「文學界」新人賞の中間発表

「文學界」新人賞の中間発表を待つあいだ、気持ちの揺らぎを記録しながら、いまが一番充実しているかもしれない、と思うことがある。死に至ればなす術(すべ)もないだろうから、余命があると考えているときこそ最もいい時期ではないか、と考えたのだが、どこか腑(ふ)に落ちない。

応募作をめぐってあーだこうだと文章を書けるのだから、この作品には何がしかの意味があるのではないか、とにかく応募したことには意味があった、そう考えることにする。

新人賞の中間発表があり数十名の予選通過者が掲載された、この審査方法にどこか納得できない。選外の者にそんなことを言う資格などないのだろうが。

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  1. 現行の文学賞の審査方法について詳細は知らないが、個性的な作家を産み出さないどころか、抹殺してしまうのではないかと危惧している。文学賞とは無縁の者がこんなことを言うと嘲笑の的になるだけだろうが、あえて記しておきたい。

    応募者が数千名ともなれば、審査方法自体が問われなければならないが、応募者がさほど多くない時代の慣例や枠組みをそのまま拡大運用しているとしたら問題ではないだろうか。大勢いるであろう予選審査員の言葉に対する感性と作品評価の手法、そして文学に関する嗜好性を含む個性が大いに関わってくるからだ。

    こういう発言をするのは、数百名規模のエッセイコンテストの審査を国語教員や編集者とともに議論しながら十年余り続けた経験にもとづいている。この規模だからこそできたともいえるが、毎年数百点に及ぶ応募作を審査員全員がもれなく読み込み、類型的な作品を読む作業に疲れながらも、作品群のなかにキラッと輝く個性を探すことに大いなる喜びを感じた貴重な経験にもとづいて発言している。

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