一茶の生立ちと妻子たち

西暦一茶: 出生から江戸奉公に出るまで
1763年6月15日宝暦13年5月5日 一茶(本名: 弥太郎)柏原(長野県信濃町)に生まれる、父弥五兵衛(31)、母くに(仁ノ倉出身 年齢不詳)
1765年
10月1日
明和2年8月17日[一茶3歳] 母くに死去
1770年明和7年[一茶8歳] 倉井村(長野県飯綱町)から継母はつ来る、はつと一茶の関係険悪
1772年明和9年[一茶10歳] はつ仙六を産む
1776年
9月26日
安永5年8月14日[一茶14歳] 一茶を継母から守っていた祖母の死後、はつと一茶の関係さらに悪化
1777年安永6年春[一茶15歳] 一茶柏原を離れ江戸へ奉公に出る。10年後の天明7年(1787年)まで消息不明
資料Wikipedia 小林一茶より抜粋
西暦一茶: 結婚と妻子たち
1814年5月30日文化11年4月11日一茶(50)、菊(28)と結婚
1815年
5月10日
文化13年4月14日長男千太郎生まれ、28日後に死去
1818年
6月7日
文政1年5月4日長女さと生まれる、文政2年5月末天然痘に感染、6月21日(1819年8月11日)に死去
1820年
11月10日
文政3年10月5日次男石太郎生まれる、同年11月11日(1821年2月13日)菊の背中で窒息死
1822年
5月1日
文政5年3月10日三男金三郎こんざぶろう生まれる、菊の死後、文政6年12月21日(1824年1月21日)に死去
1823年
3月31日
文政5年2月19日菊が病に倒れ、文政6年5月12日(1823年6月20日)に死去[一茶(59)]
1824年
6月8日
文政7年5月12日雪と再婚するも、8月3日(1824年8月26日)に離婚
1827年
8月
文政10年、一茶やをと3度目の結婚
1828年
1月5日
文政10年11月8日夕刻、一茶死去
1828年
4月
文政11年4月、やを女児やたを出産
資料Wikipedia 小林一茶より抜粋転載
生年没年齢*
千太郎文化13年
4月14日
文化13年
5月11日
1歳
さと文政1年
5月4日
文政2年
6月21日
2歳
石太郎文政3年
10月5日
文政3年
11月11日
1歳
金三郎文政5年
3月10日
文政6年
12月21日
2歳
やたやを文政11年
4月
明治6年
9月13日
47歳
*数え
Wikipedia 小林一茶より抜粋転載
….文化11年(1814年)2月、一茶は弟、仙六と家の分割を行った。前年の1月に遺産問題は解決したものの、1年余り家屋の分割を実行していなかった。この時期に分割を行ったのは、一茶の結婚が本決まりになり、自宅が必要になったからと考えられている。
文化11年4月11日(1814年5月30日)、一茶は結婚した。結婚相手は野尻宿の新田赤川(信濃町)の常田久右衛門の娘、菊。菊は28歳であり、一茶とは親子ほど年が離れた夫婦であった。仲人は仁之倉の宮沢徳左衛門、一茶に菊を紹介したのも徳左衛門であったと見られている。常田家は宮沢家の親戚筋に当たり、米の取引も行う新田赤川では有力な農家であった[210]。結婚後、一茶と菊は仲人宮沢徳左衛門への挨拶、新婚後の里帰り、村役人への挨拶、そしてご近所への挨拶回りをきちんとこなした[211]
一茶と妻の菊との仲は、時には夫婦喧嘩をしたこともあったが良好であった。また菊は、柏原の住人たちに不義理にしがちな夫、一茶と違って近所付き合いもきちんとこなした。そして田畑を耕そうとしない一茶と違って農作業に精を出し、何よりもこれまで確執があった隣の弟、仙六のところや、仲人の徳左衛門のところにも農繁期は手伝いに出た。一茶と犬猿の仲であった継母にもきちんと仕えている[212]
弟との遺産問題は無事解決し、妻も迎えた一茶は、これまでは節制していた酒も時々深酒をするようになり、飲酒をする機会も増えた。文化12年(1815年)12月、江戸に出ていた一茶は友人宅で大酒し、夜中に板の間に放尿してしまった。一茶自身も生まれて初めての失敗としており、この頃から生活に緊張感が見られなくなってきた。しかし一茶は安定した生活に安住することは叶わなかった[214]
