老境・老狂人

三月末、韓国の友人がSNSで日常のくり返しに意義を感じない、と伝えてきたと思った。彼らしくないな、と思いながらも、むっとして、そんなことはないだろう、と返した。このことがずっと気になっていたのだろう。2週間後にそのSNSを読み返したら、日常を描写しただけではないか。[저는 늘 같은 일상의 반복입니다. 日々同じ日常のくり返しです] 勝手に誤解し(苛立いらだっていたのだ。

最近、苛立(いらだ)つことが少なくない。修羅(しゅら)は身の(たけ)八千由旬(ゆじゅん)といわれるが、帝釈天(たいしゃくてん)(しか)られると(ちぢ)んでしまう。僕も小さくなって沈んでいく修羅のような感官(かんかん)にさいなまれている。以前から毎年冬から春にかけて(おそ)ってくる沈滞(ちんたい)期はあった。水鳥が必死に水を()いているような感覚を覚え、同じところを堂々(どうどう)めぐりする。

むかしは何か関心のあることを見つけたり恋愛に没頭(ぼっとう)することでやり過ごした。小説まがいの文章を書いたのも沈滞期を乗り越えようとしてだったかもしれない。そのときはただ夢中になるだけだが、振り返ると、水鳥の水()きだったのか、と気づかされる。その気づきがさらに沈滞感を深める。

四月初め、ある日の午後、高層ビルの3階にあるコーヒーショップにいた。ここはもう小説に書いたような教会でも寺院でもない、狂界(きょうかい)とも (きょう(だい)ともいうべき場所になった。席を二つ離れたところに僕よりやや若そうな老人がいる。ふつうの風貌ふうぼうをしているが、ぶつぶつひとり言をしながらパソコンに向かい、ときどき電話をかけては大声で話す。おどおどしながら驕慢きょうまんな話し方に尋常じんじょうでないものを感じる。この都会に病者が蔓延まんえんすることは避けられないとしても、こういう連中に静けさを乱す権利などないはずだ。

こういう感官と誤解こそが老境(ろうきょう)というものの正体(しょうたい)かもしれない。おまえも、あの臆病そうで驕慢な男と同類ではないか。ただの老境ではない、老狂(ろうきょう)恐るべしだ。老狂人、これも誤解であればいいのだが。江戸後期の画狂老人を思う。

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