係する。古代ギリシャ人が円形を完全な図形と考えたように、ンヴィーニは球体に格別の意味を見出した。球体は神格を象徴し、ンヴィーニの統合の象徴とされた。女性の胸の形は球状が好まれ、下着はみな球形をかたどっていた。男性の性器が内包する二つの球体が特別の意味を持ったことはいうまでもない。
ンヴィニ教は教義を持たない無宗教派だが、その考え方の根幹に、実は電車の設計・運行思想があった。目的地にいかに早く到達するか、目的を達成するためにいかに行動するかである。だから、人々は非効率的な行動をつとめて避け、あらゆる欲望を効率よく満たそうとした。彼らの多くが晩年に患った老人性鬱病の症例は非効率に対する免疫の低さを示している。老年期に無為の時間が増え、身体的な動作が非効率になることに耐えられなかったのだ。
ンヴィーニたちの時間観念もまた特異なものだった。どの駅のホームにも紅い球体の時計が人目に付くところに置かれ、人々はそれに向かって祈りを捧げる。駅構内や寺院、動く寺院に設置された球時計の刻む時間を大本と考えたようだ。電車は分刻みで運行され、車両の停止位置まで駅ごとにほぼ決められていた。
ンヴィーニの習性
人々もまた、毎日それぞれ決められた時間に発着する電車の決められた車両に乗ろうとして、乗車駅ホームにおける乗車位置と降車駅ホームにおける降車位置を決めていた。ゲートに至る階段やエスカレータの位置まで決めている人もいた。だから、同じ時間帯の特定の車両はほぼ同じ乗客でひしめき合う。出発直前の電車に向かって人々が突進するのは一刻も早く電車に乗るためだし、一本早い電車に乗れると彼らは満足する。彼らの幸福感もまた効率性と時間にもとづくものだった。
日々の行動にとどまらず、人々の生涯にわたる行事も年齢に応じて決められていた。六歳から十八歳まで、すべての人々は学校や塾ほかの教育施設に通った。さらに数年から十年ほど教育施設に通う者も少なくない。その後、さまざまな職種の仕事について、一組の異性または同性どうしが結婚し合同生活に入る。彼らは電車を多用し、そこを生活の一部とするだけでなく、動く寺院とみなした。時刻表のような一生であり、途中で脱落した者は同じ地点に戻れない。過酷な徒競走のような社会であった。
当時、都市近郊の山々は二十世紀前半に富国強兵策を後押しするために植えられた生長効率のよいスギ林でおおわれ、生態系は貧相をきわめた。花粉症という風土病が蔓延し、雨期には土石流と呼ばれる現象がよく起こった。それでも、周囲の樹林がみな同種だから、個々の樹木や樹林の貧相さは目立たない。人々はそれに気づかず、ひたすら球体に近い頭蓋を求めた。彼らの生活の領域はほとんど電車と駅構内、そして電車が通過する周辺の風景に限られている。行き先がなくても、車内にいるだけで人々は安心した。彼らが最も恐れたのは電車という名の寺院から追放されることであり、地域寺院センターへの出入りを禁じられることだった。
回転式ドア
凭也が追っていた老人が通う地域寺院センターには地域内に住む教徒たちの利用する広場がありました。ビルの地下二階から地上三階までの五階層が吹き抜けになった広場です。その広場に老人たちが毎夜どこからともなく集まり、明けがたまでアルゼンチンタンゴを踊っていることに凭也が気づいたのは二〇二〇年の夏ごろでした。子どもたちのかん高い声もなく、勤め人の会話も電話のやり取りもない静かな空間にタンゴの音楽が響きわたっていました。
老人たちはまた、ときに無性に海に焦がれたようです。潮騒の音を聞き、寄せては返す波の音を五感で感じようとして、近くの海岸に行くのです。ある日の明けがた、凭也が追っていた老人の行っていた浜辺に、背の低い見覚えのある老人たちが大勢近づいて来ました。はじめ一人に見えた老人が、しだいに集団になって押し寄せて来たのです。老人たちはみな笑みを浮かべ、凭也と老人をどこかに誘おうとしました。老人がためらっているあいだに夜が明けると、大勢の老人たちは立ち消えてしまいました。その翌日、老人はテントに戻っても眠ることができず、いつになく衰弱し、全身が麻痺したような感覚に襲われたようです。凭也もまた、以前に感じたことのない脱力感に襲われたと話していました。
その数日後、老人は同じフロアの女性司祭たちを誘い、深夜に地域寺院センターに向かった。午前一時を過ぎ、電車も地下鉄も運転していないが、グローブ駅のドームには煌々と明かりがついていた。地域寺院センターのロビーに着くと、老人がその前に立つだけで開くはずの七〇層あるいは八〇+層のドアがびくともしない。こんなことは一度もなかったから、老人はそれまでに感じたことのない不安に襲われた。しばらくすると、ドームの天井から耳をつんざくような怒声が響いた。それは人の声のようであり、動物の咆哮のようでもあった。凭也もその声を聞いたという。その不気味な声が不安感を深め、老人はいても立ってもいられない気持ちになった。それから小一時間経ったとき、突然、アルゼンチンタンゴの歌声が大音量で流れてきた。まるで、誰かが上方で歌っているような響きだった。歌声の主は一九二〇年代のガルデルのようだった。