相次ぐ子どもの夭折と妻の死
文化13年4月14日(1815年5月10日)、妻、菊は長男千太郎を出産する。しかし千太郎は生後わずか28日で亡くなってしまった。あっという間に亡くなってしまったこともあってか、一茶は千太郎の死に関しては大きなショックを受けた形跡はない。しかし菊は3男1女を儲けるも、皆、満2歳を迎えることなく夭折する。遺産問題の解決、結婚によって菊は長男千太郎を出産の生活にかつてのような緊張感が無くなり、一茶の俳句もやや弛緩しかけていたが、この相次ぐ子どもの夭折に代表される家庭的不幸は、結果として一茶の作品に最後まで張りを持たせ続けることに繋がった[215]
一茶は長男、千太郎を失った後の8月には、七番日記に妻、菊との性交渉の数をしばしば記録している。これは若い妻と結婚した一茶のあせりのようなものの現れではないかとの意見や、子ども欲しさによるものではないかとの説もあるが、あるがままの表現を重んじた一茶らしいエピソードとも言える。いずれにしても日記に記された赤裸々な性生活の記事の内容からは、一茶は精力絶倫であったと考えられている[216]
文政元年5月4日(1818年6月7日)、妻、菊は女の子を生む。女の子は「賢くなれ」との願いを込め、さとと名付けられた。愛児さとの生と死を主題とした俳文「おらが春」は一茶渾身の作といってよい内容であり、文字通り代表作とされている[217]。さとは最初のうちはすくすくと成長する。おらが春ではあどけないさとの姿と目に入れても痛くない父、一茶自らの親馬鹿ぶり、そして母の菊が母乳をあげる姿を丹念に描写し、「蚤の跡かぞへながらも添乳かな」愛児さとが蚤に食われた跡を数えつつ母乳をあげている子をいつくしむ母の姿を詠んだ[218]
ところがまもなく運命は暗転する。文政2年(1819年)5月末、さとは天然痘に感染する。天然痘自体は6月に入ってかさぶたが落ち小康状態になったかに見えたが、体調は一向に回復せず、治療を尽くしたにもかかわらず6月21日(1819年8月11日)に亡くなってしまった。一茶はおらが春に愛しいわが子を失った親としての嘆きを綴った上で「露の世は露の世ながらさりながら」と、さとを失った無念、あきらめきれない悲しみを詠んだ[219]。そしてこの年の夏、「せみなくやつくづく赤い風車」と、蝉しぐれの中、主を失い、むなしく回り続ける赤い風車を詠んだ[220]
文政3年10月5日(1820年11月10日)、妻の菊は次男石太郎を生む。石太郎という名は石のように強く長生きして欲しいとの願いを込めて付けた名であった。ところが次男誕生の喜びに浸る間も無く、一茶の身に不幸が襲う。
文政4年1月11日(1821年2月13日)、一茶に再び不幸が襲う。生まれて100日経っていない石太郎が、母、菊の背中で窒息死してしまうという事故が起きた。愛児の事故死を受けて一茶は妻のことを激しく罵る文章を残している。確かに石太郎の事故死は菊の過失ではあるが、実は石太郎は生まれながらの虚弱体質だったのではとの推測もされている。「陽炎や目につきまとふわらひ顔」は、一茶が石太郎の死を悼み、詠んだ句である[222]
弟との遺産問題を解決し、妻も迎え、俳諧結社の師匠として北信濃各地に門人を持ち、故郷に安住したかに見えた一茶であったが、故郷に受け入れられたという思いを抱くことはなかった。
文政5年、一茶は60歳となった。60歳を超えた一茶の作品には、旧作と同工異曲なものや、安易な作が目立つようになってきた。しかしこの年の暮に執筆した俳文、「田中河原の記」は、軽妙な文体の中にも北信濃の風情、そして貧しい人々に対する暖かい眼差しが感じられるすぐれた文章で、一茶の文学的な実力自体はまだまだ健在であった[229]
