執筆中

日本という「無宗教社会」にすみながら何かのきっかけでその「無宗教性」に気づき、それにあらがって生きる人々がいる。筆者もその一人だが、その気づきゆえに無器用ぶきようとなり周囲と摩擦を生じ何かと不自由なことが多い。경호ギョンホ、その母親、경호ギョンホと同棲する미연ミヨンほかを通じて、彼らが「無宗教社会」で生きる姿と彼らに共通するものを描こうとした。

「경호の眷属」として書き始めたものを「無宗教社会を生きる」と改題しました。七月下旬になっても執筆中です。ご了承ください。

一 無宗教社会のなかで

一九五〇年代後半から六〇年代にかけて創価学会は全国的に折伏しゃくぶくという名の布教活動をくり広げた。その宗教運動は既存の仏教各派や神道キリスト教等を邪宗として一蹴いっしゅうした。人々は創価学会を略して「学会」と呼び、会員を「学会員」と呼んでみ嫌ったが、その実像を理解している人は少ない。その宗教運動に驚き戸惑った人々は「学会」をまわしい団体とし「貧乏人と病人の集団」と呼んでさげすみ排斥した。この大衆運動の勢いを恐れ、統率のとれた会員の活動をみて全体主義と評する者すらいた。

国家神道等に対する反動からだろう、「無宗教」であることがよしとされ普通とされる戦後の日本社会において、神社での祈祷きとうは「信仰」とは違うとされ、正月にはみな神社に参詣する。また、葬儀や法事には僧侶に読経どきょうしてもらい念仏をとなえることが死者に対するとむらいであり儀礼とされる。いずれも「信仰」とは異なるものとして扱われるのだ。筆者は、仮説として現代日本社会を「無宗教社会」と呼ぶ。この作品もその仮説を前提している。

「無宗教社会」では、何かを「信じる」者は非科学的だとされ、「信仰」を持つ者は弱者としてうとんじられる。「信仰」を説き、宗教団体に勧誘する者はうさん臭いものになってしまう。思想と情報の統制下に置かれ考える習慣を持たない人々は自ら思考する力を失っていた。その状況は戦後八十年がとうとする現在も大きく変わってはいない。そんな人々の思考と信仰の真空域に「学会」が現れたのである。

「学会員」となることは「信仰」を持つことを宣言するだけではない。人々が習俗として取り込んできた既存の神仏を否定する。それを知りながら、경호ギョンホの母は「学会員」になった。周囲の人々にあなどられ陰口かげぐちをたたかれ、夫に嫌われながらも「学会員」になる選択をした。なぜだろう、何が彼女を宗教運動におもむかせたのだろうか。この小説を通じて考えてみたいと思う。

法華経の生命論

一九五九年四月二日、경호の母は日蓮正宗の寺院でご授戒を受け創価学会の一員になった。四歳になる경호の妹もご授戒を受けた。その日はちょうど一年前に他界した創価学会第二代会長、戸田城聖(一九〇〇-一九五八年)の命日だった。경호の母は戸田の死の前年に初めて彼の講義を聞き、聴衆を笑いに包みながら法華経ほけきょうの世界に引き込んでいく話術にすっかりせられてしまった。一九五七年の戸田による「原水爆禁止宣言[notes …核あるいは原子爆弾の実験禁止運動がいま世界に起こっているが、私はその奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う…われわれ世界の民衆は生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものはこれ魔ものでありサタンであり怪物であります…(この)思想を全世界に広めることこそ全日本青年男女の使命であると信じるものであります。(1957年9月8日横浜三ツ沢競技場にて)]」の直後だったと思う。경호ギョンホはレコード盤でその肉声を聴いたことがある。原水爆をサタンの所業とし絶対悪として否定している。

戸田は法華経ほけきょうの説く生命論を獄中でさとったという。一九四三年夏に牧口常三郎(一八七一-一九四四年)とともに治安維持法違反と不敬罪を理由に捕縛ほばくされ、一九四五年夏まで投獄されていた。その独房の模型が韓国서울ソウルにある韓国SGIの施設に展示されている。경호は母を連れて訪ねたことがある。

