[市川蛇蔵2022JBPressより転載、一部追加編集しました]
小林一茶は、松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳人である。Kobayashi Issa (1763-1828) was a leading haiku poet of the Edo period (1603-1868), along with Matsuo Basho (1644-94) and Yosa Buson (1716-84). 参考: 縦書き文庫「一茶発句集」
「名月を取てくれろとなく子哉」「やせ蛙負けるな一茶これにあり」「目出度さも中位也おらが春」。こうした句がよく知られるが、江戸での奉公生活やその後の安定しない俳諧行脚の生活など、自身の肌身に感じた生活の苦労、人生の矛盾、貧しさにあえぐ人々の日常の姿を投影した句も多い。庶民らしい親しみのある優しい表現で、目に映る人・小動物・昆虫など、小さいもの、弱いものを好み、それを自分自身に置き換えて表現し、それまでの俳句とは一線を画した「一茶調」と呼ばれる独自の作風を確立。分かりやすい表現の中に「生」をモチーフにした、時代を超えて共感できる人間らしさが漂っている。
一茶は1763年に長野県上水内郡信濃町に中位クラスの農家の子として生まれた。3歳で母・くにを亡くし、養育は祖母・かなが担ったが、一茶は孤独な少年時代を追憶して、後に「我と来て遊べや親のない雀」を詠っている。母・くにの死後、8歳の年に父・弥五兵衛は後妻である・はつと再婚する。継母・はつは気は強いものの勤勉な女だった。一茶は、この継母と折り合いが悪かった。それを見た父・弥五兵衛は、一茶とはつを引き離すために一茶を江戸に奉公に出した。農家の子が奉公に出されることは珍しいことではなかった。だが、一茶のような中クラスの自作農の長男が江戸に奉公に出ることは異例なことだった。江戸へ出てから10年間、一茶のはっきりとした足取りはつかめていない。だが生活苦にあえいでいたことは確かなようだ。
椋鳥とは田舎者をからかう言葉である。椋の実をついばる椋鳥は秋に南下する。越後や信濃から江戸へ出てきた出稼ぎの田舎者を江戸の庶民は椋鳥に喩えた。一茶は自分が揶揄されたことを「椋鳥と人に呼ばるる寒さかな」とその心境を句にしている。また、「梅が香やどなたが来ても欠茶碗」と自身の困窮した生活を描写し、東北地方や西国に俳諧行脚の旅に出た際には「夕燕我には翌のあてはなき」など先の見えない不安を投影する句も残している。
江戸へ出てしばらくすると、現在の横須賀市浦賀を旅した時に知り合ったナツという既婚女性に一茶は熱い想いを燃やしていた。ナツは同世代だったが若くして亡くなった。一茶はナツの25回忌にわざわざ信濃から墓参に訪れるなど、心に深く残った女性だった。また、結婚する前の44歳の時、花嬌という女性を愛している。花嬌は名主の娘で人妻だった。心に秘めた一茶の恋人で、その面影が忘れられない様子を「近寄れば祟るぞ榎ぞゆう凉み」と詠っている。
一茶が女性たちを詠った句はかなりあるが、卑猥な句も作っている。「立田姫尿かけたまふ紅葉哉」。これは立って尿をしている女性をあらわしている。江戸時代以前の庶民の女性が立ち小便をするのは珍しいことではなかった。旅先で知り合い、一夜をともにした女性を詠った句も数多くある。「木がらしや二十四文の遊女小屋」。木枯らし吹く寒空の中、粗末な小屋から最下等の遊女たちが客を誘う光景を表わしたものだ(二十四文は現在の600円)。
蕎麦1杯の値段で身体を売らなければならない娼婦たちの過酷な現実を映し出している。時代を問わず、たいていの男は自分の収入に応じて分相応に女郎買いをするものだが、一茶の敵娼(客の相手となる遊女)は道ばたの客を引く街娼の一種・夜鷹の女が主な対象だったようだ。夜鷹*とは夜に寝むしろを敷いて野天、または仮小屋で売春した女性たちのことで、岡場所などで通用しなくなった40歳から60歳と古媼が多かった。梅毒など悪性の病気持ちがほとんどだった。
