70歳で始めようとしている新たな仕事とは執筆業である。手始めに昨年小説の第一作を書き上げ、某新人賞に応募した。候補作に選ばれたらと淡い期待を抱いているが、そうそう簡単ではない。にもかかわらず小説を書いたのは、あと20年という平均余命より5年長い假定をよりどころにしているからだ。
宮澤賢治は自分をひとつの現象として捉え、「假定された有機交流電燈のひとつの靑い照明」と表現した(以下「春と修羅」の序詩を引用、[ | ]は原詩の改行を示す)。
わたくしといふ現象は | 假定された有機交流電燈の | ひとつの靑い照明です | (あらゆる透明な幽靈の複合體) | 風景やみんなといつしよに | せはしくせはしく明滅しながら | いかにもたしかにともりつづける | 因果交流電燈の | ひとつの靑い照明です | (ひかりはたもち その電燈は失はれ)…..
思うに、僕らはいつも漠とした假定のうえに生きているのではないか。振り返れば、二十代も五十代も何らの根拠なしに「あと20年は生きる」という余命観念をよりどころにしていたように思う。70歳になったいまも同じ假定ないし信仰に近いものをよりどころに生きている。