小栗忠順1827-68

小栗忠順ただまさ(1827-68)は、父・忠高と母・邦子の長男、そして小栗家12代目として、文政10(1827)年、江戸神田駿河台(現在の千代田区神田駿河台)で生まれました。小栗家の当主は代々「又一またいち」を名乗りました。これは徳川家康に仕えた4代目の忠政がやりで家康を救い、家康は忠政に褒美ほうびとして槍を与え、その後の戦いでも「又も一番槍は忠政」と評判がたち、家康が「今後は又一を名乗るように」と命じたことから「又一」の名が受け継がれるようになりました。

小栗は9歳(年齢は数え年)の時から、小栗家の敷地内にあった儒学者安積艮斎あさか ごんさいの塾へ入っています。この安積あさかの塾には咸臨丸かんりんまるでアメリカに渡った木村 喜毅よしたけ (芥舟かいしゅう)、三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎らとともに小栗の生涯を通しての友人であり、協力者であった喜多村瀬兵衛(後の栗本鋤雲くりもと じょうん)がいました。小栗はこの塾に通いながら剣術や柔術、砲術も学んでいます。小柄であり、そう丈夫ではありませんでしたが負けん気と、好奇心は人一倍強く、くどくどと言うことは嫌いな江戸っ子的な面も持っていました。

天保14(1843)年3月、17歳の小栗は初めて江戸城へ登城し、御目見おめみえ(将軍に拝謁はいえつすること)し、その後、学芸と武術に秀でているとのことで、将軍の護衛役になりました。その数年後、小栗は建部たけべ家の長女・道子と結婚をしています。小栗22歳、道子15歳のころといわれており、初々しいカップルの誕生でした。そして、嘉永6(1853)年にペリーが来航し、わが国が開国の道を歩み始めると、小栗の獅子奮迅ししふんじんの活躍が始まります。

小栗の登場

ペリーやロシアのプチャーチンの来航が和親条約を結ぶかたちで一段落した、安政2(1855)年7月29歳の時、父・忠高が新潟奉行として赴任中に病死をしたため、小栗が12代目として家督を相続しました。安政5(1858)年6月、勅許を得ぬまま大老井伊掃部頭かもんのかみ 直弼なおすけによって「日米修好通商条約」が調印されました。この調印には幕府内部でも賛否両論がありましたが、小栗は一貫して「貿易というものは、座って待っているものではない。自ら進んで海外に出て通商貿易をやるべきだ」との考えを持っていました。

また、幕府内部の条約慎重派の人々に対しては「国の政治を預かるものは、徳川家よりも国家を重視する決心を持つべきである」と考えていました。そして、翌年この通商条約の批准書の交換がアメリカで行われることになり、幕府はその使節団を送り込むことになりました。当初、幕府が決めていた人たちがさまざまな理由で行かれなくなり、9月になって正使・新見しんみ 豊前守ぶぜんのかみ 正興まさおき、副使村垣むらがき 淡路守あわじのかみ 範正のりまさ、目付・小栗忠順と決まりました。

新見や村垣はすでに幕府の要職にありましたが、小栗は大抜擢ばってきといってよいでしょう。小栗はこの拝命の前日に幕府の目付に任命され、さらにこの年の11月に豊後守ぶんごのかみじょせられました。なぜ、小栗が選出されたのか明確な答えは得られませんが、知的能力が高く、論理的であり、正義感が強く感受性に富んでいることや、先にあげた小栗の貿易に対する考え方などが、井伊いい大老の耳に入り、抜擢されたものと思われます。

この大抜擢の陰で、小栗には一つの大きな密命が課せられました。それは通貨の交換比率の不公平を是正することでした。当時、「日米修好通商条約」により諸外国の貨幣は日本の貨幣と「同種同量」をもって通用すると決められ、例えば「1メキシコドル銀貨=1分銀3枚」という交換比率でした。ところが、金と銀の交換比率は、海外では金の価値が日本よりも3倍も高いものでした。この比価の違いが日本からの金(金貨)の大量流失を招いていたのでした。

この金流失の背景には日本側の事情がありました。1両の4分の1貨幣として1分金がありましたが、当時、金の生産量が少なくなってきたため、新たに1分銀という貨幣をつくり、これを1分金貨幣として流通させていました。つまり、1両(金貨)は1分銀(銀貨)4枚と等価としたのです。