*最下級のもぐりの娼婦で取り締まりの対象となっていた。その客は下級の奉公人・下級労働者が多かった。名の由来は夜になると横行するため、夜、飛びながら獲物を捕食する鳥になぞらえたものとされる。
「女郎花あっけらかんと立ちにけり」「夕顔にほのぼの見ゆる夜鷹哉」「玉露夜鷹は月に帰るめり」「さらぬだに月に立待惣嫁哉」などは、一茶が路上で客を引く夜鷹を親しみを込めて美しく詠い上げたものだ。「惣嫁」という表現は「哀れだが美しい」という意味合いがあり、夜も更けた静けさの中、可憐だが不憫な女郎が月の光の中で立っている様子を表現している。
夜鷹に対し舟で商売する格安の娼婦を「船まんじゅう」といった。河岸場や橋の袂に小舟を留めて川べりの道をぶらついている男に「ちょっとあんた、遊んでいきねぇ」と声をかけ、舟に招いて春を鬻ぐ。一茶は舟から客に声をかける女郎の様子を「遊女めが見てけつかるぞ暑い舟(娼婦が蒸し暑そうな舟からこっちをみて居やがる)」と活写している。
ちなみに船まんじゅうは32文と夜鷹より、わずかに値段が高かった。川柳に「素見が七分買うやつが三分なり」がある。熱心に張見世(客が遊女を格子越しに見立てる)で遊女を物色している男のうち実際に「登楼」するのが3割。7割が「素見」で、ただの冷やかし客が圧倒的に多いことを表している。「涼しさにぶらく地獄巡り哉」。この句は一茶が道に連なる私娼窟の下流遊女をひやかした時の様子を映し出したもの。遊女は、貧しいながらも「素見」の客に「すいつけ煙草(火を吸いつけて相手にさし出すタバコ)」をふるまうこともあった。本来ならば吉原など上級の遊女と遊びたかった一茶だが「素見」か、夜鷹を買うのがせいぜいだったようで、自分と同じように過酷な境遇にあえいでいる下流の娼婦を貶めることはなかった。
39歳の時、父が亡くなると遺産相続を巡り、継母・はつと異母兄弟・仙六と対立し、足かけ13年もの間、骨肉の争いを続けることになる。一茶が15歳で故郷、柏原から江戸に奉公に出た後、父・弥五兵衛、継母・はつと腹違いの弟・仙六は昼夜を徹して懸命に働き、小林家は一茶が故郷を離れた時よりも大幅に財産を増やし、有力な農民となっていた。継母・はつと仙六は自分たちが小林家の財産は増やしたとの自負があった。農作業中に突然、倒れた父・弥五兵衛は、病状が次第に重くなるにつれて死期が近いと感じた。弥五兵衛は一茶と仙六を呼び、財産を2人で均等に二分するよう言い渡した。仙六にしてみれば、長年、故郷を離れていた一茶と二分せよと言われても納得できなかった。だが、家族や故郷を捨て、諸国を放浪しながら俳諧一本で生活しなければならなかった一茶とって、父の遺産を相続することは重大かつ切実な死活問題だった。
俳諧で諸国を旅するほど健脚だったが、40代になると体に老いが忍び寄ってきた。40代後半でほとんどの歯を失い、49歳にしてすべての歯を失った。51歳の時、継母との遺産相続問題は一茶が屋敷半分をもらうことで解決し、晴れて故郷・柏原に定住する。「梟よ面癖直せ春の雨」。この句は、今までの孤独で貧乏で遺産を争っていた悪い面構えを直して、これからは清々しく暮らそうという決意の風情である。俳諧師としても一茶は全国的にその名が知られるようになり、多くの門人を抱えて俳諧師匠となった。生活の安定を得ると、待望の初めての妻・お菊を迎えた。一茶52歳。お菊は28歳。
「わが菊や形にもふりにもかまはずに」。お菊は近所付き合いもきちんとこなし、田畑を耕そうとしない一茶に代わって農作業に精を出し、一茶と犬猿の仲で確執があった継母のところにも農繁期は手伝いに出ている。『七番日記』はその日の天気や出来事などが記されていた一茶の生活の記録である。その日記には妻の月経や房事の回数が記されている。
