[以下に小説「いつか名もない魚になる」第三部第四節「手のひらを見つめる人々」(縦書き文庫)を引用します。7月14日東京で起きた踏切事故にあまりにも重なるからです。事故の犠牲者はスマホを見ながら踏切内に入り、近づいた電車の警告音にも気づかないで電車に跳ねられたといいます。さらに恐ろしいのは踏切バーの外で待っていた人々の多くがスマホに没頭していて、踏切内の人に注意することがなかったことです]
人々は睡眠を除くほとんどの時間、手のひらを見て過ごした。歩くとき、電車や地下鉄の到着を待つとき、電車の車内、エスカレータに乗っているとき、便座にすわっているとき、食事中、時間つぶしなど、家にいるときも外出先でも、いつも手のひらを見つめていた。車を運転するときや自転車に乗るときも手のひらを見ることをやめなかった。
歩くとき、人々は手のひらを自分に向け肘を九十度曲げて歩いた。駅構内の至るところで、手のひらを見ながら歩かないように注意するが、従う者はいない。手のひらに保存された写真や動画を含むデータに自分だけの領域を見いだし、好きなニュースやマンガを読み、ゲームに興じて時間を費やすことが大半の人々の日常になった。歩きながら事故に遭う人も多く、駅ホームから線路に転落する人も絶えなかった。
[三〇年までにスマホが画期的変化を遂げ、スマフォと呼ばれるようになったようです。二〇年代と違って、手のひら自体がその機能を果たしたらしいのです。医師と記録係には想像しにくいのですが、凭也(ヒョーヤ)は診察中にそれらしい動作をすることがありました。スマホを手に持っていないのに、あたかも手のひらにあるように操作し、熱心に説明するのです]
左の手のひらを指でこすると、左手にスマフォ画面が立ち上がり、両方の手のひらを合わせてこすると両手に画面が表示される。画面サイズの拡大縮小もできる。スマフォの下辺が手首に接し、画面全体が手のひらの上に浮いて見える。画面はいつも見やすい角度に保たれ、指を立てたりそらせたりして画面の角度を自在に調整できる。画面の解像度がはるかに向上し、以前ほどのぞき込む必要がない。立ち上げたスマフォ画面を消すには、もう一度手のひらをこすればよい。
体の一部がスマフォになった感覚なので、置き忘れや落下の心配はなく、倒れて手のひらをついたときは自動的に消える。生体の新陳代謝にもとづく微弱電流を利用したからバッテリーもいらない。カメラのレンズ機能は人差し指か中指の爪に納められ、シャッターは同じ指の指先にあって、親指の指先で軽く押すだけだ。録音用のマイクとスピーカー機能も指先にあり、入力は音声か指で行われる。音声入力の場合は手のひらを口の近くに持ってきて小声で話せばいいし、手のひらに反対の手の指で文字を書けば文字入力もできる。手のひらをかざすだけで、別紙に書いた文章や画像をスキャンできる。手洗いや入浴時には画面を消せば、ただの手のひらになる。手のひらにプロジェクション・マッピングされた旧型のスマホ画面を想像すればよい。
ただ、スマフォが普及するにつれ、人々はますます自閉し、他者の意見を聞かなくなった。自分の体の一部に映し出されるものを自分だと思い込んだ人々は自分の手のひらばかりを見た。入力も電話も手のひらに向かうだけで、写真も動画も自在に撮れたから、盗撮がさらに巧妙化した。周囲も他者も顧ない、自閉症とスマフォ依存症を合併した症状を持つ人が巷に溢れた。
二〇二〇年代はじめに新型コロナウイルス感染症が世界中に猛威をふるい、外出が禁止された時期の状態が日常化したのだ。親子を含む家族内の衝突が増え、親が殺され、子が虐待される事件が多発した。自分の利益を守り正当化するのに汲々とする人が増え、職場や学校でもいじめや殺傷事件がふつうになった。さらに禁句が増えて自由な会話が制限され、人々が口にする言葉が空疎になった。
[コロナ後の数年間、官製マスクの着用が義務づけられ、言論封じ込め手段の一つとして日本島の支配層に利用されたことがありますが、それが常態化したのです]
スマフォの普及とともに、旧支配層による無宗教派の取り込みが一気に加速される。二〇年代後半には、旧テレビも旧新聞もスマフォに取って代わられ、これら旧メディアの入っていた高層ビルが無用の長物と化し、ンヴィニ教を含む無宗教派の寺院や教会のセンターに変貌していく。センターの一階に旧コーヒーショップやコンビニに似たスペースがあるのはその名残である。
[「いつか名もない魚になる」第三部第四節「手のひらを見つめる人々」より抜粋しました]
スマホの操作に没頭して我が身に迫る危険に気づかない、踏切の外にいた人もスマホを見ていて周囲に目をやることがない。これを何と表現したものか。身の毛がよだつほど空恐ろしい状況にいるということだ。そして、何かあれば、他人のせいにする。仏教の説く末法という時代に入って久しいのに、どうしたことだ。
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