地獄じごく餓鬼がき畜生ちくしょう修羅しゅらにんてんの六界は、仏教の絵図にあるような空想の死後の世界ではないのです。時々刻々じじこくこく変化してやまないみなさん自身の心の状態を説いている。六界が自然状態だとすれば、他の四界は学習や修行を経て獲得する境地で、みなさんはあまり縁がないかもしれません。声聞しょうもん縁覚えんかく菩薩ぼさつほとけないし仏界ぶっかいといいます。合わせて十界となり、それぞれの界をさらに十界に分けて百界とします。たとえば、人界の地獄界や人界の修羅界、畜生界の畜生界や畜生界の天界など、瞬間ごとに百界の生命状態のいずれかにある。一瞬一瞬の状態でとどまっていない、とらえどころがないのです。

みなさんが夫婦喧嘩げんかをしているときは修羅界の地獄界で、病気で苦しんでいるときは地獄界、おなかをすかしているときは餓鬼界、子どもが病気で苦しんでいると親は何とかしてあげたいと思う、慈悲の心は菩薩界です。そして、みなさんのように世のため人のために仏法を広めるのは菩薩界です。みすぼらしい菩薩が多いけれども、みなさんは正真正銘しょうしんしょうめいの立派な菩薩なのです。

戸田が卑近な例えで、誰にもわかりやすく説明する。경호の母も他の人々と同じように笑いながらうなづき、身を乗り出して聞いていた。戸田の落語家のような話はとにかくおもしろい。聴衆の笑いがえなかった。「先生は講義中きっと水に見せかけてお酒をんでいたわ。とにかく落語よりおもしろいの」。いつも自慢げにうれしそうに話してくれた。下町の長屋で九人兄妹きょうだいの末っ子としてのびのびと育った彼女は、何でも思ったことをそのまま言葉にした。

下町に育った경호の母

경호ギョンホの母は東京の下町で育った。そこは東京でもっとも「学会員」が多い地域だった。母は入会以前にも「学会」の集会に参加していた。そこに集まってくる人々は生活臭をぷんぷんとさせ、どこか彼女が育った長屋の人たちと同じ匂いがした。

長屋にはいろんな人が出入りした。경호の記憶ではいつも酒を呑んでいて赤ら顔をしている十郎じゅうろうおじさんもその一人だった。禿頭はげあたまの左耳の上がくぼんでいるが、そこを指さしては戦争中支那しなで弾丸が鉄かぶとを破ってかぶとの中をぐるぐる回って出ていった、そのときの名誉の傷だと話した。

경호の母は東京空襲[notes 1944年11月24日から翌年8月15日まで東京は百回を超す米軍の空襲を受けた。45年3月10日、4月13・15日、5月24・25-26日はとくに大規模で3月10日夜の下町空襲だけで死者十万人、罹災者百万人を超えたという。(c)Wikipedia]のとき防空壕の外へ出て、ものほし場で真っ赤に燃える空と後楽園から打ち上がる高射砲こうしゃほう閃光せんこうをじっと見ていたという。しみじみとなつかしむように言うことがあった。「ほんとうに空一面真っできれいだった。飛行機が上空を通過したら爆弾は落ちてこないのよ」と。父親にしかられるまで外にいたという。自分がいいと思ったら何があっても動かない、そういう性格であった。

경호が八歳のときだった。ある晩、彼女は田端たばた駅近くで戸田の講義を聞いた。帰途も気持ちが高ぶっていたのだろう、国電を乗り継いで帰るのに新宿駅で乗り過ごし、山手線を時計と反対周りにしばらく回ってしまった。このため予定より一時間ほど遅く帰宅したが、夜道を歩いていても頭のなかはすっきりしていて心地よく軽やかな快さにはずんでいた。社宅の木戸をそおっと開き、玄関に続く石畳を踏みはずさないように注意しながら進むと、玄関の真鍮しんちゅうのノブをいつものように回した。

だが、左に回しても右に回してもドアは開かない。がたがたと音を立てて揺れるだけだった。家のなかは静かだったから、子どもたちが間違って鍵をかけたのだろうと思って庭のほうに回り、縁側に上がって靴をぬぎ、ガラス戸を開けた瞬間、仁王におう立ちになった夫のこぶし顔面がんめんめがけて襲ってきた。ガラス戸につかまって、かろうじて倒れないでいたが、何が起こったのかわからない。