「めぐり日と俳諧日也春の雨」。この「めぐり日」とは月経日のことで、月経を忌みものとしていないのは、一茶の子供欲しさによるものとされる。『七番日記』の、お菊との最初の交合の記録は1816年1月21日で「墓詣 夜雪交合」。同年8月8日には「夜交合五回」。同12日「夜三交」。同16日-20日毎日「三交」。21日「隣旦飯 四交」と13日間で27回性交を行なうなど、50代半ばにして長かった独身生活を挽回するかのように新妻の身体を貪り続けられるのは、一茶が相当な精力絶倫男だったことの現れである。
お菊は1815年、長男千太郎を出産する。だが千太郎は生後28日で亡くなってしまった。その3年後、妻・菊は長女さとを出産。さとも天然痘に感染し1歳を迎えて1月半後、死んでしまう。次男・石太郎が生まれると「石のように強く長生きしてほしい」との願いを込めて名付けた。石太郎が生まれて10日後、一茶は雪道で転んで半身不随となり、生まれたばかりの次男と枕を並べることになる。翌年、石太郎は母の背中で窒息死。三男が生まれると石よりも硬くて丈夫であるよう、金を名に冠した金三郎と名づけた。翌年、妻・菊が死去。三男・金三郎も同じ年に死んでしまう。最愛の妻は結婚9年目で亡くし、4人の子供は全員が虚弱で満2歳を迎えることなく夭折したのである。
妻の死因については、一茶に梅毒をうつされ、農作業と育児の過労に加えて一茶の猛烈な性行為の繰り返しにより衰弱して病気になり死亡したといわれている。4人の子供の死因もまた、一茶から感染した菊の悪性の性病が子供たちにも次々と母子感染したため虚弱となり生後まもなく死んだとされる。一茶は先述のとおり、若い時から娼婦を買っていた。門人に送った手紙には「吉田町二十四文でもなめたかと」とある。吉田町は夜鷹の巣窟であり、夜鷹とちぎった男たちは、例外なく梅毒をうつされたという。
妻を失った後、一茶は「小言いふ相手もあらばけふの月」と、文句を言う相手が居なくなった寂しさを嘆いている。還暦を迎えた一茶は「春立や愚の上に又愚に帰る」と、自らの愚かな生き様を顧みてさらに愚かになっていく自分の様子を詠っている。菊の死後、一茶62歳の時、2人目の妻・雪(38歳)と再婚する。雪は一茶の大小便の後始末も厭わずよく働いた。だが、性交が大好きな一茶に毎日、しかも一日に何度もせがまれ2か月足らずで破局する。「へちまづる切て支舞ば他人哉」。再婚の破綻直後、一茶はそのショックからか、翌月、中風が再発、重い言語障害に陥った。身体が不自由で、介護が必要な一茶に64歳の時、再再婚の話が持ち上がった。「やを」という女性である。やをは32歳だが10代の少年との間に私生児を生んでいたワケありの女だったが、65歳を迎えた一茶はやをを妻に迎え再再婚を果たす。
だが、3度目の結婚生活も1年3カ月しか続かなかった。俳諧の巡回指導から戻った一茶は急に気分が悪くなり横になると、その日の夕刻、急死。享年65歳。一茶は人間の一生をこう詠っている。「盥から盥へうつるちんぷんかんぷん」(生まれたら産湯の盥、死んだら湯灌の盥。その間の人が生きるという意味とは何なのか、それが分からないうちに人生は終わる)。並の人をはるかに上回る精力があった一茶が死んだ時、妻・やをは一茶の子を身籠っていた。同年、やをは一茶の次女を出産、一茶の没後、3番目の妻は幸せで安寧な日々を送り、74歳まで生きたという。
一茶の死後、その俳人としての名声が落ちることはなかった。明治時代(1868-1911)になると正岡子規(1867-1902)らに賞賛され、芭蕉、蕪村とともに一茶は江戸時代を代表する俳人として、いまも人々に親しまれている。