いつか名もない魚になる

小栗(おぐり) (しょう)

この文章の主人公は凭也(ヒョーヤ)といいます。彼は自分が認知症の患者だと思い込んでおり、十年あまり治療を受けています。治療といっても、月に一度担当の女性医師を訪ね、以前または最近書いたメモや撮影した写真を見せながら、それについて彼女あるいは記録係と約二時間やり取りするだけです。凭也が治療のため病院に通い始めたころ、記録係は同じ病院の事務部に勤めていました。夏が終わろうとするころだったと思います。記録係が病院の食堂で食事をとっていると、同じテーブルの向かい側に凭也がすわりました。その一ヵ月後に二人はまた同じ場所で会いました。さらに一ヵ月後、また同じ食堂の同じ場所で会ったので、たがいに相手のことを変に時間と場所に几帳面(きちょうめん)な人だと感じました。

その翌週、凭也の担当医だという神経内科の女性医師が記録係のところにやって来て、凭也が診療中に記録係について話したと伝えました。よほど印象に残ったようで、名札をみて名前を記憶したらしいというのです。診療中に記録係について話すことがその後も続いたので、その医師は記録係に診療に同席して話の内容を記録するように依頼しました。彼女によれば、ちょうどそのころ記録係にも認知症の初期症状が表れていたようです。ただ、凭也と違って記録係には自覚症状がまったくありませんでした。記録係が診療に同席し認知症患者に接することで自らの症状を自覚できる、彼女はそう考えたようです。

以下の文章は、凭也のメモと彼が診療中に話した内容をもとに医師と記録係がその記憶世界を時間軸に沿って整理したものです。彼が話した順ではなく、話の内容を時間軸に沿って編集しています。この記録をもとに医師は、遅くとも一九九〇年には凭也が認知症を発症していたと考え、それ以前に認知症特有の風景の揺らぎと時間軸のずれを生じていた可能性も否定していません。彼の場合もそうですが、認知症の患者は記憶をすべて失うわけではないようです。最近の記憶は定着しませんが、過去の記憶と情景は鮮明に保存されています。この記録では、風景と時間軸のつながりが不確かになり、未来を含め自分の年表のどこに風景の記憶が保存されているのか特定できない症状を認知症とします。患者には自覚症状がある人とない人がいます。症状が進行すると、自分がいま時間軸のどこにいるかわからなくなり、身近の人々が誰かも不明になります。

この記録ではまた、情景と光景を区別し、情景を心象風景の同義語として用います。光景は感情移入を伴わない景色(けしき)をいい、情景と光景を合わせて風景と呼びます。日常よく使われる景色は光景に近いといえます。なお、担当医の所見によれば、凭也は彼自身かつて信者だったと考えている「ンヴィニ教」(便利・好都合を意味するコンヴィニエンスに由来する)に執拗な関心を寄せ、敵愾心(てきがいしん)さえ抱いていたようです。その教徒「ンヴィーニ」について長年観察を重ね、彼らの生態と自分を含む認知症患者の症状に共通するものを追究していたと考えられます。以下、「ンヴィニ教」と「ンヴィーニ」に関する叙述が多いのはそのためです。

1. 隠れンヴィーニ

[第一部の場所は日本島の都会、時期は一九八〇年ごろです。凭也(ヒョーヤ)がンヴィーニに関する観察メモをもとに熱く語ります。記録係による補足説明を[  ]内に入れ、凭也の話した部分と区別しています]

電車の発車を知らせる電子音が、駅のホームの上方からけたたましい音量で鳴り響く。ホームには出入口が二ヵ所あり、階段とエスカレータで上の階と下の階に通じている。それぞれを駆けおり駆けあがる人々の群れが電子音にせき立てられ、停車中の電車に向かって疾走する。体の半分ぐらいあるカバンを背負った少年、巨大な楽器を抱えた男、乳房を揺らす女、子どもの手を引く母親、引かれて悲鳴をあげる子ども、息が切れそうな人、(あお)白い顔の勤め人など、みな一斉に発車直前の電車に殺到する。

電車という動く寺院

電車に乗り込むと、人々はその日の新聞や好きな本を読み、それぞれの内面に沈潜する。会話を交わす人々は彼らにしかわからない言葉を話し、まわりの人々が理解できないことをひそかに喜ぶ。あるいは、当時流行の音楽付きイヤホンをして、自分を外界から遮断(しゃだん)する。その周囲にいる人々にはイヤホンからもれる音は騒音でしかないが、人々は我慢する。この電車の乗客は他人に敵対的な態度をとることが許されない。他者に対して自分の感情を抑え表出しないことが習性となった人々は、自分を守るために自他を隔てる特異な防御法を発達させた。

[凭也によれば、その発達を促したのは無宗教派のンヴィニ教です。ンヴィニ教の寺院は、電車網が広がっている地域のどこにも設けられ、数棟並ぶことも珍しくなかったようです。ンヴィニ教にも他の宗教と同じようにいくつか有力な宗派があり、都市部では電車の便のよいところに宗派を異にする寺院が軒を連ねたからです。ちなみに、凭也がいう「寺院」とは(おごそ)かな空気に包まれた神社や寺院、教会ではありません。二十世紀後半から日本島を席捲(せっけん)した北米発祥のコーヒー店や小型スーパーによく似た造りの建物です。以下、彼の観察が続きます]

鉄道の駅構内には各宗派の小さな分院が置かれ、日々大量生産される新聞や雑誌を人々に供給していた。これらの印刷物を通じて、人々は自分たちの精神世界が不断に豊かになると信じている。同じ分院には、小型の固形食料や液体飲料が護符(ごふ)として売られている。駅構内だけでなく、ほとんどあらゆる地域の至るところに自販機(じはんき)と呼ばれる賽銭(さいせん)箱が置かれ、人々はささやかな寄付の見返りとして缶入り飲料やタバコを受け取った。これらの行為は宗教行為と考えられるが、日常生活にきわめて巧妙に組み込まれているため、人々は自分たちが信仰にもとづいて行動していることを意識しない。ひたすら無信仰だと思い込み、恥じるところがない。

ラッシュ時の電車に乗り込んだ人々はみな立ったままだ。車内には座席がなく、ガラス窓付き冷蔵貨車そのものだった。そこで人々は密林の植物の茎と茎のように体を接して(もた)れ合い、かろうじて倒れないでいる。車内の温度は低く保たれ、夏だというのに寒いくらいだ。大きな冷蔵庫のなかで、人々は押し黙ったまま湖底の藻のように揺れる。電車が停止する前後に車両は大きく揺れ、人々はひときわ激しくからみ合う。一号車のあちこちで男と女、男と男、女と女の組み合わせが車両の揺れに体をあずけ、不器用(ぶきよう)愛撫(あいぶ)をくり返している。その周囲にやじ馬が群がり、電車が変速するたびに生じる揺れやカーブするときの揺れに抗しながら突っ立っている。ただ、みな体を接するだけで、隣り合わせになった以上の関係を求めない。自分のまわりの平穏が失われることを恐れ、手にした本や新聞・雑誌の世界に没頭(ぼっとう)する。読み物を持たない人々は車内の天井と側面に掲示されたポスターや窓外の景色をぼんやり見ている。車内にはイヤホンからもれる雑音と何人かの交わす会話が流れ、耳をつんざく音量の放送がときどき割り込んでくる。

ここは、ステンレス鋼とガラスで造られた電車という大きな箱型の伽藍(がらん)である。ンヴィーニにとって電車は寺院そのものであった。だから、運行者をあがめ、絶大な権限を与えていた。一人は先頭の車両にいて電車を操縦する運転手で、その意のままに連結された全車両がレールの上を運行する。もう一人は最後尾の車両にいる車掌で、車内ならぬ院内放送を通じて延々と説教をした。人々は時おり聞こえてくる放送をほとんど聞いていないつもりだが、その行動は知らず知らずのうちに毎日くり返される説教に支配されていた。

電車のなかの球戯

平日の昼さがり、三号車ではソフトボール大の(あか)と白のボールが一つずつ、車両の揺れにつれて車体の床を不規則にころがっている。電車の進行方向に沿って両側に配された横長の座席に、老人たちが曲がった腰をいたわるようにして、窓枠を背にすわっている。立っている人はいない。彼らはもう車両の揺れに抗して立ち続けることも支え合うこともできない。箱型の車両の中央あたり、進行方向の左右両側にドアがあり、そこには座席がない。両側のドアのあいだに車イスが一台ブレーキを掛けて止まっている。車イスに乗った浅黒い顔の老人がこの球戯の審判だった。

[凭也は二号車から球戯のようすを見ていたようで、頭髪もあごひげも白い七十歳ぐらいの男が人なつっこい笑みを浮かべていたのが印象に残ったと話していました]

電車の進行方向の左右いずれの座席にすわるかによって、老人たちは紅白二チームに分かれ、二つのボールと彼らだけの球戯に熱中している。ボールが自分たちの足もとに近づくと(あわ)てて床から足を上げるのだが、何人かは座席からずり落ちそうになる。座席から落ちたり、相手チームのボールが足に触れると減点され、相手方の得点になる。自分のチームのボールが近づいたときは、審判の車イスに向かって足()りするが、至難の技だ。(あし)を上げるたびに、彼らは同じチームのメンバーとともに陽気な喚声(かんせい)をあげた。それぞれのチームのボールが審判の車イスの車輪に接すると加点され、両チームの得点数が壁に掲示された。

この球戯では、近くに来た自分のチームのボールを足で()る以外には、ボールの動きにいっさい関与できない。ボールの運動は電車の揺れに依存し、老人たちの動きはボールの動きに左右された。この電車の路線は巨大な環状でカーブが多く起伏に富んでいた。電車の発着時やカーブを曲がるとき、二つのボールは激しくころがり、彼らの興奮も最高潮に達した。電車が停車しているときは座席の上に総立ちになって大声をあげる。その熱狂ぶりを目立たせたのは、球戯に参加しないで眠り続ける人たちだった。彼らも座席の位置によって紅白のチームに属したから、その足もとにボールが近づくと、隣りの人が(あわ)ててその脚を持ち上げる。彼らにはその動作がおかしくてたまらないようだった。

停車中、三号車に乗り込む人はいない。車両は他の乗客を拒絶する独特の熱気をはらんでいて、ドアの上にしめ縄こそないが、境界を示す白い紙垂(しで)がさがっていて、他のンヴィーニを排除した。老人たちに行き先はなく、紅白の球戯に没頭するしかない。そんな彼らも隣り合わせただけの関係だから、電車を降りれば他人同士だ。凭れ合う人々と老々介護という違いこそあれ、どちらも電車の運行と揺れに身を(ゆだ)ねることに変わりはない。