例えば、1メキシコドル銀貨100枚を持ってきて、1分銀300枚と交換します。これを小判(金貨)に替えると75両になります。この小判を持ち帰って再びメキシコドル銀貨に替えると、1ドル銀貨300枚と交換できることになり、いとも簡単に最初の100ドルを300ドルに増やすことができたのでした。小栗は、フィラデルフィアの造幣局の一室で、日米の貨幣の金含有量をそろばんと天秤ばかりで瞬く間に計算し、周囲を驚かせるとともに、こうした不公平さをアメリカ側に納得させたのでした。これで小栗のアメリカ側の評価が一躍高まります。それまでの目付を直訳した「スパイ」から、小柄ではあるが威厳と知性と信念が不思議に混ざっている男として、また「NOえる人として見直されたのでした。このアメリカでの見聞が、後の小栗の行動に大きな影響を与えます。

勘定奉行の小栗

約9ヵ月のアメリカ、いや世界一周に近い大旅行から帰ってきた小栗を待っていたのは、大きく変わり始めていた国内情勢でした。万延元(1860)年11月に外国奉行に就任し、その直後の12月にアメリカ公使館のヒュースケンが薩摩藩士に殺害されました。さらに文久元(1861)年3月、ロシア軍艦が対馬を占拠しました。報告を受けた幕府は、外国奉行の小栗を対馬へ派遣して問題解決を図ろうとしましたが、ロシアを退去させることには失敗します。

このことで外交の難しさと幕府の無策さを知った小栗は、外国奉行の辞任を申し出ます。この事件を通して、小栗は幕府の経済力と軍事力の弱さを痛感し、これがやがて横須賀製鉄所の建設を決意する糸口となったのです。翌年3月には御小姓組おこしょうぐみ 番頭ばんかしら(今で言う秘書兼警護人)を命ぜられ、5月には軍政御用取調ごよう とりしらべ(今で言う防衛担当)、6月には勘定奉行に任ぜられ、上野介こうずけのすけと改めています。小栗36歳の時です。勘定奉行とは幕府の財政担当であり、この時代、外交と財政が幕府にとって最も頭の痛い問題でした。小栗はこの勘定奉行にいたりめたりを繰り返し、慶応4(1868)年1月に罷免ひめんされるまでに4度も勤めています。このことから小栗がいかに財政問題に精通していたかが分かります。

横須賀製鉄所の建設

元治元(1864)年8月、小栗は再び勘定奉行になりました。そのころ幕府軍艦の翔鶴丸しょうかくまるが破損し、その修理をたまたま横浜に寄港していたフランス軍艦に頼み、この修理が完璧であったことから、フランスは幕府の信頼を得ることができました。しかもこの修理について、幕府とフランスとの橋渡しをしたのが、小栗が最も信頼していた友人の栗本鋤雲じょうんでした。小栗は、本格的な造船所と修理施設の建設を念願していましたが、頼りにしていたアメリカは南北戦争の最中で、日本へ技術援助をする余裕がありませんでした。

といってイギリスは薩摩藩、長州藩に接近していて、アヘン戦争のこともあるので避けたい。またロシアは対馬でのにがい思いがあり、これも技術援助を頼むことができないでいました。こうした状況の時に、フランスとの交渉を信頼できる友と共にできることになり、喜んだ小栗は、早速駐日フランス公使ロッシュを訪ねました。ロッシュにしても日本の公使に任命された時に、東洋進出が遅れていたフランスの地位を取り戻すように命令されていました。

両者の思惑が一致しているので、話はとんとん拍子に進み、11月小栗とロッシュによって、製鉄所(明治4年横須賀造船所に改称)の首長の件が話し合われました。この会談の結果、中国の上海にいた技師ヴェルニーに正式依頼することとし、建設予定地には万延元(1860)年以来、製鉄所が開設されるまで複数の外国船修理の実績を持つ横須賀村が、水深や石造りのドライドックを据えられる岩盤の硬さ、さらに地形がフランスを代表する港ツーロンに似ていることなどから第一候補になりました。元治2(1865)年正月、来日したヴェルニーは横須賀港を測量し、ロッシュへ横須賀製鉄所建設に関する報告をすると、ロッシュと幕府の間で正式に建設計画が承認されました。

