ンヴィーニと名づけられた人々は日本島の至るところに住み、彼らの信仰の祠(ほこら)ともいうべきテレヴィはあらゆる場所に行き渡っている。日本島に住む以上、彼らとその祠から逃れることはできない。社会的に不器用な凭也(ヒョーヤ)は彼らと共に生きようとして、結局は生きられなかった。その葛藤により認知症が進行し、小説の最後には名もない魚(うを)と化す。記録係も同じような道をたどる。小説「いつか名もない魚(うを)になる」を要約するとそういうことになろうか。
凭也はンヴィーニを観察しながら、その社会を動かす根幹にある公共交通機関と呼ばれる電車1(バスや船・飛行機などを含めてもよい)に着目し、彼らが日常的に利用するコンビニエンスストアやコーヒーショップを含む建造物が寺院の役割を果たしていると考えた。いわば、動と静の寺院を考え、ンヴィーニの精神的よりどころとなっているとみなした。ここで見落としてならないのは、ンヴィーニがそのことに気づいていないという点である。彼らはその宗教を問われると、無宗教だと答える。それが正しい宗教観であり、あるべき姿だと考えている。
小説はこういう観察を通して彼らの信仰ないし社会のあり方を批判していることになる。ところが、その社会は批判を受け入れない。こう考えると、凭也が魚になったということは死を意味するのではない。疎外されただけで、空(くう)と化したわけではなく、魚という実体あるものとして存続している。単に彼らの社会から排斥され、社会的に抹殺されただけなのだ。
なぜ凭也が電車やコンビニエンスストア、コーヒーショップを寺院や教会に見たてたのか、小説には書かれていない。筆者にはそれを説明する責任があるし、読者もそれを期待するに違いない。次作は司祭の視線で描くべきではないだろうか2。ただ、筆者は最低限、新人賞の候補作に入らなければ、「文學界」という界に認められなかったことになるだろう。筆者がそれを撥(は)ねつけるだけの若さを持っていれば、と思う。
- 駅構内(境内とされる)のキオスクは寺院機構の一部に位置づけられている。
- タクシーをどう位置づけるか、あるいは食料品の配達業者、その先行事例ともいうべき書類等のバイク便・自転車便をどう位置づけるか。筆者の力量が問われている。