ンヴィーニと異教徒

ンヴィーニはみな身分証明を兼ねた数次パスを持っている。父母のいずれかが電車の運行区域内に生まれ育ち、自らも同じ地域で生まれた者に与えられるもので、駅構内という境内(けいだい)に入るのに必要だった。地域外の出身者が境内に入り、電車という動く寺院を利用するにはンヴィニ教寺院に一定額を寄付して一次パスを取得しなければならない。数次パスの保持者は、電車の駅のゲートを通過するとき、それを読み取り装置に挿入するだけでよいが、一次パスの保持者は係官のいる専用ゲートを通らなければならない。こうして異教徒を差別したが、ゲートを通過して駅構内に入ってしまえば、何の区別もない。それぞれ階段やエスカレータを()てホームに行き、行きたい方面行きの電車に乗るだけだ。

[凭也は電車やンヴィニ教寺院によく出入りし、そのようすを克明(こくめい)に観察しています。特にンヴィーニの異教徒に対する態度に着目しているように見えます]

ンヴィーニと異教徒は混ざり合うことがない。肌の色や体臭、毛髪から体形、言葉、衣服などで異なることはすぐわかる。だから、異教徒とみなされた人々は多数派のンヴィーニに囲まれ、その視線を浴びる。それをはねつけようとして、異教徒たちは大きな声で話し、徒党を組んで自己防衛する。ンヴィーニも徒党を組んでいることに違いはないが、多数派ゆえにそれに気づかない。四号車にはアジア系の若い男女が数名ずつ、人々から少し離れたところに立っていた。彼らはンヴィーニと同じ色の肌と黒髪を持ち、胴長の体形をしていた。一つのグループは強い語調の抑揚ある言葉を、別のグループは柔らかい高低のない言葉を話したが、いずれも大声で周囲の人々の視線を浴びた。ンヴィーニは少しでも異質な者に敏感に身(がま)える。同じンヴィーニであっても、一般の教徒に判読できない文字の新聞を読んでいると、()すような視線を感じたほどだ。

肌と毛髪の違いが一見して明らかな南アジア系やアフリカ系の人々に対しても同じだったが、欧米系の人々に対するンヴィーニの対応は違った。言葉を理解できないことも体臭についても南アジア系やアフリカ系の人々と同じなのに、欧米系の人々に対する態度はどこかおどおどしている。アルファベットに対する感覚も敬虔(けいけん)そのもので、至るところにその文字が(あふ)れていた。ンヴィーニの衣服や所持品の多くも、もとは欧米系の嗜好や習性を取り入れたものなのに、もはや外来のものとは考えない。他方、ンヴィニ教の信仰の基層にはアジア系の多数民族が使う象形文字が織り込まれ、あらゆる印刷物に使われていた。当然、その文化も組み込まれているが、ンヴィーニはそのいずれをも意識できない。ひたすら異教徒との違いを強調し、独自性を誇っていた。

動く寺院の電車と同じように、ンヴィニ教寺院は表立って外部の者や異教徒を排斥しない。寺院の主たる目的が金銭によって入手できる物的または精神的・肉体的な欲望の充足にあったからだ。異教徒も含め、人々の欲望は幼いころから物心両面で矯正(きょうせい)され矮小(わいしょう)化されており、金銭でまかなえる範囲の欲望を入手する限り、寺院に入ることは許された。境内(けいだい)に陳列された物からその時々に欲しい供物(くもつ)を手に取り、デジタル処理の儀式を受けて、寄付金を支払うだけだった。この単純な儀式によって人々は欲望を満たした。一連の儀式に言葉は必要なく、ンヴィニ教は世界宗教の条件である超言語性を消極的な意味で備えていた。寺院の伽藍はいつもバンドネオンの演奏と説教で満たされ、多数派の宗派の信徒たちが話す複数の言語でくり返し自宗派への帰依(きえ)をすすめた。

サイレント車両

五号車は禁音車と呼ばれ、車内での飲食のほか、会話や音の発生を禁じていた。他の車両のような院内放送はなく、音楽付きイヤホンも使えない。がらんとした車内には電車の車輪とレールがぶつかる音と軋轢(あつれき)から生じる金属音やモーター音が低く響いた。車両のドアとガラス窓はすべて二重で、ドアは停車中でも開かないから、ホームの電子音や外部の騒音もほとんど車内に届かない。乗客は隣りの四号車または六号車の車両との連結部を通って乗り降りした。連結部のドアは一メートルほど離れて二枚あり、いずれか一方は常に閉まっている。隣りの車両から侵入する音を(さえぎ)るためだ。紙に印刷された読み物が禁じられ、車内の壁には文字も写真も掲示されず、動画も禁じられている。他の車両がどんなに混んでいても、この車両にはほとんど乗客がいない。数えるばかりの人はみな座席にすわって外の風景を追っていた。

この車両にいる限り、異教徒というだけの理由で排斥されることはない。ただ、禁音車に長い時間いられる人は滅多にいない。たいていの人はしばらくすると、隣りの車両に移動する。車内に何の掲示もなく印刷物も読めず、放送もない静けさに耐えられないのだ。ンヴィーニの特徴の一つは音に対する寛容さというより鈍感さだ。院内放送やホームの電子音だけではない。電車そのものが巨大な騒音を発し、それが通過するとレール周辺の地面が揺れた。周辺住民もまたンヴィーニだったから、車内の乗客と同じで、騒音や震動に対し不快感をあらわにしない。院内放送が電車の発着前後に同じ文言の説教をくり返しても、ホームの上方から大音量でくり返し同じメロディが流れても人々は意に介さなかった。

[この感覚的な麻痺症状ゆえに人々は何の刺激もない状態を拷問(ごうもん)と感じた、と凭也は言い、自分たちに理解できないほど騒音に神経質な彼を異常者とみなした、と主張します。いつも禁音車を利用した彼は、停車中ほとんど音の聞こえない禁音車から駅のホームでうごめく人々を見て、その滑稽(こっけい)さをあざ笑っています。人々が禁音車の静けさに耐えられないのは、日常的にテレビから流れる音と映像に(ひた)っているからだ、とも言います]

スモーカー車両

六号車にはタバコの煙が霧のように立ちこめ、車内にはヤニの臭いが充満していた。床のところどころにタバコの吸い殻が散らかり、人々がその近くを歩くと散らばった。車内の壁にはタバコの効用を記したポスターを掲げ、片隅にタバコの害の警告文が添えてあった。車内のすべてのものにヤニの臭いがしみつき、全体が黄ばんで見えた。壁の目立つところに禁煙マークを掲げているが、黄ばんで見えにくい。ちなみに、六号車以外の車両はすべて禁煙車だった。

そもそも、どんな警告文やマークがあっても、この車両の乗客は意に介さない。駅のホームにタバコの吸い殻を捨てないように注意する掲示があっても、守らない。彼らは注意文を読んで一応理解できるが、実行しないという意味で非識字者だった。これはンヴィーニの言語コミュニケーションが貧しいことと関係している。彼らは意思疎通にきわめて消極的だったし、みずから領域を(せば)め、外に対する意識をなくしていったのだ。駅構内だけでなく、線路の周辺にも道路わきにもタバコの吸い殻やゴミがたまった。人々は自分の住居や敷地以外の場所を(よご)すことを何とも思わないから、自分の領域外はどこもゴミ捨て場になった。人々が降り立つことのない線路わきが特に汚れたのは、そこが誰にとっても域外だったからである。

タバコの製造販売は規制されていたが、ンヴィニ教寺院には規制が及ばず、棚にはいつもタバコが並んでいる。タバコも寄付の見返りとして得られるため、罪意識など持つはずがない。ンヴィーニには男女とも喫煙者が多かった。ムダを嫌う便利主義にもとづくもので、タバコを吸っていれば何か考えごとをしているような気分になれたのだ。周囲の人々は健康を害される不快感をいだきながら、吸いたくない煙を吸わされた。それだけではない。車の排気ガス、工場の煤煙、由々(ゆゆ)しきは放射能にも寛容だった。彼らの生活そのものがこれらのうえになり立ち、それらを取り除くことは生活の便利さや快適さを失うことを意味したからだ。タバコの煙も騒音もやがて消えるし、いつまでも消えない放射能は目に見えない。目に見えないものや形を持たないものは(とら)えられないのだ。

寺院以外でも、自販機という賽銭(さいせん)箱に少額の寄付をすれば、タバコを入手できた。飲んだあとに空きカンを捨て、読み終えた新聞雑誌を車内に置いたように、彼らはタバコの吸い殻を捨てた。年月の経過とともに人々の周囲にタバコの吸い殻やゴミが堆積されていった。それが目に見え、異臭を放つようになっても、彼らは行動を変えようとしなかった。

[喫煙者を含むンヴィーニに敵愾心(てきがいしん)を持っていた凭也は、異教徒にも怒りの感情を抱いていたようです。タバコを吸うことは多くの無宗教派において宗教儀礼の一つだったとも考えています]

テレビという祭壇

[ンヴィーニはいたるところにテレビを設置したようです。住居、車、電車やバスの車内、飛行機の機内、空港ターミナル、学校の教室、ホテルの個室、病院のベッドなどに大小のテレビが置かれ、どの家にも一台はテレビがありました。入院中も、よほどの重体でない限り、テレビが伝える社会情勢と司祭たちの言葉を聞かないと不安だったといいます]

七号車の壁に埋め込まれたテレビに向かって人々が祈っている。ンヴィニ教は無宗教の一宗派で汎神(はんしん)教の一種だから、信仰の対象はさまざまだった。信者の数だけ神々がいたといってもよい。それらの神々を小さな箱に納めるために考案されたのがテレビで、電子装置によってあらゆる神々を(まつ)ることができた。祈りを(ささ)げるときはもちろん、それ以外のときも人々はテレビから流れる音を聞き、映像を見るともなしに見た。特に人気のある神々がいて、よく画面に登場した。新聞雑誌も神々ならぬ人々のシンポジウムからスキャンダルに至るまでさまざまな記事を掲載した。ンヴィーニは電車の壁に表示される雑誌の目次を読んでは、それらを寺院や分院で入手して読む。人々はこうした神々を(あが)めるだけでなく、喜怒哀楽を共にする親近感ある存在に仕立てた。テレビには複数のチャンネル装置が付いており、人々は自分の好みでチャンネルを選ぶことができた。この選択行為はまったく個人の好き嫌いと気分に委ねられている。ンヴィーニはこれを信教の自由と称し、自画(じが)自賛(じさん)した。新聞雑誌が神々の動向を取材して掲載することは表現の自由の一部として認められた。彼らには、自由に行動していると思えることほど大事なことはなかった。