小栗の製鉄所建設は幕府内外から批判をびましたが、小栗はそのような雑説には一切耳を貸さず、「どうしても必要な造船所を造ると言えば、冗費を削る口実となってよい。横須賀製鉄所ができれば、幕府がほかに政権を譲ることになっても、土蔵付きの売家として渡すぐらい価値あるものとなり、名誉なことである」と語ったといいます。小栗は、政権がどのように変わろうとも、この造船所が日本の近代化に大きな役割を果たすであろうと確信していたのでした。

横須賀製鉄所、新政府の手に

慶応4(1868)年閏4月1日、江戸幕府が本格的な洋式造船施設として設立した横須賀製鉄所が新政府に引き継がれました。この年の1月に京都の鳥羽・伏見口で始まった「戊辰ぼしん戦争」と呼ばれる戦いでは、新政府軍が幕府軍を圧倒していました。こうした状況下でもフランス人の指導のもと、着実に製鉄所建設の工事は続けられました。江戸へ進駐した新政府軍によって、前月の4月21日、神奈川裁判所総督になった東久世通禧ひがしくぜ みちとみと横須賀製鉄所奉行の一色直温いっしき なおあつらとの引き渡し交渉が行われました。

さらに24日には、フランス人の取り扱いについてフランス公使との協議も終わり、横須賀製鉄所に勤めていた首長ヴェルニーら33名と横浜製鉄所の12名は、そのまま新政府が行う造船施設に勤務することになり、工事途中のドックや船台も引き続き工事を行うことになりました。閏4月6日、上野国群馬郡権田村(現在の高崎市倉渕町)を流れる烏川からすがわの水沼河原で、罪もない一人の武士が斬首ざんしゅされました。この人物こそ、横須賀に造船所を建設することを決定した小栗上野介こうずけのすけ忠順ただまさでした。

小栗はこの戦争が始まると新政府軍との徹底抗戦を主張し、15代将軍・慶喜に「御役御免おやくごめん」を言い渡されます。このため、領地である権田村へ妻子や、供の侍たちと帰農していましたが、新政府軍に捕らえられ、審判もないままに処刑されたのです。享年42歳でした。

小栗の功績

小栗は横須賀製鉄所のほかにも、鉄道建設(江戸~横浜間)、国立銀行、電信・郵便制度、郡県制度の創設や、また商工会議所や株式会社組織など近代的な経営方法をも発案していました。これらは明治以降、新政府の手で次々に実現され、急速に近代国家としての形を整えていきましたが、その陰には小栗が旧弊を打破し、近代国家に向けて推進しようとしていたことが、浸透し始めていたことを忘れてはなりません。

小栗の尽力によって建設された横須賀製鉄所は、造船や船の修理分野ばかりでなく、さまざまな分野でかかわっていきます。日本初の洋式灯台である観音埼灯台の建設や、幕末に閉山同様になっていた生野いくの銀山(兵庫県)に製作した採鉱機械や蒸気機関などを送り、見事に再生させました。また、生糸生産の近代化を推進した官営富岡製糸工場(群馬県)の基本設計・機械類の製作や、綿糸生産のための官営愛知紡績所のタービン水車も横須賀製でした。このように、わが国の近代工業の発展と近代化の推進に必要な輸出産業育成に、横須賀製鉄所が果たした役割の大きさは、計り知れないものがありました。

明治・大正の政界・言論界の重鎮であった大隈重信は、後年「小栗上野介は謀殺される運命にあった。なぜなら、明治政府の近代化政策は、そっくり小栗のそれを模倣したものだから」と語ったといわれています。現代にも通じるものがある激動期の幕末に、類まれなる先見性と行政手腕を発揮した小栗の功績は、近年あらためて見直されています。横須賀市では、毎年式典を開催し、小栗の功績をたたえています。

ペリリンとオグリン
ペリー来航150周年を迎えた2003年にスタートしたのが「よこすか開国祭」です。毎年夏に「開国のまち横須賀」を代表するイベントとして開国花火大会などを開催しています。「ペリリンとオグリン」は、よこすか開国祭イメージキャラクターで、日本を開国に導いたペリー提督と横須賀の発展に貢献した小栗上野介の両雄が、小栗上野介の直系子孫にあたる漫画家小栗かずまたさんの手によって可愛らしいキャラクターとして誕生し、多くの人に親しまれています。
資料: 小栗上野介と横須賀

Shaws and Goolees

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