文政5年3月10日(1822年5月1日)、妻、菊は三男を生んだ。次男石太郎を亡くした父、一茶は生まれた子に石よりも硬くて丈夫であるとして、金を名に冠した金三郎と名付けた。出産後、妻の菊が体調を崩した、産後の肥立ちが良くなかったのである。その後も菊の体調は本調子にはならず、病気がちな日々が続いた[230]
文政6年(1823年)正月、還暦を迎えた一茶は「春立や愚の上に又愚に帰る」と、これまでの自らの人生を愚に生きてきたとし、そしてまた愚に帰っていくのだと詠んだ[231]。この句は一茶が深く信仰していた浄土真宗の教えに密接な関わり合いがある。一茶は様々な欲にまみれ、利己主義的で激情の抑えが効かないといった大きな欠点を抱えた人物ではあったが、自らの深い罪業を直視する目も持っていた。愚に生きることの告白ともいえる句は、自らを愚禿と称した宗祖親鸞が唱えた、「悲しいときは泣き、嬉しいときは喜び、そして苦しいときは苦しんで生きられる、絶対安心の境地」である「自然法爾」を表現したと言われている[232]
2月19日(1823年3月31日)、妻の菊が病に倒れた。病名は痛風であったと伝えられている。病状は一時改善するものの、3月に入ると悪化し、医師の診察を受けたり様々な薬を飲んでみたにもかかわらず、病状は悪化していった。菊の病状が悪化すると、俳諧師として門人宅回りを欠かすことが出来ない一茶では子どもの世話を行うことがままならないため、やむを得ず知人宅に預けることにした。そして妻の菊も実家に帰って療養することになった。一茶は夫としてしばしば妻の見舞いに行ったが、病状は悪化するばかりで結局5月12日(1823年6月20日)、37歳で亡くなった[233]。妻を失った後、一茶は、「小言いふ相手もあらばけふの月」と、小言を言う相手が居なくなってしまったと嘆く句を作った[234]
菊の没後、葬儀の際に息子、金三郎が知人宅から戻ってきた。しかし金三郎はすっかりやせこけ、骨と皮ばかりで息も絶え絶えの様子である。一茶は知人が乳が出ないのにもかかわらず保育料欲しさに金三郎を預かったとして、例によって知人のことを人面獣心と断罪するなど口を極めて罵った俳文を書く。これもさすがに乳を飲ませなかったとは考えにくく、金三郎自身が虚弱であったのではと考えられる[235]
結局知人宅から息子金三郎を取り返した一茶は、改めて別の乳母に預けることにした。金三郎は一時容体を取り戻したものの、結局12月21日(1824年1月21日)に亡くなってしまった。文政6年、一茶は妻と息子の2回、葬儀を出すことになってしまった[236]。菊との間に生まれた一茶の子どもたちが皆、2歳を迎えることなく夭折したのは、一茶が持つ病気の影響があったのではとの説がある。妻の若死についてもあるいは一茶の病気に原因があるのではと言われている[237]
妻と子を亡くし、一茶は文政7年(1824年)の正月をたった一人で迎えた。「もともとの一人前ぞ雑煮膳」正月、一人前の雑煮を前に、妻と子を亡くした淋しさの中で、思い返せば江戸生活はずっと一人であったわけで、もともとの独り者に戻ったにすぎないというあきらめの境地を詠んだ[238]
9年間連れ添った妻の菊とその間にできた4人の子どもたちを全て亡くし、文政7年の正月を一人で迎え、「もともと自分は独り者であった」との思いを俳句にした一茶であったが、正月早々後添い探しを始めた。一茶は再婚したいとの希望をあちこちに語っていたというが、1月6日(1824年2月5日)には知人である関川(新潟県妙高市)の浄善寺の住職に急ぎお返事くださいと後妻の紹介を依頼する手紙を送っている[239]
浄善寺の住職に依頼した再婚相手の紹介話は実らなかったが、意外なところから再婚話が持ち上がってくる。これまで弟との遺産相続問題で弟側に立ったり、伝馬役金の免除問題などがあり、一茶との関係が良くなかったと推測されている本家の弥市が一茶の再婚を支援したのである。4月28日(1824年5月26日)、弥市は自らの娘が重い病の床に就いていたのにもかかわらず、一茶の縁談の話をまとめるために飯山に行っている。弥市の娘はその後まもなく5月2日(1824年5月29日)に亡くなった[240]
