高校野球大会の中止決定に思う

「凭れ合う人々(未定稿)」は小説であり虚構にすぎない。だが、その虚構を借りて、現実を語ることはできる。

その小説のなかに野球を含む球技(戯)やンヴィニ教徒の子どもの整頭術に関する叙述がある。たとえば、次のとおりだ。

…..ンヴィニ教徒たちは頭蓋骨ずがいこつの形状を丸くすることで頭がよくなると信じていたようだ。どの親も自分の子どもの頭がよくなることを願った。子どもたちは一日の大半を学校という施設で過ごし、そこで団体訓練を通じて頭の形状を徹底して丸く整形された。親たちはそれで満足することなく、さまざまな整頭せいとう術を求めた。学習塾や予備校と呼ばれた施設における訓練もその延長上にあり、子どもたちは学校が休みの日も喜んでこれらの施設に通った。施設では、さまざまな手法を用いて頭を丸くするための訓練をほどこした。

…..ンヴィニ教徒たちは、野球やサッカーなどの団体球技を好んだ。少年男子の多くは野球かサッカーのチームに参加し、平日は朝早くから練習して、休日は他のチームと試合した。試合の日は親たちも観戦かんせんする。応援の熱狂ぶりは3号車の老人たちと異なるところがない。テレヴィは団体球技のようすを中継ちゅうけいし、どの宗派のチャンネルも定期的に野球とサッカーの試合結果を報じた。

…..球技(戯)が盛んな理由の一つはンヴィニ教の理想形が球体だったことに関係する。古代ギリシャ人が円形を完全な図形と考えたように、ンヴィニ教徒は球体に格別の意味を見出した。球体は神格しんかくを象徴し、彼らの統合の象徴とされた。

2020年5月の現実に戻ろう。小説のなかでンヴィニ教に敵愾心を抱いていると思われる主人公は、反抗する牙(きば)を失ったンヴィニ教徒の子どもたちを批判しているようにみえる。現代の状況に当てはめて考えるならば、球児と呼ばれる高校生たちが中止命令に接して泪するのは、いかにも従順で純真すぎないか、という主張なのだが。

中止命令に逆らって夏の大会を実施する方法を彼ら自ら考案することもできるはずだ、などと勝手な空想をしてみる。それはンヴィニ教徒たることをやめろということなのだが。

One thought on “高校野球大会の中止決定に思う

  1. 虚構を借りて現実のイシューについて語ることができるとして、それが有効に働いたとすれば、その虚構自体の虚構性が低い(現実との距離が近い)ということになるのではないか。

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