しばらく経つと、となりの部屋で子どもたちが嗚咽おえつしている。そこに夫の罵声ばせいが響く。彼女はぎっと歯を食いしばったまま無言むごんでいた。いつもはこの時間に家にいないはずの夫が暗い部屋のなかに立っている。しばらくにらみ合う格好になったが、子どもたちの泣き声に引き寄せられ、彼女は隣りの部屋に入って立てこもった。さえ切った頭のなかで「地獄・餓鬼・畜生・修羅・修羅・修羅」「じごく・がき・ちくしょう・しゅら・しゅら・しゅら」という声が繰り返し響いていた。

父親を追い求めた경호の父

경호ギョンホの父は、十歳のときに父親をうしなった。建設現場での事故だったと聞かされた。愛知県にある경호の父方の実家は浄土真宗大谷派の寺で、くなった祖父がぐべきだったところ、僧職につくのがいやで大手ゼネコンに入り、満州に単身赴任中事故にったという。경호の祖母はよく「馬賊ばぞくに殺された」と言っていた。その祖母も亡くなって十年ほどがつ。

경호ギョンホの父はまだ少年で何もわからないまま東本願寺で一ヵ月ほど研修を受け、亡くなった父親の代わりに僧職についた。だが、一九四一年、十七歳のときに父親のあとを追うようにして、満州の新京(現・長春)に向かった。何としても寺から脱け出したかったのだ。新京にあった建國けんこく大學で三年、当時理想とされた「五族協和」の学生たちと寮生活を送った。五族とは日本・朝鮮・漢・満州・モンゴルの五つをいう。その後、学徒出陣で海軍配属となり、横須賀の訓練所で敗戦の知らせを聞いた。だから、実戦の体験はない。

こういう経歴を持つ경호ギョンホの父は宗教に対し特異で確固とした思いを持っていた。家庭の事情で仕方なくいだとはいえ、尋常高等小学校と中学校の七年ほど僧職にあり、念仏を唱えることがいつしか身体からだの一部になっていた。そして、僧侶たちの権威主義や檀家の人々の僧侶に対する接し方を知り、宗教に対する反感も抱いたようだ。戦後に唯物ゆいぶつ思想の洗礼を受け、宗教は阿片あへんであり下部構造の経済こそが重要だと考えていた。明らかに宗教を否定していたのだ。

경호ギョンホの母は小石川の花屋の末娘として生まれ、傳通院でんずういん近くの高等女学校を卒業した。その学校の設立者は浄土宗の尼僧にそうだったが、경호の母は信仰上の感化を受けなかったようだ。戦後まもなく霞が関の特許庁に勤めた。実家から都電を乗り継いで通勤できた。彼女は庁内の社交ダンス部に属す快活な女性だった。将来の夫となる경호の父は、戦後、特許庁の守衛を勤めながら大学に通い、一九五〇年に卒業する。その前年に二人は結婚し、母の実家に近い本郷にある安アパートに住んでいた。

경호が小学生だったころ、毎年夏になると母の実家の花屋にまり、翌朝早く商店街の人々と一緒に団体バスに乗って海水浴に行った。경호は、実家近くの菎蒻閻魔こんにゃくえんまの縁日で祖父が買ってくれた水飴みずあめの味を甘く記憶している。

若い경호ギョンホの父は、守衛室のなかから경호の母になる女性の通勤姿を見て思いを募らせた。경호が少年だったとき、赤い罫線けいせんの入った特許庁の便せんに書かれたラブレターの束を読んだことがある。マルクス経済学徒らしい弁証法的恋愛スパイラルという図入りの手紙があった。ただ、彼には愛知県に親と親戚が取り決めた婚約者がいた。

一九四七年の二・一ゼネストに参加し、共産党員となった경호の父は大学を卒業する直前に愛知県に帰り、相手の女性と親たちに会って婚約解消を願い出ている。婚約破棄の理由は党員ということだった。何を尋ねられても、それ以外は話さず最後まで無言を通した。

경호ギョンホが生まれたのは本郷にあった実費病院と呼ばれる診療所だった。一九五〇年二月、경호の父の卒業試験のまっただ中だった。大学卒業のとき授業料を滞納していた苦学生は、持っていた本をリヤカーに積んで本郷の古本屋に売りに行き、その代金と守衛の給与で授業料を払った。水道橋駅近くにあった会社に入社するが、直後に朝鮮戦争特需で活況を呈した鉱業部門が独立し、その会社が東京駅近くに本社屋を構えるようになる。一九六〇年ごろ会社労組の委員長を務めていた。경호の家族もメーデーのデモに参加している。

