https://www.risktaisaku.com/articles/-/14680 より転載しました(一部編集)。
幕末の列強による外圧と国内の攘夷の烈風の中、世界を見据えていち早く新国家構想を打ち出した人物は誰か。元治元年(1864)にすでに4年がかりの計画で横須賀に大造船所を建造すべく計画を立てた人物は誰か。歩兵・騎兵・砲兵の3編成の近代的軍隊をつくったのは誰か。対外為替相場を有利に改定し、貨幣を改鋳し、今までの不換紙幣を改めて、日本最初の兌換紙幣を発行させたのは誰か。日本にコンパニー(貿易商社)を設立し、外国との取引を有利にしようと試みた者は誰か。 役人の俸給制度を切米(年3回支給された扶持米)から金に改め、恩給法を制定したり、所得税、奢侈税を設けたのは誰か。日本に最初の理工科系学校や外国語学校をつくったのは誰か。江戸の街にガス灯の普及を図り、豪華な洋風ホテル(築地ホテル)を計画し、新橋・横浜間に鉄道をつくる準備を進めたのは誰か。 それは江戸幕府・幕臣として初めて世界一周を成し遂げた小栗上野介忠順(1827-68)である。小栗は廃藩置県を断行し、日本を欧米にも引けを取らない中央政権と郡県制度に構成しようと説いたのである。 過去2度 risktaisaku.com で小栗を取り上げているが、再々説する。 幕末維新とメディア事情それに小栗忠順 http://www.risktaisaku.com/articles/-/3746 幕末の幕府を支えた小栗上野介忠順 http://www.risktaisaku.com/articles/-/7919 |
将軍から罷免
小栗は対薩長軍・主戦論を説いた。「西軍が東下して来たら、箱根でも碓氷峠でも防がず、全部関東に入れた後、両関門を閉ざして袋のネズミにしてしまう。一方、軍艦は長躯して馬関(現下関)と鹿児島を衝く。こうすれば日和見している天下の諸藩は皆わが味方となる。形勢が逆転して、幕威また振るうに至る」(小栗の戦術を後に西軍司令官・大村益次郎(1825-69)は江戸に入ってから聞かされて戦慄した。これが実行されたら、われわれは生きてはいられなかったろうと語ったと伝えられている)。
恭順することに心を決めている将軍・徳川慶喜(1837-1913)は聞く耳を持たない。小栗が強硬に主張してやまないので、ついに免職を言い渡した。海軍では副総裁・榎本武揚(1836-1908)らが主戦論者であった。陸軍奉行・大鳥圭介(1833-1911)も慶喜の江戸帰還直後江戸城に推参して将軍に直談判した。大鳥の決死の直訴も受け入れられなかった。
これより先、新政府軍は東征大総督府のもとに編成した各軍を進発させることとし、同年2月11日から薩長両軍を中心とする総勢5万人の西軍が続々と京都を出発した。東海道軍は戦闘なしで品川に到着した。東山道軍は近藤勇の新撰組らを打ち破り宿場町の板橋と府中に到着し、江戸城総攻撃に備えた。慶応4年(1868)3月13日、勝海舟(1823-99)と西郷隆盛(1828-77)の劇的な高輪薩摩屋敷での談判により江戸城は無血開城されることに決した。
この歴史的幕切れは、イギリス公使パークス(Sir Harry Smith Parkes, 1828-85, 駐日1865-83)の西郷に対する攻撃中止の強い要請が非公式に出されていたことによる。だが、一方で徳川軍の戦力が温存される結果を招いた。指揮官・大鳥圭介は伝習隊将兵に命じて江戸城内の最新鋭の銃砲を運び出させ江戸を脱出し、彼らを率いて権現様(祖神・徳川家康)を祀る野州日光(現栃木県日光市)に立てこもることを決意した。徹底抗戦を誓ったのである。旧幕府海軍を率いる榎本武揚もまた同じであった。
上州権田村に隠棲