[そんな彼らを(わら)う凭也はンヴィーニから(あなど)られ、相手にされなかったようです。彼自身はその原因を認知症に求めていますが、本当の理由は彼のンヴィーニに対する辛辣(しんらつ)な批判だったかもしれません]

ンヴィーニの子ども

夏の日の夕暮どきだった。電車が駅に停車してドアが開くとすぐ、ホームで待機していた子どもたちが、降りようとする人々のあいだをすり抜け、一斉(いっせい)に車内へ駆け込んできた。空席の取りあいゲームに興じているのだ。同時に一つの座席に着こうとした二人の子どもが口論を始め、取っ組みあいのけんかになった。周囲にいた人々はただ遠巻きに見るばかりで、関わらない。別のところでは、「席がない」と叫んで子どもが泣いている。いくら親があやしても泣きやまなかった子どもが、近くの婦人が席を空けると、すぐに泣きやんだ。子どもたちは泣き続ければ席にありつけることをよく知っており、人々もそれを容認した。ンヴィーニのあいだでは、子どもが必要以上に甘やかされた。彼らが最も純真な信者と考えられたからで、混みあっている車内でも子どもたちはわがもの顔にふるまった。かん高い声でしゃべりまくり、背中のカバンを人々にぶつけながら車両から車両へと移動した。子どもたちは樹々のあいだをすり抜ける小動物のように、球戯車や禁音車と喫煙車を除くどの車両にも出没した。

子どもたちが時として、ほとんど発作的に奔放(ほんぽう)にふるまうことがあった。車両に彼ら同世代の者しか乗っていない、たとえば夏休みの午後の時間などだ。こんなとき、彼らは首輪を(はず)された犬のようにはしゃぎ回った。学校や家庭にいるあいだ、彼らに勝手な行動は許されない。子どもたちは、教科書・参考書・マンガ本などに書かれた内容に沿って行動し、電車に乗っているあいだもムダのない行動をとった。そういう束縛に対する反抗心が隠されていたのだ。彼らはまた家にいるとき、よくテレビに向かった。アニメの主人公たちが登場したからだ。一方、外部の者を排斥するやりかたは子どもたちのほうが露骨だった。彼らは同世代の者でも異質な者を容赦(ようしゃ)しない。いじめと呼ばれた集団行動が蔓延(まんえん)していた。学校の行きかえりにゴミを投げ、ガムを吐き捨てて、飲みほした空きカンを捨てた。空きカンが車内の床を転がるようすは、老人たちの球戯のボールそっくりだった。

八号車には小学生の子どもとその親たちが乗っていた。どの子も凛々(りり)しい顔をしているが、頭の形が一様にまん丸く無表情だ。背中に同じ色と形のカバンを背負っているから、一人一人を区別しにくい。子どもたちはたいてい二三人のグループでかたまり、かん高い声でしゃべるか、スナックを取り出して口を動かしている。ゲームに夢中な子もいる。

[凭也によれば、ンヴィーニは頭蓋(ずがい)骨の形状を丸くすることで頭がよくなると信じていたようです。どの親も自分の子どもの頭がよくなることを願い、子どもたちは一日の大半を過ごす学校で団体訓練を通じて頭の形状を丸く整形されたのです。親たちはそれで満足することなく、さまざまな整頭術を求めたといいます。学習塾や予備校と呼ばれた施設での訓練もそれで、子どもたちは学校が休みの日も喜んでこれらの施設に通ったそうです。凭也はンヴィーニの子どもたちを嫌っていたようで、次のメモを残しています]

角張った形の頭は嫌われ、人々から(さげす)まれて、電車の車内でも敬遠された。人々が密集する車内では、とがった頭はほかの人々に危害を与える恐れがあると考えられた。だから、頭蓋が柔らかい少年期に頭の形状を整えて丸くしようとした。そのガイドとして参考書やノウハウ本が大量に発行され、どんな小さな寺院も宗旨にあった出版物を置いていた。子どもたちは、同世代の者がみな同じ行動をとっているという、彼らにとってきわめて重大な理由にもとづいて、そうしなければならないと信じた。

紅い球時計

ンヴィーニは、野球やサッカーなどの団体球戯を好んだ。少年男子の多くは野球かサッカーのチームに属した。平日は朝早くから練習し、休日は他のチームとの交流試合に臨んだ。試合の日は家族なども観戦する。応援の熱狂ぶりは老人の球戯と異なるところがない。テレビは団体球戯のようすを毎日のように中継し、どの宗派のチャンネルも定期的に野球とサッカーの試合結果を報じた。球戯が盛んな理由の一つはンヴィニ教における理想体が球体だったことに関係する。古代ギリシャ人と同じように、ンヴィーニは球体に格別の意味を見出した。球体は神格を象徴し、ンヴィーニの統合の象徴とされた。女性の胸部と(でん)部は球状が好まれ、男性の性器が有する二個の球体は格別の意味を持っていた。

ンヴィニ教は教義を持たない無宗教派だが、考え方の根幹には鉄道の設計と運行に関わる思想があった。目的地に早く到達し、いかに効率よく作業するかである。多くのンヴィーニが晩年に患った鬱病(うつびょう)の症例は非効率に対する免疫の低さを示している。無為(むい)の時間が増え、動作が思うようにならないことに耐えられないのだ。彼らの時間観念もまた鉄道にまつわるものだった。どの駅にも(あか)い球時計が人目に付くところに置かれ、人々はそれに向かって(こうべ)()れた。ンヴィニ教寺院や駅構内に設置された球時計の時刻が大本(おおもと)と考えられた。電車は分刻みで運行され、車両の停止位置まで駅ごとに決められている。人々は毎日決められた時刻の決められた車両に乗ろうとして、ホームの乗車位置と降車位置を決めていた。だから、同じ時間帯の特定の車両はほぼ同じ乗客でひしめき合った。出発直前の電車に人々が突進するのは一刻も早く電車に乗るためだし、その電車に乗れると彼らは満足した。そんな生活スタイルを不気味に思う異教徒はンヴィニ教を拝球(はいきゅう)教と呼んで(あなど)った。

日々の行動にとどまらず、人々の生涯にわたる営みも年齢に応じて決められ、六歳から十八歳まで大半の人々が学校や予備校などの施設に通った。さらに数年から十年ほど施設に通う者も少なくない。その後、さまざまな職種の仕事について、異性または同性どうしが結婚して世帯を持つ。生活に根ざした信仰という意味で、儀礼的な宗教にない重要な要素をンヴィニ教は持っていたのだ。ただ、ンヴィーニの一生は時刻表のようで、途中で脱落した者は同じ電車には戻れない過酷な社会でもあった。人々が最も恐れたのは電車という動く寺院やンヴィニ教寺院から追放されることであった。

2. 異界との往来

[第二部の時期は一九九〇年夏から二年ほどで、場所は北米とされています。凭也(ヒョーヤ)はH市で体験したことを繰り返し話しました。列車の窓から見た景色と彼の心象風景が交錯するようすは明らかに認知症の症状を示しています。記録係は彼の話を記録しながら、どこかで自分の経験だと錯覚していたふしがあります。なお、第二部では凭也の独白部分を[  ]内に入れ、文体を区別しています]

谷あいを走る列車

H市に駐在していた凭也は、郊外のアパートから市街地のオフィスまで毎朝ディーゼル列車で通勤していました。朝夕の通勤時間帯に四両編成の列車が上下三本ずつ約三十分間隔で運行され、大半の区間は単線でした。二階建ての車内には日本島の長距離列車のように通路の両側にゆったりした四人掛けボックスシートが並んでいました。凭也が乗るY駅から終着のW駅まで約三十分かかり、途中の停車駅は一つしかないので、同じ時刻の列車を利用する乗客は毎朝ほぼ一定していました。通路やドアの(そば)に立っている乗客はいません。朝は座席の位置がほぼ固定している者も多く、始発駅の乗客は指定席を得ているようなものでした。郊外の住宅地を抜けて湖岸の市街地に至るまで、ゴー河沿いの谷あいを南下します。Y駅の次の駅を過ぎると、市街地に入るまでほとんど谷あいの風景が続き、通勤列車に乗っていることを忘れさせました。

列車を利用するようになって二ヵ月ほどは、毎朝、車窓の景色を見ているだけで飽きませんでした。夏から秋に移る時期だったでしょう。谷あいに見え隠れする野草の色調が萌黄(もえぎ)から淡い紅や淡い紫へと日々変化しました。列車の通過する瞬間だけでも、これらの景色をとらえようとして見入りました。日数が()つと、列車の両側に(あらわ)れては消える地形を断片的に覚えるようになりました。特に引かれる場所が数ヵ所あり、そこを通過するときは決まって特定の心象風景が浮かぶのです。途中に踏切が一ヵ所あり、いつも少し手前で列車が汽笛(きてき)を鳴らします。その位置の西側、小高い丘の上に緑青(ろくしょう)を塗り付けたような小屋とレンガ作りのエントツが建ち並んでいました。そこを通過するたびに、幼少期を過ごした中国地方の山々に囲まれた鉱山町を思い出すのです。幼少期の記憶をほとんど失っていましたが、五歳のとき、その鉱山町を離れたときの情景は脳裏に残っていました。列車が汽笛を鳴らし、小高い丘が見えると、決まってその山々が浮かびました。

[小さなホームにたたずむ人々、背後に迫る山並み、鳴り響く蒸気機関車の汽笛、ピィーィーィーィーポォーォーォー、ピィーィーィーィーポォーォーォー、ピィーィーィーィー、汽笛がいつまでも途切(とぎ)れずにこだまする]

こうしてゴー河沿いの景色と凭也の心象風景のあいだに特別な関係が作られました。

老人と女性の乗客

列車で通勤して数ヵ月過ぎた晩秋の朝、凭也の指定席に見慣れない老人がすわっていました。白髪(はくはつ)と顔の下半分をおおう白いひげから察して、年令は七十歳ぐらいだったでしょう。がっしりした体は白人のなかでも大きいほうでした。列車の進行方向に背を向けてすわり、ずっと車窓に額を押し付けるようにして、過ぎ去って行く景色を見ていました。仕方なく、凭也は同じボックスシートの向かいの通路側にすわりました。その位置から斜め前にいる彼を観察したのです。ただ、そのうちに彼の発する不思議な魅力に引き付けられ、身動きできなくなりました。その朝、彼は窓外の景色をほとんど見ないでW駅に到着しました。駅で乗客が全員降りたあと、しばらくして車掌に肩を突かれ、ようやく我に返ったのです。あの忘我(ぼうが)状態は何だったのか、この疑問が彼の脳裏を離れませんでした。

