2019年の7月から行政書士試験専門の塾でにわか勉強して受験した。数年前から勤めていた会社で資金移動業の登録申請業務に関わったのがきっかけだ。法律知識の不足を痛感し、70歳を前に自分がそれまで避けてきたことをやろうと考えた。翌年も同じ塾に通い本格的に勉強するつもりが、コロナ禍の影響もあり継続する意欲を見失ったまま受験し、不合格となった。
2021年、自分に合った講師を求めてT法律研究所の再受験生向け講座を受講することにしたが、2ヵ月目に入るころから、前年と同じスランプに陥った。一人の自分が問う、「いまさら法律の勉強をして何になるのだ」と。もう一人の自分が応じる、学ぶことと年齢は関係がない。小学生も70歳を過ぎた老人も学ぶ行為に関しては共通だと考えたのだが…
法律脳と文学脳はよく似た面がある。法律の条文が無味乾燥だとか、判例は屁理屈が多いとかいうが、そうでもないようだ。小説も法律も現実を観察するための虚構性を持っている。判例集を短編小説集として読むこともできるのだ。もう法律がつまらないからといって小説に逃避する必要などない、判例集は結構おもしろい読み物なのだ。
僕らは数直線の上をゼロ歳から死に至るまで前進する点ではない。数直線上の位置ではなく、実体のある点として存在し輝いている。このことは若い人のほうがよくわかっているのではないか。彼らが傍若無人でいられるのはそのためかもしれない。
民法の判例集を読み、講師に言われるままに民法の講義の復習をやってきた。少し民法がおもしろくなってきたようだ。一語一語の意味を考え選択しながら感性で文章を書けば、たとえば小説になる。同じことを感性でなく法的思考回路に沿って記せば契約書などの法的な文章になる。前者を文学的回路、後者を法律的回路による文章と呼ぶこともできるだろう。
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