弥市の娘の葬儀は5月3日(1824年5月30日)に行われた。そのようなあわただしい中、5月12日(1824年6月8日)、再婚相手が飯山からやって来て、待望の再婚を果たした。一茶の日記によると再婚相手は雪という名で、飯山藩士田中氏の娘であり、年齢は38歳と記録している。つまり雪は武士の娘であった。一茶の研究家である小林計一郎、矢羽勝幸の研究によって、雪は飯山藩士田中義条の娘であったと推定されている[241]
一茶との結婚時、雪が38歳というのは当時の結婚適齢期から見て大きく外れたものであり、それまでの雪の人生が必ずしも恵まれたものではなかったことが推測される。雪は最初父、田中義条と同じ飯山藩士の安田新助という人物と結婚したと考えられるが、離婚して実家に戻っていた。安田との離婚理由は飯山藩士を召し放たれたため、つまり何らかの理由で夫が藩士を首になり、浪人となってしまったからであるとの推測もある。いずれにしても一茶と雪はともに再婚であった[242]
雪との再婚後、菊との初婚時とは異なり、近所や親戚回り、そして村役人への挨拶が行われた形跡は無い。それどころか新婚の一茶宅には各地から俳人がひっきりなしに訪ねてきた。全国にその名が轟いていた俳諧師一茶のもとには俳人の来訪が絶えなかった。新婚直後の一茶宅にも普段と変わらず客人がやって来たのである。そして5月30日(1824年6月26日)からは一茶は本業ともいうべき北信濃の門人巡りに出る。一茶は6月中は一回も自宅に戻らず、家を出て39日後の7月9日(1824年8月3日)、ようやく家に戻ってきた。結婚後近所、親戚、村役人への挨拶も無く、新婚直後からひっきりなしの来客、そして一月以上の夫、一茶の留守という状況は、新婚直後の妻としては厳しいものがあった。ましてや菊とは異なり武士の娘であった雪にとって、農業の経験もなく、これまでの生活習慣との違い等も大きかった。雪は一茶が自宅に戻った直後、飯山の実家に戻り、結局8月3日(1824年8月26日)に離婚となり、8日(1824年8月31日)には使いが雪の荷物を引き取っていった。こうして一茶の再婚は失敗に終わった[243]
再婚の失敗直後、一茶に更なる不幸が襲った。離婚から1カ月も経たない閏8月1日(1824年9月23日)、善光寺町の門人宅で中風が再発したのである。一茶は一命はとりとめたものの、はっきりとした言語障害が残ってしまった。中風の再発後、療養を兼ねて北信濃各地の門人宅を回り、12月4日(1825年1月22日)に自宅に戻った[244]
初婚の妻、菊との死別、子どもたちの夭折、再婚相手の雪との離婚、2度の中風と、一茶は様々な家庭的、身体的不幸の中で晩年を迎えていた。しかし2度の中風で身体的に不自由となり言語障害にも見舞われたものの、幸いにも知的能力は障害を受けなかった。文政8年(1825年)、63歳の一茶は不自由な体ながら竹駕籠に乗り、204日と年の半分以上、本業である俳諧師匠としての北信濃の門人巡りをこなした[245]
一茶家の家事や留守時の管理については仁之倉のいとこ、徳左衛門が支援していたと考えられているが、どうやら手が回りかねるようになったらしく、文政8年12月に一茶は家政婦を雇った。そして翌文政9年(1826年)、64歳の一茶に再再婚の話が持ち上がることになった[253]
文政8年(1825年)、一茶の近所ではちょっとしたスキャンダルが発生していた。かつて一茶もよく利用していた旅籠の小升屋に奉公をしていた、やをという女性が私生児を生んだのである。やをは越後の二股(妙高市)の裕福な農民、宮下家の娘であったが、柏原の小升屋に奉公に出ていた。そこで近所の柏原有数の名家、中村徳左衛門家の三男の倉次郎と親しくなり、倉吉という男の子を生んだ。出産時、やをは31歳、一方、倉次郎はまだ10代であった。中村徳左衛門家は柏原の本陣、中村六左衛門家の分家であり、当時、柏原一の地主である上に富裕な商人でもあった。その中村徳左衛門家のまだ10代の三男坊と、近くの旅籠に奉公に出ていた30過ぎの女性との間に私生児が出来たわけなので、まさにスキャンダルであった[254]