次の日、老人は現れませんでした。Y駅の次の駅で一旦降りて隣の車両を見渡しても、その姿はありません。その日以来、車窓の景色は凭也の心象風景を受け入れなくなりました。晩秋のゴー河はくすんだ黄と赤茶や(だいだい)を川面に映し、下流に行くにしたがって色の配合を微妙に変化させます。そんな光景も何ら作用を及ぼさなくなりました。

ゴー河の谷あいにその年の初雪が降った日の翌朝、凭也の指定席に一人の女性がすわっていました。数ヵ月前の老人のときと同じように、彼は彼女の斜め前にすわりました。浅黒い肌の彼女は(あし)を大胆に組み蠱惑(こわく)的でいながら、彼をどこか敬虔(けいけん)な気持ちにさせました。彼女も老人と同じように左肩を窓枠に凭れ、過ぎていく景色を追っています。その姿を見ているうちに、彼は想像のなかで彼女の唇を奪いました。

[夏の終わりのむし暑い夜、家の近くの雑木林に出かけた。樹々(きぎ)のあいだに浮かぶ下弦の月を見ていて、急に誰かを抱きたい衝動に駆られ、クヌギの樹の幹にそっと唇を当てた。上のほうで樹々の枝や葉が黒い切り絵のように揺らいでいた]

彼女の唇をじっと見ていて、少年の記憶がよみがえりました。ゴー河沿いにその雑木林に似た場所が点在していました。車窓に映った彼女の顔の向うに遠ざかっていく景色を見ながら、本当に彼女の唇を奪ったような気がしたのです。その顔の向こうに小さな池が映りました。老人に会う以前、この池はある湖を思い出させました。

[東京の西端にある湖に行った。松や広葉樹のあいだに(あお)い湖水が見えた。中之島の奥まったところにある廃屋に入った二人は、雨埃(あめぼこり)で汚れた窓から湖水を見ているうちに風景のなかに溶け込み、気がつくと漆黒(しっこく)の夕闇に包まれていた。帰りの車内で、彼女は窓に肩を押し付け、(なみだ)をためていた]

目の前の彼女と湖の女性が重なっていました。その朝、凭也は老人のことを考えませんでした。W駅で降り、しばらく彼女のあとを追いましたが、やがて雑踏のなかに見失いました。次の日も女性は同じ席にすわっていました。彼は、きのう唇を奪ったせいで少し構えていました。その後、彼女に会うことが重なるにつれ、老人の残像に(わずら)わされなくなり、以前のようにゴー河の谷あいと心象風景の交錯が起きることを期待しました。

[凭也は記録係を老人に重ね、担当医をその女性に重ねて見ていたようです。医師は三十代後半と見られる浅黒い肌の持ち主でしたし、記録係は五十代後半にしては白髪(はくはつ)が目立ちました。以下、独白の部分はいつもひどく緊張したようすで、医師を見つめながら訥々(とつとつ)とした英語で話しました]

認知症患者の独白(一)

一ヵ月ほど経ったある朝、一本前の列車が約三十分遅れ、いつも凭也が利用する列車の時刻を過ぎてY駅を出発しました。大半の客はその列車に乗りましたが、彼はさらに遅れて到着したいつもの列車に乗りました。ほとんど乗客のいない車内を見渡すと、いつもの席に彼女がすわっています。当然のように、彼も同じボックスにすわりました。次の駅まで二人とも言葉を発しません。その駅から誰も乗ってこないのを確認したかのように、列車が動き出すとすぐ、彼女が話しかけてきました。インド(なま)りの英語です。

「いつも窓を見つめて何を思っていらっしゃるの」

一瞬、凭也はたじろぎました。想像とはいえ彼女の唇を奪った彼は一種のストーカーです。それを詰問(きつもん)されると思い、身(がま)えたのです。唇に触れたとはいえ、彼女は心象風景を引き出す仕かけだったはずだ。そう思いながら、しばらく窓外を見ていました。彼女も「次に話すのはあなたよ」と言わんばかりに黙り込み、窓枠に肩を寄せていました。外は一面の雪に(おお)われ、陰画のような銀世界を演出していました。枝と幹だけになった樹木が黒々と輝き、倒木の上半分をおおった雪が幹の黒さを強調します。雪の下から首を出す低木は萌黄(もえぎ)に赤茶がかった色調で、金粉(きんぷん)をまぶしたように輝いています。柳の巨木がしなやかな赤みを帯びた若枝を広げ、春が近いことを知らせていました。

そうだ、彼女も同じ景色を見ているはずだ。そう思うと、彼女の質問には(こた)えないで、谷あいの景色が呼び起こした心象風景について訥々(とつとつ)とした英語で話し出しました。

[高校生のころ、家でカナリアを一羽()っていた。毎朝早く、近くの原っぱでハコベを()んで来るのが僕の日課だった。ある朝、いつものように(えさ)を与えようとして鳥かごを見ると、鳥が仰向(あおむ)けに倒れている。そっと指を触れたが動かない。動揺した僕は、自分が殺したと思った。生きる意味を考えながら、鳥など存在する理由がないと決めつけていたからだ。毎朝ハコベを与えていたものの、小鳥も僕も生きる必然性はないと考えていた。だから、鳥が死んだのに(なみだ)すら出なかった。家族の者を起こさないように注意して鳥の(なま)(あたた)かい体を手につかむと、逃げるようにして外に出た。いつもの道沿いに進み、いつも立ち寄る雑木林に入っていった。ぐったりした鳥は手のひらの汗と雨水にぬれ、生き物の生々しい感触を伝えていた。樹の根もとにそっと横たえ、近くに落ちていた木片で穴を堀り始めた。犯罪者のように周囲におびえながら必死に堀ったが、一向(いっこう)にはかどらない。しだいに雨がひどくなり、しずくが顔を伝った。鳥を埋め周囲の土を踏み固めたころには体中ずぶ()れになっていた。その朝は家に戻らず、学校へも行かず、ひたすら歩き続けた]

ゴー河沿いに点在する雑木林にこんな心象風景が張り付いていたのです。列車が市街地に入るころ、話し終えて彼女を見ると、目に泪をためていました。一方的に話したことが恥ずかしかったのか、列車がW駅に着くと、凭也は足早に去っていきました。

認知症患者の独白(二)

次の朝も、彼女は同じ席にいました。真向いの席に彼女のバッグが置いてあり、ボックスの横で凭也が立ち止まると、バッグを取って席に誘いました。真正面に腰をおろした彼は、うつむいたまま窓のほうに顔を向けました。彼女がまぶしかったのです。Y駅の次の駅を過ぎると、谷あいの景色に変わります。しばらくすると、広々とした河原があり、ゴー河が大きく蛇行(だこう)して線路と交差します。そこは東北のA市につながっていました。この日も彼は一方的に訥々(とつとつ)と話しました。

[A市のはずれに(さい)川が流れ、遠くになだらかな山並みが見える。自転車に乗って川まで行き、(よし)のなかを歩き回った。夕日が川面に乱反射して輝くのを見ているだけで、ほかには何もいらなかった。冬は(こお)った(よど)みの上を恐る恐る歩いた。春は川原の砂地に腰をおろし、川の流れを見て過ごした。そこは地上ではない、空の底であった。仰向けになって空を見ているだけで時間の()つのを忘れた。(そば)を流れる川の瀬音(せおと)、橋の上を通る車の音、風に揺れる草むらの音、土手にうずくまる牛の吐息(といき)、葦のなかから急に()び上がるヒバリ、夕暮れには鳥が編隊を組んで中空を飛んだ]

転校生だった凭也は孤立していました。(さい)川の土手は安心して一人になれる場所だったのです。ゴー河の流れがこの川につながっていました。H市もA市も二年過ごしただけで、彼は通過者でしかありません。二つの土地に過ごした時期は遠く離れているのに、風景はつながっているのです。凭也が話しているあいだ、彼女はずっと窓外を見ていました。話し終えると、なつかしそうに彼を見ました。次の日も、彼女は向い側の席を取っていました。前回と同じように、彼は聞かれるともなく話しました。彼が十歳ごろの話です。

[ある夏の夜、一人で家にいた。夜半に雷を伴った激しい雨が降り出し、夜遅くなっても家族の者は誰も帰ってこない。ふとんをかぶっても寝られず、起きたまま、雷が遠のくのを待つしかない。しだいに雷は近づき、溶接の火花のような閃光(せんこう)と空気を切り裂く雷鳴が激しさを増す。家中の雨戸を()めたが、天窓(てんまど)を通して白い閃光が差し、同時に雷鳴が(とどろ)く。雷を恐れた少年には拷問(ごうもん)そのものだった。閃光がきらめくたびに庭と垣根(かきね)が一瞬青白い光のなかに浮かぶ。それが恐怖心をあおった。停電してまっ暗になったので、仏壇の引き出しからロウソクを一本取り出して手さぐりで火をつけ、居間の卓上に置く。ロウソクの(ほのお)は初め安定していたが、すぐ揺らぎ始めた。ロウが炎の下の(しん)を囲むように()まり、不安定な炎が燃え上がった。すると、炎の動きに合わせて影が()ねて踊り、それが恐怖心を増幅した。深夜に帰宅した母親に向かって「うそつき」と吐き捨てるように言うと、少年は泣きじゃくりながらふとんに(もぐ)り込んだ]

凭也の話を聞いているとき、彼女は小刻みに震えていました。彼が話し終わると、ほっとした表情を見せました。

列車の終着駅

その日の夕方、凭也はW駅発五時三十分の下り最終列車に乗りました。勤め帰りに列車を利用することは滅多(めった)になかったのです。習慣で朝と同じ車両の二階に行くと、いつもの席に彼女がいました。向かいの窓側の席は空いていませんが、彼女の横の席が空いていたので、軽く会釈(えしゃく)して腰をおろしました。冬のこと、夕方五時を過ぎると暗闇に包まれ、ゴー河沿いの光景はほとんど見えません。ときおり鳴り響く汽笛がさえ渡って聞こえる季節でした。Y駅が近づいても、凭也は列車を降りる気になりません。彼女も彼の肩に頭をのせ、腕をからませました。Y駅で乗客の大半は降りましたが、二人はそのまま終着駅まで行きました。

