かつて中高年女性中心だった韓流ファン層が、いまや中高生のとくに女子に広がっている。たとえば、韓国人グループBTSのファンになり、その歌詞を理解しようとして、Youtubeなどを使って韓国語を学ぶ、いい時代だと思う。こんなことを言うと、韓国語を学ぶことがなぜいい時代なのか、と怪訝(けげん)に思う人がいるかもしれない。
50数年前、高校3年生の僕は韓国語を学ぼうと思った。テキストは2冊しかなかったから、薄いほうを選んだ。書名は『朝鮮語の基礎』だったと思う。当時、韓国語という名称はあまり普及していなかったし、それを学ぶ人は少し変わり者扱いされた。電車でハングルで書かれた印刷物を見ていると、人々の刺すような視線を感じたものだ。
信じがたいだろうが、日本では韓国よりも北朝鮮のイメージがよかった。A新聞の北朝鮮に関する連載コラムの題名が「地上の楽園」で、多くの在日コリアンがその楽園をめざして万景峰号に乗り込んでいった時代だ。僕はそんな時代の空気を吸いながら1970年前後を過ごした。
そんな僕から見て、韓国語を学ぶことに後ろめたさを感じなくていい現代の中高生はうらやましいし、いい時代だな、と感じるのだ。こういう老人の話を彼らはどんなふうに聞くのだろう。あるいは無視するのだろうか。
一方で考えさせられる。群盗のように拉致を繰り返していた北朝鮮を「地上の楽園」として描いた新聞記者たちはなぜ彼の国のブロパガンダをそのまま伝えたのだろうか。同時代の中国における文化大革命の扱いかたも類似していた。浅はかだった僕はまんまと彼らに騙されてしまった。
これらの報道ぶりを盲信した僕も責められるべきだが、彼らの責任は重い。残念なことにテレビを含むメディアにはこの種の責任意識を欠く人々が多いようだ。彼らを責めてもどうにもなるまい。逆恨みを買うのが落ちだ。
そこで僕は小説という方法を通じて、上に書いたようなことを含め自己表現できないか、と考えた。70歳というのは新しいことを始めるのに格好の年齢である。さあ、どこまでやれるか、見ていてほしい。