うをと話すということ

ブログ<うをは話せるだろうか >では、記録係と<うを>になった凭也の交感がいかにして可能になったかを問うている。「魚(さかな)が話せるわけない」というなかれ。筆者は小説の手法について問うているのだ、問うこと自体が小説の手法だということもできるはずだから。

小説では、魚(さかな)ではなく無名の<うを>になった凭也が生前の個性を保ったまま、生きている記録係に話しかける。「そんなことありえない」というのは正しいが、一見ありそうにないことを書くことによって何かを訴えるのが小説の技法なのだ。言い替えれば、虚構を借りて問うのである。

ここにおいて、彼岸(ひがん、死者が行くとされる向こうの岸、あの世)と此岸(しがん、生者がいるとされるこちらの岸、この世)のあいだには時間上も空間上も分断がない。それはありえないことだと思われるだろうが、本当にそうだろうか、と問うことは許されている。ここに小説の小説たる所以(ゆえん)がある、と考えている。

日本の盂蘭盆(うらぼん)や韓国の秋夕(チュソク)には彼岸(ひがん)に行ったとされる人々の魂が此岸(しがん)に帰ってくるといわれ、人々は親しかった故人の墓を訪ねる風習がある。あるいは、チュソクには別の意味があるかもしれない。

小説において<うを>になった凭也と記録係とのやり取りは日常空間のなかで行われ、その内容は小説の制約からして言葉で記されている。読者の多くは単なる空想だと思うかもしれないし、荒唐無稽をあざ笑う人もいるだろう。筆者はその荒唐無稽をまじめに考えているのである。

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