駅の駐車場に()めてあった彼女の車に乗り、暗闇のなか、舗装されていない林道を小一時間走ったでしょうか。彼女の家は窪地(くぼち)に建っているようでしたが、(ばく)とした感覚でしかありません。あの夜の記憶はすべておぼろげなのです。H市郊外によく見られる木造のこじんまりした家でした。車を家の近くに無造作(むぞうさ)に停めると、彼女は木製のテラスに上がって玄関の戸を開け、凭也を招き入れました。家のなかは暗く冷え切っていました。彼女が暖炉(だんろ)に火を起こすあいだ、彼は横でじっと見ていました。炎が勢いよく燃え出すころ、ようやく部屋の暗さに慣れ、体も(あたた)まりました。耳をすますと、バンドネオンが演奏するアルゼンチンタンゴの曲が静かに聞こえていました。暖炉の前で立っていた凭也を、彼女が隣りの部屋に誘いました。そこはアトリエ風の部屋で、中央に置かれたテーブルの上に大小さまざまな写真が散乱しています。どれも風景写真のようで、かなり古いものもあります。

部屋の一角にある現像用の暗室に入ると、赤い照明のなか酢酸(さくさん)の刺激臭が鼻をつきました。たれ下がったベタの写真はすべてゴー河沿いの光景でした。急に彼女がいとおしくなり、そっと抱擁(ほうよう)しました。彼女はもはやクヌギの樹ではなく、ふくよかな肉体を持つ女性でした。暗室を出ると、部屋に散乱した写真を一枚ずつ手に取り、初めて通勤列車に乗って窓外の風景に引かれたときのように見入りました。すべてモノクロで、古いものはセピア色をしています。ただ、いつものゴー河の風景と写真のそれは到底(とうてい)同じ場所とは思われません。凭也が知っているのは都市郊外の半自然で、写真のそれは荒れた自然そのものでした。

質素な夕食で、ワインを飲みながら、もっぱら彼女が話しました。こうして二人が話を交わすのは初めてです。列車では凭也が一方的に話し、それがどこまで彼女に伝わり、どう理解されているか知る(よし)もありません。一度だけ彼女が言葉を発したとき、それには(こた)えずに彼が一方的に独白(どくはく)したのですから。そんな二人が食卓を共にしていました。彼女は三十代半ばだったでしょう。ゴー河沿いの小さな町に生まれ、そこで幼少期を過ごしたようです。その後、河の下流沿いに高速道路が建設され、ゴー河の自然を愛した両親と共にH市北部に移ります。彼女の家族は酪農を営んでいたといいます。大学時代を市街地で過ごし、そのまま市内に(とど)まって学生時代の友人と同棲(どうせい)しますが、数年後に別れ、この家に移ったようです。数年前からH市周辺に残された自然を求め、週末を利用して撮影しているといいます。

終着駅で降りてから数時間、暗闇を車で通過するあいだに現実界から遠ざかってしまったようです。木造の家とそれを取り囲む樹々の漆黒(しっこく)、薄暗い部屋に置かれた古びた家具、レンガ造りの暖炉、アトリエに散乱したモノクロ写真、すべての物が凭也を現実から引き離そうとしていました。恐怖はないものの、しだいに自分が現実界から離れて行くような不安を覚えました。一度この感官に(とら)われると数ヵ月は(のが)れられないことを知っていたからです。今はまだ現実界との境界にいるので意識できますが、完全に囚われると意識できなくなります。熟知しているはずなのに、その状況に置かれると逃れられないのです。現実界からの遊離感覚は恋愛とともに生じることがあります。浅黒い肌の女性が(かたわ)らに横たわっている陶酔感と、それがいつか崩れるという不安が交錯します。それから三ヵ月あまり、週末には夕刻の列車に乗って終着駅まで行き、彼女の家で過ごしました。季節は冬から春に移行する時期で、雪に(おお)われていても、柳の枝の萌黄(もえぎ)や低木類の枝の(あわ)い紅色が春の近いことを伝えています。空に向かって(さか)さに根を生やすように、樹々が黒ずんだ褐色(かっしょく)の枝を精いっぱい伸ばしていました。

老人との再会

ある週明けの朝、凭也一人で始発列車に乗りました。いつもは二人で出勤するのに、その日彼女は休暇で、彼を駅まで送ると家に戻ったのです。始発駅にもだいぶ慣れ、ホームで列車を待つ人々のなかにも幾人か見覚えのある顔がありました。列車の運行に接続するバスから乗客が降り、ホームに広がっていました。列車が少し遅れ、乗客がいつもより多いようでした。一瞬、その人々のなかに例の老人を見たような気がして、体に電流が走るような衝撃を受けました。数ヵ月前に出会い、列車で同じボックスシートにすわっただけの人物なのに(せつ)ない懐かしさに包まれます。人々をかき分けて彼のほうに進むと、汽笛を鳴らしながら列車がホームに入ってきます。いつものように停止位置に構わずに停車した列車のドアに人々がおもむろに(むら)がります。

見失わないように注意しながら、老人のいる車両のドアに近づきました。彼は悠々(ゆうゆう)と列車に乗り込み、凭也は数人あとについていきました。数ヵ月前と同じ席に腰をおろし、窓外に視線を向けたままじっとしています。凭也は斜め前にすわり、前回と同じ位置で彼を観察しました。すると、どうしたことか、その引力が(うそ)だったかのように波のない湖面のような静けさに包まれたのです。あれほど引かれた相手が目の前にいるのに、この落ち着きは何なのでしょう。老人に出会う前、ゴー河沿いの景色に魅了(みりょう)されていた凭也を不安に(おとしい)れ、得体(えたい)の知れない引力で満たした彼は一体何者だったのか。彼に出会ったあと、不安定な状態のなかで一人の女性に会い、凭也は以前とは違う形でゴー河の風景に溶け込みました。彼女との関係が老人を遠ざけたことは間違いありません。だとしたら、再会がもたらしたこの静けさは何なのか、凭也は混乱しました。

老人は(おとろ)えが目立ち、数ヵ月のあいだにすっかりふけ込んでいました。窓外を見つめる表情も前回とは異なり、病んでいるようです。ゴー河沿いの早春の景色と対比するとき、その衰弱(すいじゃく)ぶりが目立ちました。春という季節の持つ残酷な一面です。

列車はいつのまにかW駅の薄暗い構内に入っていました。車内に人影はなく、老人と凭也だけが残されていました。おもむろに立ち上がると、彼は通路をゆっくり歩いてホームに降りました。凭也は命ぜられたようにそのあとを追いますが、通勤客の雑踏のなかに彼を見失いました。幻想ではなかったかと疑われるほど、忽然(こつぜん)と消え去ったのです。

異界に逝った老人

老人と再会したあと、凭也は以前とは違う不安に(おそ)われました。この不安が彼を彼女から遠ざけ、列車には乗らないで地下鉄を利用するようにさせました。二人のあいだに感情のもつれがあったわけではなく、一方的に遠ざけたのです。

ある朝、凭也がいつものように地下鉄のW駅で降りようとすると、勢いよく乗り込んできた男にぶつかって倒れそうになりました。バランスを取り戻して顔を上げると、立ちふさがったのは例の老人です。凭也は足がすくみ、またしてもその引力に(とら)われました。地下鉄の車内に押しもどされ、そのまま彼について博物館駅まで行きました。博物館の前で彼と並んで腰をおろし、しばらく空を見上げていましたが、開館するとすぐ彼のあとについて館内に入りました。仏教壁画に囲まれた薄暗いドーム状のホールに着くと、老人は歩みを止め、中央に配された雲崗(うんこう)石仏を思わせる仏像の前で祈る姿勢をとったまま動かなくなりました。洞窟(どうくつ)のような静けさに包まれ、八九世紀の仏教隆盛(りゅうせい)期にいるような錯覚を覚えました。しばらくすると、仏像を見つめていた凭也の目から(なみだ)がこぼれ、やがて嗚咽(おえつ)に変わりました。少年のころ、母方の祖父の葬儀場で似た経験をしたことがあります。

[祖父は孫のなかでも僕を特にかわいがってくれた。母が末娘だったからだろうか。ときどき家に来ては庭の草取りをし、垣根(かきね)のヒバを()ってくれた。高校受験のためA市に行ったのも祖父と二人だった。最後の蒸気機関車の旅だった。汽車がトンネルに入ると(すす)が入ってきて、祖父があわてて窓枠をおろした。あのときの祖父の笑顔、煤でざらざらした木の窓枠、学生服の袖口から出た白いシャツ、汽笛の音のなかにそんな映像が浮かぶ。地方の農村で育った祖父は若いころ田畑を処分して夫妻で上京し、上野駅構内でスリに襲われて、全財産を失った。途方(とほう)にくれた祖父はバナナのたたき売りから始め、上野のほおずき市や植木市を転々として、(もう)けの多い植木と生花商に落ち着いた。一緒にふろに入ると、(かめ)の子たわしでごしごし背中を洗わされた。どんなに力を入れても痛いと言わない。よく笑いながら僕を(しか)ったが、僕も笑っている。そんな祖父と目の前の老人がどこかでつながっている]

博物館に入って、かなり時間が()っていました。少し落ち着きを取り戻して周囲を見回すと、目の前にいたはずの老人がいません。仏像の裏側に回ってもいないのです。W駅の雑踏で見失ったときと同じく、彼は忽然と消えました。もう一度正面に回って仏像を見上げたとき、凭也は信じがたい光景を見ました。巨大な仏像に従う従者のようにして老人が立っているのです。(まぶた)をこすってもう一度見ると、それは漆喰(しっくい)の修行僧の立像(りつぞう)で、まちがいなく彼の姿をとどめ、やさしくほほ笑んでいます。初めて彼に会ったときの忘我(ぼうが)状態と浅黒い肌の女性の唇を奪ったときの感触が一瞬よぎりました。修行僧に向かって合掌(がっしょう)していると、老人と女性が遠く去って行く姿が浮かびました。

3. 漂う人と魚の群れ

[第三部の時期は二〇三〇年、場所は第一部と同じ日本島です。大半は凭也(ヒョーヤ)のメモからの引用ですが、記録係の時間軸が二〇二〇年で止まっているためか、よく理解できない記述が少なくありません。第三部の後半で記録係の意識において彼と凭也の境界が曖昧になり、記録の文体が乱れます]

