僕の父は10歳のとき父親を建設現場の事故で失った。愛知県にある実家は浄土真宗大谷派の寺で、僕の祖父が継ぐべきところ、僧職につくのがいやで大手ゼネコンに入り、満州に単身赴任していて事故に遭った。祖母は「馬賊に殺された」と口癖のように言っていた。
幼かった父は何もわからないまま東本願寺で1ヵ月ほど研修を受け、亡くなった父親の代わりに僧職についた。そして、1941年、17際のときに父親のあとを追うようにして、満州の新京(現・長春)に向かった。新京にあった建國大學で3年、当時理想とされた「五族協和」の学生たちと寮生活を送った。五族とは日本・朝鮮・漢・満州・モンゴルの五つの民族をいう。学徒出陣で海軍配属となり、横須賀の訓練所にいるとき敗戦の知らせを聞いた。
こういう経歴を持つ彼は宗教に対し特別な、また確固とした思いを持っていた。家庭の事情で仕方なく継いだとはいえ、尋常小学校と中学校の7年ほど僧職にあり、念仏を唱えることがいつしか身体の一部になっていた。反面、僧侶たちの権威主義や人々の僧侶に対する接し方を知り、宗教に対する反感も抱くようになっていた。そして、戦後にはマルキシズムの影響を受けて、宗教は上部構造であり下部構造である経済のほうが重要だと考えていたようだ。
母は女学校を卒業し、戦後まもなく霞が関の特許庁に勤めていた。彼女の実家から都電を乗り継いで通勤できた。彼女は庁内の社交ダンスクラブに属す快活な女性だった。将来の夫は、戦後、同じ特許庁の守衛を勤めながら大学に通い、1950年に卒業する。その前年に二人は結婚し、母の実家に近い本郷の安アパートに住んでいた。
父は、守衛室のなかから母の通勤姿を見て思いを募らせた。赤い罫線の入った特許庁の便せんに書かれたラブレターの束を読んだことがある。マルクス経済学徒らしい弁証法的恋愛スパイラルという図入りの手紙があった。ただ、彼には愛知県に親と親戚が取り決めたいいなずけの女性がいた。
戦後二・一ゼネストに参加し、共産党員だった彼は、大学を卒業する直前に愛知県に帰り、相手の女性と親たちに会って婚約の解消を願い出ている。そのときの理由は党員ということだった。何を尋ねられても、それ以外は話さず最後まで無言を通した。
僕が生まれたのは近くの実費病院と呼ばれる診療所だった。1950年2月、卒業試験のまっただ中のことだ。大学卒業のとき授業料を滞納していた苦学生は、持っていた本をリヤカーに積んで本郷の古本屋に売りに行き、その代金と守衛の給与で何とか授業料を払うことができた。水道橋駅近くにあった会社に入社するが、直後に朝鮮特需で活況を呈した鉱山業部門が独立し、その会社が東京駅近くに本社屋を構えるようになる。60年ごろ会社労組の委員長を務めている。
1950年の後半だったろう、転勤に伴い、家族は岡山県の中国山系にある鉱山町に引越した。その鉱山町で50年代前半を過ごしたはずだが、僕にはこの時期の記憶がまったくない。東京で生まれ育った母は、電気もガスもない山奥に連れてこられ、毎夜、赤子を抱いて一人ないたという。