詩人の尹東柱(ユンドンジュ 1917-45)は収監されていた日本の福岡刑務所で1945年2月16日に獄死しました。詩人の命日前後に毎年、京都で追悼行事が行われています。詩人が通った同志社大学キャンパスでは彼の命日前の土曜日に追悼行事を催し、彼の下宿先(現在は京都造形芸術大学キャンパス前)では命日に追悼会を催しています。
ことしは命日が土曜のため、同志社大学は16日に追悼会を催し、京都造形芸術大学は土曜が休みのため、前日の15日に催しました。
このような事情から、二日続けて京都で尹東柱追悼会が開かれ、私はいずれも参加しました。また、14日には三一運動百周年を記念し、大阪総領事館と韓国散文作家協会が共同で「尹東柱と茨木のり子の出会い」を讃える行事を大阪で開催しました。詩人の茨木のり子氏(1926-2006)は大阪生まれです。彼女が尹東柱について書いた文章が、今も日本の高校の現代文の教科書に載っています。
主催者として、私もこの行事に参加しました。三日連続で尹東柱にまつわる行事に参加したのです。これらの行事を通じて、ユン詩人についてよく知っているつもりでいながら知らなかった多くのことを集中講義で学びました。また、日韓双方を代表する尹東柱の研究者、専門家の講演と話を通じてユン詩人にまつわる、日本における多くの事実を新たに知ることができました。
日本の高校現代文の検定教科書(筑摩書房)に尹東柱の序詩を含む茨木のり子氏(1926-2006)の文章が1990年から掲載された経緯(当時、筑摩書房の編集者だった野上龍彦氏の同志社大における講演)を知り、同志社大の創設者、新島襄の記念像さえ一体もない同志社大に2005年、尹東柱の詩碑が建てられた裏話、同志社大のチャペル前に建てられた詩碑が、韓半島のある西を向き、詩碑の北側にツツジ、南側にムクゲを植えたということも関係者から聞くことができました。
14日には、詩人尹東柱を日本の教科書に紹介した詩人としてのみ知っていた茨木氏が日本で最も反戦平和に徹した秀でた詩人だったことを知りました。また、70-80年代の厳しい時代に二人の兄上が韓国の刑務所に収監されていた徐京植(1951-)東京経済大学教授が茨木氏の詩と邂逅し、それを通じて詩人に会った話は、涙なしには聞けない歴史のひとこまでした。
三つの行事を通じて痛感したことは、早世した薄幸な詩人の人生と詩が今も生き続け、日韓の市民連帯の強い絆となっているということです。そして、後世の人々が何をなすべきか、警鐘を鳴らし続けているという事実です。
私は三つの行事それぞれで挨拶をしました。三一運動百周年の年に開催される尹東柱の追悼行事は格別意義深いと述べました。そして、日韓関係が良くないときだからこそ、三一運動と尹東柱に共通する平和・非暴力・人道主義を活かし、日韓友好のために尽力するよう呼びかけました。