罷免された小栗は同年1月28日、幕府へ正式に「上州(現群馬県)群馬郡権田村への土着願書」を差し出した。忠順は権田村隠棲にあたって、従来の知行地からの収入に頼らない新しい生き方を考えていた。小栗は仮住まいを権田村の曹洞宗東善寺とした。山間僻地の権田村を選んだ要因に小栗家と権田村民との間に長年にわたって代々培われたつながりの強さがあった。東善寺は同村が小栗家の知行地になるとすぐ、当代の政重は同寺に多額の寄付をし、同寺では背後の山を削って境内を広げ石垣を築いて伽藍を整備した。権田村は榛名山の西麓、烏川上流の山間にあり、いったん事あれば数ヵ月は支えることができる要害の地があり、そこに居所を構えることができるという利点もあった。
江戸・駿河台の小栗屋敷を出た権田村の若者たちは、洋服を着てズボンをはき、頭はザンギリ、足に革靴を履くこのころ最新の洋装で、幕府のフランス式軍事訓練を受けていた。若者たちは「歩兵」として「小栗日記」に登場する。この時16人いた歩兵や多くの村人が後に小栗の危難に際してある者はその死に殉じ、ある者は小栗夫人・母堂を守って越後・会津への逃避行に付き添い、あるいは館林の寺院から忠順父子の首級を盗み取り返すといった行動をとっている。
上州への移住準備があわただしく進められ、1ヵ後の2月28日に江戸を出発すると、桶川、深谷、高崎と泊まり、3月1日午後7時過ぎ東善寺に到着した。この時江戸から移ったのは、
・小栗上野介忠順 42歳 ・妻 道子 30歳 ・母 邦子 63歳 ・小栗又一 21歳(忠道、駒井甲斐守朝温の次男、養女鉞子の夫) ・養女 鉞子 15歳 |
<家臣> ・塚本真彦 37歳(用人) ・荒川祐蔵 36歳(遣米使節従者として世界一周) ・渡辺太三郎 20歳 ・塚本貢 27歳 ・武笠銀之助 16歳 ・沓掛藤五郎 25歳 ・池田伝三郎 20歳 |
忠順、家臣、家族一行は村人たちに温かく迎えられる。ところが落ち着く間もなく、翌2日、後を追うように打ちこわしの暴徒が既に隣村・三ノ倉村まで押し寄せて来ているという情報が入る。
◇
忠順が権田村へ引き移るに際して大量の荷物が運ばれた。小栗一家と江戸から随従した家臣らの家財だけでもかなりのものとなる。長持や行李、漬物樽などに入れられたたくさんの引越し荷物は、世情不安な当時にあって「軍用金」の噂を生み、しかも最後の勘定奉行として乏しい幕府財政をやりくりしていた手腕が、かえって巨額の金銀を自由にできたという想像(妄想)を生む。ぶちこわしの徒党も金目当てに押しかけて来た。
4日の朝7時、三ノ倉宿に集合の時、打ちこわし勢はそれぞれ米を渡され、タスキ用の布を分け、気勢を挙げて権田へ押しかけた。烏川を押し渡り、田んぼに畳を並べて後ろに隠れつつ権田へ迫った。前夜、磯十郎が戻った時手はずを整えていた小栗方は、道子夫人らを塚本真彦の家族らと共に武笠銀介、佐藤藤七をつけて寺の裏手の村に避難させると、反撃に移った。
烏川を渡りだした暴徒を望遠鏡でのぞいていた忠順は、烏合の衆が攻めてくる様子に、「傷つけるな、おどして追い払え」と指示した。暴徒が鉄砲を撃ちかけてくるので寺の畳を全部積み上げて防いだ。烏合の衆の暴徒に対して、小栗方はフランス式軍事訓練を受けた子息又一や歩兵16人がいて組織的な戦闘には慣れていた。とくに権田村出身の歩兵・佐藤銀十郎の戦いぶりはめざましく、的確に銃を撃って暴徒を倒した。2000人にのぼる暴徒を追い払うと、暴徒に与した隣の村々へ詰問の使者を送った。夜に入って4ヵ村の村役人が詫びのため羽織袴でやってきた。
新政府軍の攻撃
忠順は権田村への土着を幕府に願い出るにあたり「自分は知行地を返納し、そのようにしてでも活計をたて、農兵を組織して世の成り行きを見、万一の時の御用に立ちたい」と申し出ている。新政府が順調に推移すれば、そのまま上州の田舎で生涯を終える覚悟であった。主君が戦わない(恭順)と決めた以上、主命に背いて戦うことはしない。罷免された以上、自分の役目はこれで終わった、との思いであった。
