コンビニ教徒 序

序 (未定稿)

電車の発車を知らせる電子音が、プラットホームの上方からけたたましい音量で鳴り響く。ホームには出入口が二つあり、階段とエスカレータで上階または地階に通じている。それぞれの階段を駆けおり駆けあがる人の群れが電子音に合わせて疾走する。プラットホームに至るや、それぞれ出入口に最も近い車両のドアに向かって、すさまじい勢いで突進する。がっしりした体格の男、乳房を揺らしながら走る女、子どもの手を引いて小走りする母親、いまにも息が切れそうな老人、無表情な蒼白い顔の勤め人など、さまざまな人の群れがひと塊(かたまり)となって発車まぎわの電車に殺到する。

電車に乗り込むと、人々はその日の新聞や好きな本を読み、自分たちの観念世界のなかに沈潜する。会話を交わす人々は、彼らにしかわからないことばを話し、まわりの人々が理解できないことをひそかに喜ぶ。あるいは、当時多くの都会で流行していた音楽付きの耳栓をして、自分を外界から遮断する。耳栓からもれる音は他の人々には騒音でしかないが、彼らは不快に感じながらも、ひたすら我慢している。

彼らのあいだでは、他人に向かって敵対的な態度をとることが許されないから、他者に対して自分の感情を抑えることが習慣化しており、不快感すらも内面に閉じこめてしまう。こうして、彼らは自己と他者を隔てる術を独特な形に発達させた。筆者の観察によれば、その発達を促したのは人々の意識下における信仰と呼ぶべきものである。ここでは仮に「コンビニ教」 expediencism と名づけておく。

コンビニ教によれば、すべての外界はその宗教的世界の一部として捉えられる。周囲の世界が信仰によって人々の内界に取り込まれた結果、現実の世界と人々の関係は遊離してしまった。自分たちが取り込んだ外部世界だけが現実であるという錯覚を、人々は共有したのである。

個人の場合であれば、現実界から遊離した感覚をもつ精神病者を想定すれば、外界から隔離された者の状態をある程度まで想像できる。だが、ここに筆者が描写しようとする人々の場合、集団の構成員すべてが外部世界から遊離してしまったから、集団の生態を観察者の眼で捉えるのはやさしいことではない。筆者自身もかつて同じ信仰をもっていたと考えているから、ある程度までは彼らの心情と行動を理解できる。とはいえ、どこまで客観的に彼らの生態を描写できるか、本当のところ自信はない。

コンビニ教の系列下にある寺院は、電車網が広がっている地域の至るところに設けられ、人口密集地域には一つの通り沿いに数棟の寺院が建ち並ぶことも珍しくなかった。コンビニ教にも他の宗教と同じようにいくつか有力な宗派があり、都市部では電車の便のよいところに宗派を異にする寺院が集中したのだ。

電車の駅構内には各宗派の小さな分院が置かれ、日々大量生産される日刊紙や週刊誌を人々に供給していた。これらの印刷物を通じて、彼らは自分たちの精神世界が不断に豊かになると信じていた。同じ分院には、小型の固形食物や液体飲料が護符として売られていた。駅構内と外のほとんどあらゆる場所には自動販売機と呼ばれる賽銭(さいせん)箱が置かれ、人々はささやかな寄付行為の見返りとして缶入り飲料やタバコを受け取った。

これら一連の行為は宗教行為と考えられ、日常生活のなかにきわめて巧妙に組み込まれていた。ただし、彼らは自分たちが信仰にもとづいて行動していることを意識していない。電車内に貼られた字句や絵はどれも教義の一端を説いており、定期的に取り替えられて人々にその宗旨を浸透させていたのだが。

以下の文章は電車と密接不可分に生活する人々の生態観察の記録にもとづいて、「コンビニ教徒」 expediencists の無意識層における信仰に関する仮説を提示するものである。読者はそれぞれの記述を現在の自分たちに関するものとみなしてもよいし、あるいはまた、現在から数十年ほど前後の過去や未来のことと考えても構わない。もちろん、まったく別のことを想像することも読者の自由である。

電車という動く空間が彼らの生態を観察するのに最適と考え、四半世紀にわたって断片的に記録したものをまとめ、このたび公表することにした。これまでコンビニ教について概括的に書いたものはほとんどない。だが、信者たちの活動範囲が広がり、外部世界との接触が増えてきた現在、彼らの行動様式とそれを支える意識下の宗教について概略的な知識を得ることが、外部の者だけでなく彼ら自身にも必要だと考えるようになった。この文章が一つのきっかけとなり、コンビニ教とその信者に対する理解が進むことを願ってやまない。

2 thoughts on “コンビニ教徒 序”

  1. 「コンビニ教」という語はすぐにコンビニエンスストアを連想させる、だから採用したのだが、逆にそのことがこの語の意味を制約してしまう。そう考えて、2月末に「コン教」とし、その数日後に「ンビニ教」にしたのですが、納得しているわけではありません。山本七平氏のいう「日本教」のような意味を含めたいのですが、浅学菲才の者には恐れ多いことです。

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  2. 一人の韓国人女性からンビニ教に対する違和感を指摘され、自分が納得していない点をつかれたので、この用語について再考しました。代案として考えたのが、ンヴィニ教です。

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