以下、本文の1980年(第1章)第2節「もたれ合う人々」を引用します。この記述を通じ、作品が描こうとするンヴィニ教徒の生態の一端をご理解いただければ、と思います。
駅のホームに立っているだけで、じっとり汗ばんでくる、暑い夏の日の朝だった。ラッシュ時の電車に乗り込んだ人々はみな立ったままだ。車内には座席がなく、ガラス窓付き冷蔵貨物車のような列車だった。そこで彼らは密生した樹々のように体を接して凭れ合い、かろうじて倒れないでいる。車内の温度は低く保たれ、夏だというのに寒いくらいだ。冷蔵車のような車内で、人々は押し黙ったまま湖底の藻のように揺れる。電車が停車する前後に各車両は大きく揺れ、人々はひときわ激しくからみ合う。
1号車のあちこちで、さまざまな組み合わせの人々が車両の揺れに体をあずけ、不器用な愛撫をくり返している。その周囲に寄生植物のように人々が群がり、電車の速度が変化するたびに生じる揺れやカーブするときの揺れに抗しながら、じっと立っている。ただ、みな体を接するだけで、偶然隣り合わせになった以上の関係はない。
人々は特異に発達した触覚によって同性や異性間のからみ合いを感じるといわれるが、決して周囲の人や物を見ないし感じようとしない。自分のまわりの平穏が失われることを恐れ、手にした本や新聞・雑誌が作り出す自分の世界に沈潜しようとする。読み物を持たない人々は車両内部の天井や側面に掲示された文字や写真などを鑑賞し、音楽付きイヤホンをして窓外の景色を見ている。車内にはイヤホンからもれる雑音や何組かの人々の交わす会話、ときどき割り込んでくるけたたましい音量の車内放送が交錯している。
そこは、電車という鉄とガラスなどで造られた大きな直方体の伽藍であった。人々は電車を寺院の一部とみなし、その運転にたずさわる人をあがめて、絶大な権限を与えていた。一人は先頭の車両にいて電車を操縦する運転手で、その意のままに連結された全車両がレールの上を運行する。もう一人は最後尾にいる車掌で、車内放送を通じて延々と説教をした。人々は時おり聞こえてくる放送をほとんど聞かないが、毎日くり返されるその内容は人々の行動を意識下で束縛していた。