カブァン自伝と人々の後押し

70年代半ば韓国の航空会社に勤めていた僕は、休日によく東京西端の奥多摩や埼玉の秩父の山々を歩いた。ある日、友人と三人で雲取から七ツ石を経て奥多摩湖に下る途中、休み処の看板が見えたので立ち寄った。

そこが篠田具視先生ご夫妻が暮らす無三庵だった。初対面だったが、朝鮮の陶磁器や風俗のことなど、いろりを囲んで大いに話が弾んだ。以来、僕は一人で庵に頻繁に通い、個人的なことを含めいろいろ話すようになった。

ご夫人が李方子女史と面識があったこともあり、ミン・カブァン(閔甲完 1897-1968)という韓国人女性に関心を持った。資料を求めて最初に訪ねたのは、六本木にあった韓国研究院(院長: 崔書勉)だった。その書庫で自伝『百年恨』のコピー(だったと思う)を見た。

ソウルに行き、岳父の紹介もあって国立中央図書館で自伝のコピーを取り、驪興閔氏の宗親会を探し当て、文宜閣版の伝記2冊を入手した。その後、大学ノートに少しずつ翻訳を書きためたが、遅々として進まなかった。

84年の冬、韓国語ひろばの紹介でJH氏に会い、しばらく英語の勉強をみて音信不通になったが、96年秋の朝鮮学会で再会した。大学院で朝鮮語の研究をしていた。大学ノートを見せたところ、翻訳原稿をみて同情してくれたのか、下訳を引受けてくれた。

二人でプサンに行き、カブァンの甥にあたるミン・ビョンフィ氏にお会いし、カトリック教会の共同墓地を訪ねた。その墓地も今はない。

翻訳原稿と韓国語原文をチェックしながら、自分の韓国語力の不足を痛感した。よく韓国語ネイティブに質問したが、いつも丁寧に応じてくれたのがプサン出身のCH氏だった。全体を通して端正な字で丁寧に赤字を入れてくれた。

2009年春、東京外国語大学大学院教授のNH先生に直接原稿をお渡しし、校閲をお願いした。青字と赤字で何度か読み直していただき、対話するようなコメントを書き込んでいただいた。カバンという名前をカブァンに変えたのも先生のアドバイスからだった。

同年夏、A先生に佐賀大学文化教育学部准教授のNH先生をご紹介いただいた。数度にわたり通読していただき、本文だけでなく脚注の記述を手厳しく修正していただいた。「証言・回顧録としても伝記文学・私小説としても物足りなさ」を否めないとのご指摘もいただいた。

諸先生のうちお三方はすでに他界された。この10年余りにおける自分の怠慢は取り戻せない、韓国の友人たちの期待と後押しに応えるためにも残された時間でやるべきことをやり遂げなければ、と思う。

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