老人たちとの再会

一月か二月の冷え込んだ日の午前中だった。日本島の首都の中心部にあり、その象徴ともいえるグローブ(球体の意)駅構内はいつものように多くの人で混み合っていた。みな一様(いちよう)にうつむいて手のひらを見ながら歩き、人や物にぶつかると頭を上げる。通路の壁ぎわに止まって見ていると、人々の動作はどこか機械的でロボットのようだ。その雑踏のなかに一瞬、むかし車イスに乗って球戯の審判をしていた老人を見たような気がした。いや、ゴー河沿いに走る列車の老人だったかもしれない。彼らが同一人物だったかどうかも不確かなのだ。いや、二人だったかもしれない。

二〇二〇年代を通じて車イスはすべて電動式になり、都会では軽自動車に取って代わるほどになった。どこでも多くの人が軽快に乗り回していたから、三〇年当時、車イスは特に珍しい光景ではない。いつもなら気にも止めないが、目に止まった車イスには四五十年ほど前に見た老人とそっくりな人が乗っていた。ただ、半世紀前の彼(ら)が生きているはずはない。打ち消そうとするが、何かがそうさせない。考えあぐねているあいだに、彼(ら)の強い引力に引かれ、そのあとを追っていた。その容姿と顔を見て必死に記憶の断片を拾おうとするが、思い出せない。二十歳の青年が七十歳の老人になるほどの年数が()っているのだ、と言い聞かせながらも、何が彼(ら)を同一人物と思わせるのか不思議でならない。

一九八〇年の夏、動くンヴィニ教寺院の三号車の老人は車イスに乗っていた。九〇年の晩秋、H市の列車で出会った老人は大股(おおまた)で歩いた。いま目の前にいる彼(ら)は上下とも黒い服を着ていて、当時と同じように白髪(はくはつ)が目立つ。彼らが同一人物だとすれば、百歳を超しているはずだが、一見して七十歳前後でむかしとあまり変わらない。ただ、以前の活気がなく、ひどくやつれて見えた。違う人ではないか、そう思いつつも車イスのあとを追った。グローブ駅の地下道を人々は軍靴(ぐんか)のような(くつ)音を響かせて行進し、車イスにぶつかっては横を過ぎ、小動物の群れのようにエスカレータに吸い込まれていった。人の集団が見えなくなると、構内はいっとき静けさを取り戻し、彼(ら)の車イスのモーター音と靴音が静かに響く。彼(ら)は長いエスカレータに乗って上がって行く。車イスはしっかりエスカレータに()み合い安定して水平に保たれ、彼(ら)は身動き一つせずに運ばれていく。

彼(ら)が乗っていた段が最上段に達すると、車イスはスムーズに放たれる。さらに進んで地上に通じるゲートを通過すると、かん高い電子音が鳴り、彼(ら)はひどく(おび)えた。すべてのゲートの出入りが記録されることを彼(ら)は知っている。日本島の住人は、短期滞在の異教徒を含め、この管理体制から(のが)れられない。島内にいる人々の行動がすべて監視されていた。長い通路を進んで地上に出ると、彼(ら)は道路の向かい側にそびえ立つガウディ建築さながらの高層ビルをめざす。駅構内からここまでずっとバリアフリーだから、車イスの動きが(とどこお)ることはない。車イスはビルの一階に突き出した建物にさっと入って行った。さまざまな品物を置いた(たな)が、人と車イスが通れるスペースを空けて並んでいる、巨大な倉庫のような空間の一角にテーブルとイスが置いてあり、カウンターも備えている。二千年ごろから日本島の津々浦々に普及したンヴィニ教寺院の典型的な建築様式だ。

死にゆく人々

冬の日の正午近く、ンヴィニ教寺院は老若男女で(にぎ)わい、みな棚のまわりを歩き回りながら祈りを捧げている。二〇二〇年代の後半、寺院は人々の求める欲望だけでなく、金融や郵便から葬儀まで扱うようになった。たとえば、最も簡素な葬儀は、寺院の他の物品とともに座棺(ざかん)式の厚手ビニール袋で出棺(しゅっかん)され、トラックに乗せられて河川敷まで運ばれ、川の流れに沈める河葬(かそう)だった。異教徒も同じようにトラックで運ばれ、粗大ごみと一緒にゴミ処理場で火葬(かそう)された。その手配も寺院が行った。多くの殺人事件が河葬(かそう)()して行われ、行方不明者が増加する弊害もあった。人々は不安のなかで生活したが、それを恐れる人は(まれ)だ。彼らにはコンヴィニエンスの負の側面が見えないからだ。この日、彼(ら)はンヴィニ教寺院の棚にあった食料を二つ車イスのサイドバックに入れると、入口近くに立っている浅黒い肌の女性に会釈(えしゃく)し、入って来たドアから出ていった。そのときまた電子音が鳴る。ここでも出入りが記録され、彼(ら)が保有するドット数から布施(ふせ)した額が引かれた。ンヴィーニの出生から死亡まで、あらゆる行動がドット数とともに記録され保存されたのだ。

[ドット数は二〇〇〇年代初めのポイント数とは比較にならないほど深く人々の命運に関わる数値と考えられたようです。その一部は経済力と呼ばれ、寿命の長短に関係するとも考えられました。ンヴィニ教で賽銭(さいせん)箱の役割を果たす自販機(じはんき)もドット数と関係します。記録係には迷信としか思われませんが、ンヴィーニは信じて疑わなかったようです。そんな彼らもなす(すべ)がなかったのが自死者の増加です。多くは何かをきっかけに突然ドット数が低下し自死行為に及びます]

都市部も地方部も自死者が増え、特に高齢者に多かった。高い自死率はどの宗派にとっても好ましくないので、司祭たちは何とかして減らそうとしたが、止めようがない。どこかで誰かが自死を図ると、地域ごとに寺院を統括する寺院センターに連絡が入り、最寄りのセンターの司祭が立ち会って検死する。ただし、自死のなかで最も多い鉄道自殺の場合は違った。地下鉄や列車の先頭車両はセンサーを備え、豪雪地帯のラッセル車に似た(ふた)つき運搬ネット装置を取り付けていた。線路上や側溝(そっこう)に倒れている人を発見すると、すぐに装置が作動し、体をすくい上げて(ふた)(おお)う。同時に高濃度の高圧洗浄液で事故現場の周辺を洗浄する。そのまま最寄りの集配センターのある駅まで運び、そこで司祭が生死の確認を行う。いずれの場合も延命措置は(ほどこ)さない。自死者の意思を重んじるといえなくもないが、鉄道の場合は事故に伴う電車の遅延を最小限に抑えるのが主な理由だった。以前は事故現場の検証のために時間を要し一時間以上運行が止まることも珍しくなかったからだ。処理時間は大幅に短縮されたが、問題がなかったわけではない。自死か他殺かを究明する現場検証が(はぶ)かれ、犯罪の温床(おんしょう)となったからだ。

寺院センターの内部

彼(ら)は、ロビー階にンヴィニ教寺院のある、この地区の寺院センターに入って行った。階層は、ロビーを含む(ゼロ)層・十層・二十層から七十層・八十+(プラス)層まで九層ある。各層には零階から九階(八十+層は零から九+階)まで階があって、ンヴィーニはそれぞれの年齢階層に行く。零層と十層の各階には教徒の保護者も同行でき、他の階層も介護人や後見人などは同行できる。高齢者たちは年齢に応じてセンターの七十層または八十+層に出入りしたが、三年以上勤めた司祭は、どこへでも自由に出入りできた。

ロビーから最上階層まで吹き抜けで、ロビー階から見上げると、巨大な深い井戸の底にいるように見える。このビルは、地域の人口動態グラフを立体化した形状を持ち、人口動態に応じて定期的に外装を改修した。円形ロビーの周縁部には階層ごとのドアがずらっと並び、信者たちは、それぞれの階層に通じるドアに入っていく。自分の階層でないドアの前に立つと、立っている人も車イスの人も風圧でロビーの中央に押し戻される。ロビーの床は黒と白の正方形を交互に配したアルゼンチンタンゴのサロンと同じチェック模様だ。グローブ駅のドームの床と同じだ。

ビルの各階にはその階に応じた年齢の人々が保有するスペースがある。彼(ら)もンヴィーニだったようで、寺院とロビー階のほか自分の年齢の階層に行くことができる。彼(ら)の階層は七十層四階であった。夜間の時間帯を除き、信者たちがドット数を獲得する仕事あるいは自習や遊戯の場を提供した。ビルの内部はいつも温度と湿度が一定に保たれ、夏は涼しく冬は暖かいので季節感がない。人々は定温・定湿の人工的な状態を望んだ。

[三〇年当時、日本島の大半の人々がンヴィーニだった、と凭也は解釈しています。一九七〇年代を通じてンヴィニ教寺院が増え続け、二〇年には飽和状態に達したようです。寺院のない辺鄙(へんぴ)な場所や何の変哲(へんてつ)もない住宅地に自販機が置かれ、単なる賽銭(さいせん)箱ではなく地域の人々を(まつ)(びょう)を兼ねたといいます。自販機内部も常に一定の温度に保たれました]

季節がないのは寺院センターやンヴィニ教寺院だけではない。電車は当然ながら、地下鉄は道路下のトンネル内を走行するため、乗客は外の景色を見ることなく、外気すら感じようがない。快適な環境を最も必要としたのは老人たちで、生死に関わる問題だった。七十層四階には数百名がスペースを持っていた。当時の人口動態を反映し、他の階層より広いスペースが確保されている。人々が生まれると、それぞれの遺伝子情報にもとづいて三次元符号が与えられる。この符号は日本島のあらゆる生物と人々を識別できるので、人々には個人名が必要ない。ロビーの周縁に並ぶエレベータのドアも生体認証によって人々を監視している。老人たちは毎日このビルに通い、ほとんど会話を交わすことなく、黙々と手のひらを見つめた。人々の保有スペースはサイバー上にあり手の指で操作できた。自分のスペースに入ると、日々の仕事が与えられ、ほとんどの作業は手のひらの上で行われる。その対価として些少のドット数を得た。

寺院センターの各階には必ず回転ドアがあった。自死を望む者が司祭による意思確認を()て、そのドアを通過すると、外側に飛び降り用の台が設けられている。回転ドアが回るあいだに自死を思いとどまった人を戻すためなのだが、戻る人はほとんどいない。自死者が落下する場所はセンターの周囲を流れる川で、底知れぬ深い谷があった。落下した体は肉食魚類の餌食(えじき)になり、濁流(だくりゅう)にのまれて太い骨だけが谷底に沈んだ。ふだんプラスチックの破片ばかり食べていた(うを)たちは、ヒトの肉を(むさぼ)()らった。