打ちこわしの騒動が一旦静まると、村は平穏を取り戻し、忠順は東善寺からおよそ1km下手の観音山に建て始めた居宅建設の現場に通う日々が続いた。権田村に屋敷を建て、周辺の村人と親交を結んで土着の夢が結びつつあった忠順の身辺に、西軍の監視の目が厳しく注がれ始めた。打ちこわし自体が西軍の陰謀とは思われないが、2000人の暴徒を撃退した人物が幕府第一級の主戦論者であることは、関東へ進軍して江戸を目指す西軍にとって見逃すことのできない存在であった。西軍の主力である薩長勢にとって、小栗は幕府の近代化政策を次々に実行して来た恐るべき実力者であった。偉才であった。
上州の高崎、安中、吉井の3藩は、慶応4年4月22日付で、東山道総督府から小栗追討令を受けた。小栗については「陣屋を構え」「砲台を築き」「容易ならざる企て」を立てている、という「注進」が諸方からあるので放っておけない。「深く探索したところ逆謀が判然」したから3藩で「追捕」せよ、との指示であった。
西軍の東山道鎮撫総督は岩倉具視(1825-83)の子具定、参謀は板垣退助(1837-1919 土佐)と伊地知正治(1828-86 薩摩)である。当時、奥羽越列藩同盟が組織され、西軍に反抗する勢いを見せていた。越後方面の反西軍勢力と気脈を通じて薩長軍の後方を襲うつもりではないかと疑った。
3藩代表は命令を受けて現地に赴いたが、命令に記された謀反の動向は見えない。その上、小栗が大砲1門、小銃20挺を引き渡して明白に弁明したので、3藩代表は引き上げた。翌日、小栗は養子の又一を高崎の西軍出張所に出頭させて恭順の意を表明させた。5月4日夕刻、高崎までやってきた東山道鎮撫総督府の軍監原保太郎(1847-1936)、同豊永貫一郎(1849-1898?)はそれを聞いて激怒した。小栗主従にとって、宿命の事態に進んでおり、原や豊永は3藩の藩兵を引き連れ夜中に出て三ノ倉村へ宿陣した。
取り調べもなく斬首
小栗は会津方面に妻子ら家族を逃がすことにしたが、彼自身も家臣や村役人に勧められて、家族とともに一旦山間部の亀沢まで家族と共に避難し大井彦六宅で休んでいた。そこへ高崎方面の様子を探りに行っていた権田村名主佐藤藤七が馬で駆け付けた。
「どうか殿様にはお寺にお戻りいただきたい。もしお戻りにならない場合は村民が難儀しますゆえ」と訴えた。忠順だけ東善寺に戻った。
西軍に脅されて震え上がった3藩は、副巡察使長州藩士・原保太郎(22歳)、同じく土佐藩士・豊永貫一郎(18歳)に率いられて、4日夜半に再度権田村へ向けて出兵した。翌5日早朝、東善寺正面から入っていくと、忠順主従は本堂に端然と座ってこれを迎えた。原、豊永は忠順および家臣・渡辺多三郎、荒川祐蔵を捕らえて、忠順を駕籠で三ノ倉の屯所・戸塚平右衛門宅へ引き立てた。この時、寺でも屯所でも忠順に対する取り調べは一切なかった。問答無用。殺すことだけが目的だった。
閏4月6日朝、四ツ時半(午前11時)忠順主従は烏川の水沼河原に引き出され斬首された。初めに家臣・大井磯十郎、渡辺太三郎、荒川祐蔵の3人が斬られた。磯十郎は「一言の取り調べもなく、お殿様がこんな所でご最期とは残念だ!」と大声で叫んだ。忠順が「磯十郎、この期に及んで未練がましいことを申しでないぞ」とたしなめた。
「何か言い残すことはないか」。原保太郎が忠順に問いかけた。若輩者に対し答える気はなかった。「なにごともない」と答えた。が、「すでに母と妻は逃がしてやったから、どうか婦女子には寛典を望む」と付け加えた。原は「相分かった」とだけ答えた。
忠順を斬った人物は従来、原保太郎とされてきたが、安中藩徒歩目付浅田五郎作が命じられて斬ったというのが真相のようである。小栗は数えで42歳だった。日本の近代化の必要性に目覚め、傾いた幕府の最後を支えた幕臣が、何の取り調べもなく、新政府軍の若輩によって一方的に処断され烏川の露と消えた。斬首を命じた原保太郎はその後山口県の知事に二十数年も居坐り、さらに北海道長官となって巨財を得、貴族院議員となり89歳まで栄華の中に生きた。
