「名もない」とは

午前10時、凭也(ヒョーヤ)は動くンヴィニ教寺院の境内(けいだい)にいる。斜め前にすわった若い女はもう10分以上化粧に没頭しており、その席からひとつ置いた左側では若い男が携帯に向かって会議をしている。これぞ2020年における電車のなかの光景であり、ンヴィーニの信仰がどのような形を取るか見せてくれる。そう、彼らは無信仰ではない、敬虔な信者なのだ。ただし、僕は彼らが信じているものも彼らの名前も知らない。それぞれの信仰が同じ類いのものなのかさえわからない。

凭也の描くところによれば、この若い女も男もンヴィーニであり、いつか魚(うを)になるわけだ。では「名もない」とはどういう意味なのだろうか。サバとかマグロという魚種として命名されていない魚なのか、人や犬猫のようには名前が付けられていない、という意味だろうか。あるいは単に有名でない、無名の人々と同じように無名の魚(うを)という意味なのだろうか。無名という意味だとしても、そもそも無名の魚という表現にどんな意味を付与しろというのだろう。

無名の人々が無名の魚になる、「名もない」がどうしたというんだ。凭也、どうか教えてくれ。彼に懇願してもむださ、「魚」になった彼は話しようがないだろうに。「魚」には手足がないし言葉もないはずだから。水中で動き回るのに手足はいらないとして、言葉もいらないのではないだろうか。僕らが当たり前のように必要だと考えているものが必要でない世界がある、厳としてあるということだ。

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