そのとき、老人と司祭たちは地域寺院センターのロビーにいたはずだが、あるいはグローブ駅のドームだったかもしれない。どちらにせよ、そこはいつもと違う荘厳さに包まれ、タンゴ音楽が響いていた。七〇層も八〇+層もドアが開いているように見えたが、二つのドアのほうに向かうと、また同じように引き戻され、後ずさりさせられた。いくらあがいても近づけない。動転した老人と司祭たちは何度も近づこうとしたあげく、力尽きてロビーの中央で身動きできなくなった。老人がまわりを見回すと、彼のほかに男女の老人数十人が集まっていた。いや、老人だけではない、若い男も女も子どももいる。肌の色も黄色から褐色、黒色とさまざまだ。数百人はいるのではないか。いったい何が起こっているのだろう、老人も凭也も力なくすわり込んでいるだけで、自力では動けないし、何かをする気力もない。
次の瞬間、彼らがいつも乗り込んでいたドア近くが急に暗転したかと思うと、別のドアが開いて彼らを招いているように見えた。そのドアは他のエレベータのドアとは違い回転式ドアでゆっくりと回っている。ロビーにいた老若男女はそこに向かわなければならないような強迫観念に襲われ、吸い込まれるように入っていった。誰一人としてロビーに残っている人はいない。全員を収容した巨大なエレベータはドアを止めると、静かに地底に降りていった。誰も地底に行ったことはない。ただ、そこに行った者は二度と地上に戻れないといわれていた。
目に見える光景はこれまでと同じなのですが、何かが違います。音楽もよく聞いたものなのに、どこか不確かで頼りないのです。地域寺院センターのようであり、グローブ駅のロビーのようにも見えます。確かなのは、巨大に明るい広場に老人たちが溢れていたことです。若い男女や子どももいますが、ごく少数でした。みな同じ顔をして、不気味な微笑を浮かべています。
凭也は一人の老人のあとを追い、彼と周囲の人々の行動を観察してきました。ところが、いつのころからか、一人だったはずの老人が複数に見え、また一人に戻ることが生じていました。このような錯乱状態がしだいに増え、しだいに男女の違いを見分けるのもむずかしくなったのです。追っていたはずの老人を急に見失うこともあったようで、凭也は明らかに自身の観察能力に自信を失くしていました。筆者の観察によれば、彼の認知症の症状が明らかに深刻になっていたのです。
回送電車
地域寺院センターかグローブ駅のロビーでミロンガが行われていた深夜、だれも乗っていない明かりの消えた列車が単線の線路の上を動いていました。ヘッドライトに照らされたレールと枕木のあいだの線路に外来種の雑草がおい茂り、線路の両側にはゴミがうず高く堆積しています。運転手はレールに沿って電車を走らせ、車掌は誰もいない車内に向かって虚しく説教を続けています。漆黒の闇夜のなか、窓を開けたまま乗客のいない回送電車が走っています。ガッターンドットーン、ドッターンゴットーン、ダッターンゴットンドットン、ドットーンガッターンドットン、ゴットーンダッターンドットーン、列車はゆったりした速度で重々しい低音を響かせながら進んでいます。
凭也が踏み切りのまん中に立って電車の最後部の紅い球状の照明を見ていると、踏切と電車のあいだの線路の上でンヴィーニたちがからみあい凭れ合うようにして、蜃気楼のように揺れています。電車の行く手には暗く長いトンネルがあり、後戻りすることはできません。凭也には、その風景が確かに見えていました。
その後、凭也は老人や司祭たちに会っていないようです。回転式ドアからエレベータに乗り込んだ老人や若い男女と司祭たちが見たのは死の世界だったに違いありません。筆者はそう考えています。同行したはずの凭也は何を見て、その後どうなったのでしょう。彼はその後治療にも来なくなりました。彼が生きているのかどうかさえ、わからないのです。
誰も凭也の言うことを聞かなくなって数十年が経ち、彼はとっくに世間的には死んだも同然の人でした。でも、彼がまだ生きていて、どこかにいるのであれば、すぐに会いに行きたいと思います。彼が老人たちの引力に抗えなかったように、筆者はいま彼の強い引力を感じ、それに囚われて身動きの取れない日々を過ごしています。そして、彼のテントがあったはずの場所を毎日のように訪ねています。凭也が見たであろう回転式ドアはいったいどんな姿をしていて、それに乗るとどうなるのか彼に会って聞きたいのです。それが死に通じるものだとしてもです。