参考文献:「小栗上野介忠順と明治維新」(高橋敏)、「小栗忠順のすべて」(村上泰賢編)、筑波大学附属図書館史料。
日本における報道の礎
今日、インターネットやSNSの普及により既存の新聞・テレビ・雑誌などマス・メディアは激変を余儀なくされている。そこで、近代メディアの黎明期ともいえる幕末から明治維新の新聞事情を考えてみたい。それは文明開化のうねりとも連動する。
江戸幕府が鎖国を捨て開国を打ち出した後、欧米列強に派遣されて西洋事情に接した幕臣の中には、幕府自らが新聞を活用して世論を導くべきであると建言する者があった。万延元年(1860)、外国奉行・新見正興(1822-69)を正使とする遣米使節団に監察(ナンバー・スリー)として随行した開明派幕臣・小栗忠順(1827-68)は、滞米中使節の動向を地元新聞が絵入りで詳細に報じていること、しかも内容が正確であることに「文明」を感じた。それは江戸市中の瓦版などとは比べ物にならないメディアだった。
知識人小栗はアメリカの新聞事情を知らなければ「文明」は語れないと痛感し、その実態を調べようと決意した。帰国後、彼は幕府首脳に「文明の証」として新聞発行を強く主張した。だが新聞発行の実態など知らない守旧派老中らには理解にはほど遠く、とても聞き入れられるものではなかった。小栗は遣米使節団に随行した咸臨丸の随員だった俊才・福澤諭吉(1835-1901)を編集・発行の責任者に充てる心づもりだった(小栗の偉才ぶりについては後述)。
その後、幕府内では元治元年(1864)7月に横浜鎖港(開港拒否)の交渉を終えて帰国した幕臣・池田長発、河津祐邦、河田煕が「新聞紙社中に御加入の儀申上げ候書付」を提出した。この書付は西洋諸国では「パブリック・オピニオンにて国民の心を傾け候様の方略相施し候事にて、いずれの政府にも新聞紙社中へ加入致さざるものはこれなく」として世論形成における新聞の重要性を強調し、「最初若干の敷金」を出費し、「右社中加入の儀」を実施するよう求めた。これは幕府がすすんで情報発信をしようとしないため、英米仏などの外国公使側の言い分だけが広まって「自然偏頗の取扱い」となるのを防ごうとするものであった。
「社中加入」の意味がいま一つ明確ではない。日本人による最初の新聞とされる「中外新聞」の購読規定などから判断すると、まとまった部数を定期発行することで発言権を確保し、幕府側からの情報発信を行いやすくしようとしたのではないかと考えられる。(「日本の近代 メディアと権力」著・佐々木隆参考)。この書付(提言)は、池田らが幕府錯港論を批判して処罰されたため、何ら顧みられることなく無残に葬られた。ここでも幕府首脳に「情報」に関する深慮がなかった。
皮肉なことに、江戸幕府支援の新聞が実現したのは幕府が崩壊に大きく傾いてからであった。慶応3年(1867)10月、将軍徳川慶喜は実権を幕府に残すことを狙い、大政奉還の大博奕を打って出た。だが王政復古のクーデターの反撃にあい、翌4年正月、鳥羽・伏見の戦いに敗れて、大勢は薩長を中核とする新政府に傾いた。
同年2月24日、新政府軍(西軍)の江戸攻撃が迫る中、会訳社の指導者・幕臣柳河春三は頭取(代表)を務める開成所(幕府洋学研究機関)事務局で「中外新聞」を創刊した。同紙は外国新聞の日本記事への抄訳行うことを目指していた。が、同時に独自の国内情報も載せることを打ち出していた。「中外」は外国情報の紹介に終始したそれまでの翻訳新聞や外国初の日本情報を集めた筆写新聞とは一線を画し、今日的な意味での「新聞」に近づいた。
高崎 哲郎 |
1948年栃木県生まれ、NHK政治記者などを経て帝京大学教授(マスコミ論、時事英語)となる。この間、自然災害(水害・土石流・津波など)のノンフィクションや人物評伝等を刊行、著作数30冊のうち3冊が英訳された。東工大、東北大などの非常勤講師を務め、明治期以降の優れた土木技師の人生哲学を講義し、各地で講演を行う。現在は著述に専念。 |