手のひらを見つめる人々

人々は睡眠を除くほとんどの時間、手のひらを見て過ごした。歩くとき、電車や地下鉄の到着を待つとき、電車の車内、エスカレータに乗っているとき、便座にすわっているとき、食事中、時間つぶしなど、家にいるときも外出先でも、いつも手のひらを見つめていた。車を運転するときや自転車に乗るときも手のひらを見ることをやめなかった。歩くとき、人々は手のひらを自分に向け(ひじ)を九十度曲げて歩いた。駅構内の至るところで、手のひらを見ながら歩かないように注意するが、従う者はいない。手のひらに保存された写真や動画を含むデータに自分だけの領域を見いだし、好きなニュースやマンガを読み、ゲームに興じて時間を費やすことが大半の人々の日常になった。歩きながら事故に()う人も多く、駅ホームから線路に転落する人も絶えなかった。

[三〇年までにスマホが画期的変化を遂げ、スマフォと呼ばれるようになったようです。二〇年代と違って、手のひら自体がその機能を果たしたらしいのです。医師と記録係には想像しにくいのですが、凭也は診察中にそれらしい動作をすることがありました。スマホを手に持っていないのに、あたかも手のひらにあるように操作し、熱心に説明するのです]

左の手のひらを指でこすると、左手にスマフォ画面が立ち上がり、両方の手のひらを合わせてこすると両手に画面が表示される。画面サイズの拡大縮小もできる。スマフォの下辺が手首に接し、画面全体が手のひらの上に浮いて見える。画面はいつも見やすい角度に保たれ、指を立てたりそらせたりして画面の角度を自在に調整できる。画面の解像度がはるかに向上し、以前ほどのぞき込む必要がない。立ち上げたスマフォ画面を消すには、もう一度手のひらをこすればよい。体の一部がスマフォになった感覚なので、置き忘れや落下の心配はなく、倒れて手のひらをついたときは自動的に消える。生体の新陳代謝にもとづく微弱電流を利用したからバッテリーもいらない。カメラのレンズ機能は人差し指か中指の爪に納められ、シャッターは同じ指の指先にあって、親指の指先で軽く押すだけだ。録音用のマイクとスピーカー機能も指先にあり、入力は音声か指で行われる。音声入力の場合は手のひらを口の近くに持ってきて小声で話せばいいし、手のひらに反対の手の指で文字を書けば文字入力もできる。手のひらをかざすだけで、別紙に書いた文章や画像をスキャンできる。手洗いや入浴時には画面を消せば、ただの手のひらになる。手のひらにプロジェクション・マッピングされた旧型のスマホ画面を想像すればよい。

ただ、スマフォが普及するにつれ、人々はますます自閉し、他者の意見を聞かなくなった。自分の体の一部に映し出されるものを自分だと思い込んだ人々は自分の手のひらばかりを見た。入力も電話も手のひらに向かうだけで、写真も動画も自在に撮れたから、盗撮(とうさつ)がさらに巧妙化した。周囲も他者も(かえりみ)ない、自閉症とスマフォ依存症を合併した症状を持つ人が(ちまた)(あふ)れた。二〇二〇年代はじめに新型コロナウイルス感染症が世界中に猛威をふるい、外出が禁止された時期の状態が日常化したのだ。親子を含む家族内の衝突が増え、親が殺され、子が虐待(ぎゃくたい)される事件が多発した。自分の利益を守り正当化するのに汲々(きゅうきゅう)とする人が増え、職場や学校でもいじめや殺傷事件がふつうになった。さらに禁句が増えて自由な会話が制限され、人々が口にする言葉が空疎(くうそ)になった。

[コロナ後の数年間、官製マスクの着用が義務づけられ、言論封じ込め手段の一つとして日本島の支配層に利用されたことがありますが、それが常態化したのです]

スマフォの普及とともに、旧支配層による無宗教派の取り込みが一気に加速される。二〇年代後半には、旧テレビも旧新聞もスマフォに取って代わられ、これら旧メディアの入っていた高層ビルが無用の長物と化し、ンヴィニ教を含む無宗教派の寺院や教会のセンターに変貌していく。センターの一階に旧コーヒーショップやコンビニに似たスペースがあるのはその名残(なごり)である。

曖昧になった性差

無宗教派の隆盛に伴い司祭の数も増えていた。かつてンヴィニ教の司祭の多くは男性だった。その後、他の無宗教派の人々から批判を受けて女性の司祭を増やし、二〇二五年には男女比がほぼ等しくなる。教義を持たないンヴィニ教では数字が重要な役割を果たすから、女性比率五十%という数字が大事だった。女性司祭が増える前から異教徒の司祭が男女ともに急増していた。二〇年には異教徒を制度内に組み込むが、ンヴィニ教が異教徒に寛容だったわけではない。明文化された教義がないから、外部の圧力が高まって抑えきれなくなると、仕方なしに受け入れるだけである。

[凭也によれば、二〇年のコロナ禍をきっかけに三〇年までに公衆衛生と男女の性意識に大きな変化が生じたようです]

公衆トイレの便器は西洋式で、半個室のブースに一つずつ置かれている。半個室には、壁に沿って並んだ左右のブースのあいだに二メートルほどの高さの間仕切りがあるだけで、天板とドアがない。水槽タンクはなく、ただ便座が置かれている。利用者は、従来型のように壁を背にせず、壁面に向かってブース内の便座にすわる。利用者の背後にドアはなく、人が二人すれ違えるほどの通路があるだけだ。通路側からは利用者の背中とお尻が見える。ほとんどの利用者は壁に向かって手のひらを見つめている。誰かが便座にすわると、そのブースの換気扇とライトが作動する。男性は小用のときも便座に腰をおろすから、男子専用の小便器はない。男女別の公衆トイレは必要なくなったのだ。

[三〇年までに日本島の農業は有機農法に転じ、排泄(はいせつ)された糞尿(ふんにょう)は瞬時に脱水されて粉末状になり堆肥(たいひ)として再処理されたそうです。水洗トイレがなくなり、水槽タンクは無用の長物になったのです。そういえば、都会でも水洗トイレが普及する前は肥溜(こえだ)め式でした。脱水トイレへの移行を促したのは、二〇年末に日本島全域を次々と襲った日本島大震災だったそうです。日本島でも、二十世紀にはトイレも浴場も男女で区分されていました。さらに(さかのぼ)れば、地方の温泉や湯治場(とうじば)などは男女混浴で、十九世紀以前は一般の浴場も混浴だったといわれます。十九世紀後半に入って、異教の教えに押されて混浴が非文明的とされ、しだいに別浴になった、と凭也はいいます。混浴を経験した者が別浴に移行するのはさほどむずかしくないでしょうが、別浴に慣れた者が混浴に戻るのはかなり抵抗があります。二千年代に入って、人々は急速に性的な羞恥(しゅうち)心を失いますが、そんな彼らでも混浴を定着させるのに時間を要し、普及には地域差があったようです。当時は過渡期にあった、と凭也はいいます]

老人たちは毎日、公衆浴場を利用したが、ここの出入りも監視された。だだっ広いところに老若男女が全裸ですわり、体を洗い流して髪を洗っている。小さな浴槽に一緒に入る男女もいる。サバンナで動物の群れが水浴びする光景を想像すればよい。所詮(しょせん)、ヒトも動物なのだ。浴場でも彼らはあまり口をきかない。ときどき子どもの泣き声が響いた。人々は手のひらから解放されたかったのかもしれない。定温・定湿の環境になれた彼らは、高温・多湿の浴場で心地よい刺激を受けた。それ以上に十九世紀への郷愁が強かったに違いない。

[凭也はンヴィーニの恋愛感情についても興味深い観察をしています]

ンヴィーニには、男と女・女と女・男と男のあいだの自由恋愛が許されていた。特異に思われるのは、少なからぬ恋愛が動く寺院のなかで生まれたことだろう。ラッシュ時に、男と女・女と女・男と男が体を密着したときの感触から愛着が生まれる。恋愛感情は視覚からめばえると考える人が多いが、日本島ではそういう恋愛は多くない。一部の昆虫に見られるように、触覚から性愛に移るのだった。触覚から生まれる恋愛感情を信じない人でも、皮膚感覚から性愛を連想することはできるかもしれない。ただ、恋愛感情のめばえたカップルの接触は、あくまで表皮における触れあいであり、すぐ交合に至ることはない。視覚から恋愛感情を抱く人には理解しにくいだろうが、触覚恋愛では接触しているだけで恋愛が完結する。アルゼンチンタンゴを踊っているときの擬似(ぎじ)恋愛に通じるものがある。

[凭也によると、日本島は二十世紀後半を通じて温帯に属していたのに、二〇年代に入って急激に気温と湿度が上昇し、三〇年には亜熱帯性の気候になったといいます]

老人たちは毎日のように近くの寺院センターに通った。そこは外界から遮断され、かつての温帯の環境が保持されていた。問題は、彼らがそれぞれの住居にいるときと、ンヴィニ教寺院や寺院センターに行くために地上の電車や地下鉄の駅構内に入るまでの区間だった。実際、寺院と住居の往き来に疲れ、途中で倒れる人が少なくなかった。行き倒れになると、荼毘(だび)にふされることもなく、河川敷までトラックで運ばれ、川に流される。最も簡素なンヴィニ教の葬儀と同じだった。

潮騒とタンゴ

[老人たちが通う寺院センターに地域住民が利用する広場があり、凭也はよくここにやって来て、大勢で踊りながら時計と反対方向に回るミロンガの輪に入ったといいます]

地上階の出入り口は回転ドアで、ビルの地下二階から地上三階まで五階層が吹き抜けになっている。毎夜、その広場にどこからともなく老人たちが集まり、明けがたまでアルゼンチンタンゴを踊った。ンヴィーニだけでなく異教徒もいた。子どもたちの騒々しい声もなく、人々の会話や電話のやり取りもない空間にタンゴの曲が響きわたる。

[老人たちはまた、ときに無性に海に()がれて海辺に行ったそうです。潮騒(しおさい)を聞き、繰り返し打ち寄せる波を体感しようとして、近くの海岸に行くのです。ある日の明けがた、凭也と老人たちがいた浜辺に、背の低い見覚えのある人たちが大挙して近づいて来ました。彼らは一人また一人と()きおこり、波に乗って押し寄せたのです。みな無表情の笑みを浮かべ、凭也と老人たちをどこかに誘いました。老人たちがそれに応じるのをためらっているあいだに夜が明け、彼らは跡形(あとかた)もなく消え去りました。その日、老人たちはテントに戻っても眠りにつけず、全身が麻痺(まひ)したような感覚に襲われたそうです]

