小栗山恵琳寺の縁起

小栗山恵琳寺(えりんじ)の草創は遠く西小梛(にしこなぎ)[1]新田および小栗新田[開発]の昔に遡り、西小梛(にしこなぎ)新田は延享2年(1745年)、知多郡(ちたぐん)の人、西村・小栗・梛野(なぎの)の三氏により、面積190町歩(188.4ha)の海面埋立てを[完成]、また小栗新田は文政12年(1829年)知多郡半田(はんだ)町の小栗半七(はんしち)[2]と梛野平兵衛(へいべえ)によって、面積130町歩(128.9ha)の矢作川(やはぎがわ)[3]河口東寄りの海面埋立てを[完成]している。

 恵琳寺は初め□□□の道場であったが、小栗半七の尽力により、一つは干拓による魚介類の犠牲の霊を弔い、一つは新田守護として、入植者の心のよりどころとして寺院設置の要請に応えるため、天保5年(1834年)7月に、真宗大谷派(おおたには)本山より寺号の下付(かふ)を受けている。

 初代の[小栗]了覚(りょうかく)は書画に優れた人で、画号を月庭(げってい)と称している。日清戦争(1894-95年)が終わった翌年の明治29年(1896年)、3代 賢珠(けんじゅ)のとき、間口7間(12.7m)・奥行7間半(13.6m)の伽藍(がらん)再建に着手し、2年後[完成]している。

 しかし、これらの伽藍は、昭和19年(1944年)と20年(1945年)の三河(みかわ)地方の大地震[4]により半壊し、危険な状態に陥ったので、やむなく取壊している。

 朝鮮戦争(1950-53年)さ中の昭和26年(1951年)、豊川(とよかわ)市内にあった軍事工場の女子寄宿舎を譲り受け、西小梛町内の人々の奉仕により、大八車[5]でその資材を運搬し、現在の本堂を[完成]している。

 この本堂が老朽化しているところに、伊勢湾台風[6]の襲来を受け、使用に耐えられなくなった。檀家の人々の支援を受け、原形の屋根部分と内陣(ないじん)[7]部分等を寺院らしく設計変更して、昭和63年(1988年)に改修、竣工[完成]したものが現在の本堂である。

【2003年3月住職の記述をもとに一部加筆(2010年3月)】


[1] 西村・小栗・梛野の頭文字を取って「西小梛」とした。

[2] 号伯圭、1792-1839年。四男に日本画家として知られた岡本亮彦(1823-1883、日本画家の岡本豊彦の養子)

[3] 長野県下伊那郡に源を発し、岐阜県と愛知県を流れて三河湾に流れる一級河川、全長117km

[4] 1944年12月7日の東南海地震(M 8.0)と1945年1月13日の三河大地震(M 7.1)

[5] 江戸時代から使われている荷物運搬用の木製荷台

[6] 1959年9月、紀伊半島から中部・東北地方を縦断した明治以来、最大の台風。死者・行方不明者を合わせ5,000人を超す、戦後最大級の被害をもたらした。

[7] 本堂内のご本尊を安置する場所

Shaws and Goolees

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