この作品の時代設定は、第1章が2040年、第2章が1980年、第3章が2020年となっています。未来・過去・現在を往き来しながら人びとの記憶の領域を探り、記憶と景色の関連と情感、記憶と時間の揺らぎを描くことで、人間の記憶について観察しようとしました。認知症患者を扱ったのは、彼らにおける記憶と時間、記憶のなかの景色との関係が示唆的だと考えるからです。全体として現代社会の様相を描写したつもりですが、成功したかどうか自信のほどはありません。
以下、各章の導入部を掲載します。
I. 2040年
2039年の冬至の夜、旧ターミナル駅の構内は老人たちで溢(あふ)れていました。みな静かにアルゼンチンタンゴを踊っています。男と女、男と男、女と女が抱擁しては離れ、ゆっくりとまた早く、一団となって反時計回りに回っています。時間の流れに抗(あらが)うかのように、老人たちがタンゴを踊りながら回っています。
よく見ると、ドームの真ん中に老人が一人ぽつねんと立っています。いかにも弱々しく、今にも倒れそうな格好で腰をかがめ、かろうじて立っています。その光景を目にしたとき、一瞬意識が途切れたような気がしました。そして、我に返るや、私は老人の虜(とりこ)となって彼を追いかけていたのです。
以来、私はその老人を見かけるとすぐ後をつけ、しだいに彼を中心に時間が回るようになりました。なぜそんなに老人を追いかけるのかわからないまま、自分が観察したものを細大漏らさず記録することにしたのです。以下の報告は3ヵ月余りに及ぶ断続的な観察にもとづいています。□□□□□
II. 1980年
2040年ごろ一人の老人の虜(とりこ)になった私は、約60年前にカナダでまったく同じ行動を取っていました。ただ、その後、私は認知症患者と診断され、カナダに滞在していたことすら定かではなくなりました。以下の記述は、当時の記録と記憶の断片をつなぎ合わせ、再現しようとしたものです。この辛い作業を通じて、1980年当時の私はすでに認知症を発症していたと確信するようになりました。
認知症の患者は、決してすべての記憶を失うことはありません。最近の記憶が定着しないだけで、その人の過去における記憶とそれに付随する景色は鮮やかに保存されています。その特徴の一つは、記憶のなかの時間軸と目の前にある光景が結びつくことにあります。そのため、自分がいまどの時点にいるのか、どこにいるのか区別できなくなります。いわば、時間と景色の混濁が起きるのです。□□□□□
III. 2020年
コンビニ教が他の宗教ないし無宗教派と異なるのは「動く教会」を持っていたことです。それは、老人たちの住みかと地域の教会ビルを結ぶ交通機関である地下鉄の別名です。地下鉄は、他の地域でも大都市にみられる交通手段ですが、コンビニ教徒はこれを独特な教会に仕立てたのです。□□□□□