海辺に行った数日後、老人たちは同じフロアの女性司祭たちを誘い、深夜に寺院センターに向かった。午前一時を過ぎ、電車も地下鉄も運転していないが、グローブ駅のドームには煌々(こうこう)と明かりがついていた。ところが、寺院センターのロビーに着くと、彼らがその前に立つだけで開くはずの七十層のドアがびくともしない。一度もなかったことなので、老人は(ばく)とした不安に押しつぶされそうになった。しばらくして、ドームの天井から耳をつんざくような怒声が響いた。それは人の声というより動物の()え声のようで、その不気味(ぶきみ)さが不安をあおり、老人たちと女性司祭たちはいても立ってもいられなかった。

息の詰まるような時間が続いたあと、突然、アルゼンチンタンゴの歌声が大音量で流れてきた。まるで、誰かが上空で歌っているようだった。そのとき、老人たちと司祭たちは寺院センターのロビーにいたはずだが、あるいはグローブ駅のドームだったかもしれない。どちらにせよ、いつもとは違う荘厳なタンゴの曲が響いていた。何度か七十層のドアに向かうが、そのたびに引き戻され、あとずさりさせられた。いくらあがいても近づけない。動転した老人たちと司祭たちは力尽きてロビーの中央で腰をおろしてしまった。まわりを見回すと、ほかにも数百人いや数千人の人々が集まっていた。

そのときだった。凭也の追っていた老人がいつも乗り込んでいた七十層のドア近くが急に暗転し、別のドアが開いて彼らを招くように見えた。ドアはふつうのスライド式ではなく、回転式だった。ロビーの中央にすわり込んでいた人々は、その回転ドアに向かって進み、吸い込まれるようにして次から次へと入って行った。回転ドアが止まると、数千人は()せたであろう巨大なエレベータがゆっくりと静かに地底に降りていった。地底に行った者は二度と地上に戻れないといわれるが、そんなことはどうでもよかった。スライド式であれ回転式であれ、ドアが開けば乗り込むしかない、そんな強制力がロビーに集まった全員に作用したようだ。電車のドアに向かって我先に突進するンヴィーニあるいは異教徒たちの習性がそうさせたのだ。

葬送の回送電車

[ここはどこなのだ。記録係と凭也の境界がぼやけていました。目に見える風景はこれまでと同じなのに何かが違う。音楽もよく聞いたものなのに、どこか不確かで頼りないのです。寺院センターのようであり、グローブ駅のロビーのようでもあります。確かなのは巨大に明るい広場に老人たちが溢れていること、いや、老若男女というべきで、肌の色を異にする異教徒も大勢いる。みな一様に無表情で微笑を浮かべている]

凭也は一人の老人を追い、彼と周囲の人々の行動を観察してきたはずだが、いつのころからか、一人が複数に見え、また一人に戻ることが起きるようになった。この錯覚がしだいに増え、追っていたはずの老人たちを急に見失うこともあり、不安を(つの)らせていた。急にめまいに襲われることもあった。

[同じころ、記録係も似たような症状に悩まされていました。凭也の治療の記録を作成する仕事が以前のようには進まなかった。これまで一人の患者として見ていた凭也に親近感を覚えるようになった。記録係の認知症が進行し、彼を近しく感じたのかもしれません。どこかで何かを失ったようなのに、それが何でいつだったか、どこで起きたのかわからない、そんな状態に陥ることがあったのです]

寺院センターかグローブ駅のロビーでタンゴを夜通し踊るミロンガが開かれていた深夜、回送列車が単線の線路の上をゆっくり動いていた。ヘッドライトに照らされたレールと枕木のあいだに外来種の雑草がおい茂り、線路の両側にゴミが堆積している。運転手は二本のレールに沿って電車を動かし、車掌は誰もいない車内に向かって説教する。漆黒(しっこく)(やみ)のなか、回送電車がゆっくり今にも止まりそうな速度で動いている。

ガッターンドットーン、ドッターンゴットーン、ダッターンゴットーンドットーン、ゴットーンダッターンドットーンガッターン

踏み切りのまん中に立って電車の最後部に光る紅い球状の照明を見ていると、踏切と電車のあいだでンヴィーニと異教徒たちがからみあい(もた)れ合いながら蜃気楼(しんきろう)のように揺れて踊っている。電車の行く手には断崖(だんがい)が迫り、はるか遠くに列車のヘッドライトが照らすトンネルの入り口が小さく見える。レールの先は川のように蛇行(だこう)し下降している。

[何だか変です。凭也ではなく、彼の記憶世界を記録するはずの記録係は、自分がその風景を見ているような気がしています。そんなことが起こるはずはない。この回送電車は回転ドアの向こうにあった数千人乗りのエレベータではないか。だとすれば、乗っていた人々はどこへ行ったのだ。回転ドアを通ってエレベータに乗り込んだ老人たちや若い男女、子どもと司祭たち、同行したはずの凭也はどこに行ったのだろう]

名もない魚の群れ

回送電車の場面から数年後、誰も凭也のことを話さなくなり、彼は忘れられた人になりました。なのに、記録係だけは彼の呪縛(じゅばく)から逃げられなかった。凭也が老人たちの引力に(あらが)えなかったように、彼の強い引力に(とら)われ、身動きが取れないのです。

凭也のテントがあった橋に行っても、二〇二〇年の洪水でテントも家具類も跡形もなく流されていました。彼が通った寺院センターのロビーや寺院に何度となく通いましたが、凭也の痕跡は何一つ残されていない。記録係はンヴィニ教を含むいろいろな無宗教派の寺院や教会で過ごすことが多くなりました。初夏のころ、ある教会のカウンター席でスマホを操作しながらガラス窓越しに外を見ると、強風が渦巻いて街路樹の枝を激しく揺らしていた。上空には黒々とした雲がすさまじい勢いで飛んでいる。何か不吉なことが起きるかもしれない。でも教会にいる限り心配はないはずだった。無宗教派は誰でも受け入れるのだから。

「いらっしゃいませ、ご入会ですか……かしこまりました……以上でよろしいですか……カードで……タッチお願いします……失礼いたします……ご入会は二年ごとに更新されます」

若い女の司祭が、語頭にアクセントのある異教徒らしい抑揚で改宗者を相手に機械的なやり取りを繰り返している。実に無駄のないやり取りだ。ちなみに、入会するかどうか尋ねるのは、見学だけの人々が少なくないからだ。この同じセリフの繰り返しが耳について記録係は耐えられない。

ヒューポーヒューポーヒューポーヒュー、ポヒューポーヒューポヒューポーヒュー、ポーヒューポヒュー

教会を出ようとしてドアに近づくと、一台の救急車が大音量のサイレンを鳴らしながら近づき、敷地内に入って停まった。二人の救急隊員がタンカを下ろしてどこかに消え、しばらくすると、タンカの上に一人の老人を()せて戻ってきた。一瞬、その人に見覚えがあると思ったが、定かでない。タンカに近づこうとしたが、(あお)白い顔色の人が誰かわからない。

教会を出ると、記録係は川沿いの道を歩き始めました。タンカで運ばれていった老人のことを思い出そうとしながら、小一時間歩いた。一休みしようと川辺(かわべ)のベンチに腰をおろし、濁った川面(かわも)を見ているうちに眠りに落ちました。どれくらい経ったのか、(うを)が飛び上がって水面に落ちる音で目がさめたのです。川面を見ると、凭也の顔をした(うを)が無表情の笑いを浮かべている。瞬間、はたと気づいた。タンカで運ばれていった人は彼が追いかけていた老人の一人だった。

凭也は回送電車に乗っていたに違いない。あれはンヴィーニの葬送儀礼だったのだ。彼らはその電車から川に落とされ、(うを)餌食(えじき)になったはずだ。彼がかつて話していたことだが、河葬(かそう)で葬られた人々は(うを)になる、その意味がようやく理解できた。そして、彼が(うを)になったと知るや止めどなく(なみだ)が溢れ、いつしか嗚咽(おえつ)に変わった。

川の(うを)になった凭也はどんな世界に住んでいるのだろう。川のなかは静かだろうか、あるいは騒音に溢れているのだろうか。ヒトの死骸があると(うを)たちがひしめき合って波立つのだろうか。無表情の笑いを(たた)えた彼は、川辺でテント生活をしていたときのように洪水に(おび)えながら生きているのだろうか。記録係は(うを)になった彼を見て、(とが)った顔の表情になぜか安堵(あんど)しました。その日以来、同じ川辺に毎日のように出かけ、ベンチに腰かけて川面を見つめながら過ごすことが多くなりました。

あれほどンヴィーニを嫌っていた凭也は、なぜ執拗に観察を続けたのだろう。ンヴィーニや異教徒たちに囲まれ、怒りながら生きていた彼はいったい何者だったのだろう。(うを)になった彼は川の流れに(あらが)い、あくせく泳いでいるのだろうか。川底でゆっくり休んでいるのだろうか。(うを)になった凭也と次のやりとりをしたように思われますが、定かではありません。

「ねえ君、水中の生活は陰鬱でも不自由でもないよ、君たちの想像をはるかに超えて明るく()んでいる。いろんな方角から多彩な光が差し込んでキラキラ輝いている。水中はいつも滔々(とうとう)とうねってビートを打っている。そんな色と音とうねりに合わせて(うを)たちがアルゼンチンタンゴを舞うんだ。毎晩ミロンガも開かれる。急がなくていいけれど、早くこっちにやって来たまえ」

「そうだね、まだ十年ぐらいこちらにいたいと思うけれど、どうせ僕の希望など聞いてくれないだろうから、すぐに会えるかもしれない」

ヒョーヤー、ヒョオヤー、ヒョーオオヤー、ヒョオオオーヤー、ヒョーオオオーヤー

繰り返し凭也の名前を呼んだ。数百とも数千とも思われる(うを)が数匹あるいは数十匹ずつ(かたまり)になって()み合い、飛び()ね、ぶつかりながら、黒々とした濁流となって、反時計回りに渦巻いている。そんな情景が記録係の頭に浮かんだ。これこそが(うを)たちのタンゴの舞いなのだ。そう確信した瞬間、彼はあっけなく渦巻に()み込まれてしまった。

その後十年ほど()つが、記録係を見たという人の話を聞かない。

わきびとたち

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