周囲はこのスキャンダルをどのように処理すればよいのか、頭を悩ませた。その中で浮上してきたのが一茶の存在であった。64歳の一茶は独り身でありこのままでは絶家になってしまう。しかし一茶はれっきとした自作農で、後継ぎがいれば家の存続は十分可能である。2度の中風を起こしている一茶は体が不自由で、介護が必要である。そのうえ、倉吉は私生児であるとはいえ父は柏原有数の名家、中村徳左衛門家の三男の倉次郎であり、母のやをも越後二股の富裕な農民、宮下家の娘である。前述のように小林家は柏原でも有力な家系であったが、倉吉は一茶の家を継ぐに当たって家系的に問題が無い。このような思惑から一茶とやをの結婚話が進められることになり、文政9年(1826年)8月、仲人役となったいとこの徳左衛門が結納金2朱200文を、やをの実家、越後二股の宮下家に届けた。その後まもなく一茶はやをと3度目の結婚をした。一茶64歳、やを32歳、そして連れ子の倉吉は2歳であった。しかし一茶3回目の結婚生活もわずか1年3カ月しか続かなかった[255]
文政10年(1827年)、65歳を迎えた一茶は、再再婚を果たし、連れ子であるとはいえ後継ぎの目途も立った。一茶にようやく平穏な晩年が訪れるかに思えた。しかし不幸は最後まで一茶の身に襲いかかる。文政10年閏6月1日(1827年7月24日)、柏原で大火が発生した。出火元は善五郎という人が住む借家であった。火は折からの南風にあおられて燃え広がり、結局柏原宿の8割以上の世帯が焼け出されるという大惨事となった。一茶の家も隣の弟、仙六の家も全焼したが、不幸中の幸いにも一茶所有の土蔵は焼失を免れた[256]
やむなく一茶の家族は土蔵を仮住まいとする。土蔵は高いところに窓が一つ空いているだけの、昼も薄暗い住居であった。一茶は不自由な体と言語障害を抱え、手先も震えて書字も不自由になっていた。しかし火災後もそれまでと変わらず俳諧師匠としての門人巡りを続けていた。柏原の大火後、ある門人は、一茶の話している言葉が聞き取りにくく、怒りっぽくなっていて困っていると記録している。他の記録からも晩年の一茶は短気で怒りっぽかったと記されている[257]
文政10年11月8日(1827年12月25日)、俳諧師匠としての巡回指導を終え、一茶は久しぶりに柏原の土蔵に戻った。11月19日(1828年1月5日)、気分が悪くなって横になった一茶は、その日の夕刻亡くなった。享年65歳であった。一茶の死は急死に近く、辞世は伝わっていない。一茶の遺体は荼毘に付され、遺骨は菩提寺の明専寺裏手にある先祖代々の墓地に合葬された。一茶の死去時、妻のやをは一茶の子を身籠っていた[262]
一茶が亡くなった翌年の文政11年(1828年)4月、やをは女児を出産した。一茶の死後に生まれた次女はやたと名付けられ、夭折した初婚の菊との間の4人の子どもとは異なり、やたはすくすくと成長していく[263]。小林家では一茶を亡くし、やたが生まれた後、未亡人のやを、実父が中村徳左衛門家の三男倉次郎である倉吉、一茶の娘であるやたの3人で暮らしていた。しかし中村徳左衛門家で倉次郎の2人の兄が相次いで亡くなったため、家を継ぐことになった倉次郎は、天保6年(1835年)には実子の倉吉を引き取った上で善吉と改名させた。その後、善吉は分家して新たに一家を創立する[264]
結局、小林家は未亡人のやをと一茶の子のやたの二人となった。無事に成長したやたは嘉永元年(1848年)頃、越後の高田(上越市)で農業を営んでいた丸山仙次郎の8男であった宇吉を婿に取った。小林姓となった宇吉は弥五兵衛と改名し、妻やたとの間に3男1女の子宝に恵まれた。生前、一茶の念願でもあった家の存続は一茶の死後に生まれたやたによって、ようやく果たされた[265]
[Wikipedia 小林一茶より抜粋転載]