一九五〇年の後半だったろう、父の転勤に伴い、경호の家族は岡山県の中国山系にある鉱山町に引越した。その鉱山町で五十年代前半を過ごしたはずだが、경호にはこの時期の記憶がまったくない。東京で生まれ育った경호の母は、電気もガスもない山奥に連れてこられ、毎夜、赤子を抱いてなみだを流したという。경호の父は妻が実家に近づくことを好まないようだったし、それを拒絶するところがあった。そこが母にとっていかに大事なり所だったか理解できなかった。父自らが実家を捨てた人だったからだ。

경호の父と恵琳寺えりんじ

경호ギョンホの父が少年時代に僧籍を置いた寺は小栗山恵琳寺えりんじという。その草創は遠く西小梛にしこなぎ[notes 西村・小栗・梛野の頭文字を取って「西小梛」とした。]新田と小栗新田が開発された十八-十九世紀にさかのぼる。西小梛にしこなぎ新田は延享二(一七四五)年に知多郡ちたぐんの西村・小栗・梛野なぎのの三氏が百九十町歩(百八十八・四ha)の海面を埋め立てたものだ。小栗新田は文政十二(一八二九)年に知多郡半田はんだ町の小栗半七はんしち[notes 号伯圭、1792-1839年。四男に日本画家として知られた岡本亮彦(1823-1883)、日本画家の岡本豊彦の養子]と梛野平兵衛へいべえ矢作川やはぎがわ[notes 長野県下伊那郡に源を発し、岐阜県と愛知県を流れて三河湾に流れる一級河川、全長117km]河口の東寄り海面を埋め立てたもので、百三十町歩(百二十八・九ha)ある。

恵琳寺はもと念仏道場だった。干拓の犠牲になった魚介類の霊をとむらい、新田の守護として入植者の心のよりどころとなる寺院を求める人々の思いを受け、小栗半七の尽力により天保五(一八三四)年に真宗大谷派おおたには本山より寺号が下付かふされたという。初代小栗了覚りょうかくは書画に優れた人で画号を月庭げっていと称した。明治二十九(一八九六)年、三代賢珠けんじゅのとき間口七間(十二・七m)・奥行七間半(十三・六m)の伽藍がらん再建に着手し、二年後に完成した。

これらの伽藍は昭和十九(一九四四)年と二十(一九四五)年の三河みかわ地方の大地震[notes 1944年12月7日の東南海地震(M8.0)と1945年1月13日の三河大地震(M7.1)]により半壊したため、やむなく取り壊された。朝鮮戦争勃発の翌年、昭和二十六(一九五一)年には豊川とよかわ市にあった軍事工場の女子寄宿舎を譲り受けた。西小梛町の人々の奉仕により大八車[notes 江戸時代から使われている荷物運搬用の木製荷台]でその資材を運搬し、現在の本堂の前身を完成した。

この本堂が老朽化していたところに伊勢湾台風[notes 1959年9月、紀伊半島から中部・東北地方を縦断した明治以来、最大の台風。死者・行方不明者を合わせ5,000人を超す、戦後最大級の被害をもたらした。]の襲撃を受け、使用に耐えられなくなった。檀家の人々の支援を受け、原形の屋根部分と内陣ないじん部分[notes 本堂内のご本尊を安置する場所]等を設計変更し、昭和六十三(一九八八)年に改修し竣工したものが現在の本堂である[notes 2003年3月恵琳寺住職の小栗信氏の記述を一部編集した。]。

경호ギョンホの父が僧侶だった一九三〇年代前半を辿たどろうとして、愛知県西尾市にある恵琳寺えりんじの沿革を引用した。少年僧が何を思い、周囲の人々が彼をどのようにぐうしたか想像するためである。경호の父も祖父も実家との関係が疎遠だった。家族や親族との関係もきわめて稀薄だったと言わざるを得ない。

경호の母方の祖父

色黒でしわだらけの경호ギョンホの祖父は日清戦争さなかの一八九五年に朝鮮の南端부산ブサンで生まれた。一九二〇年ごろ日本に渡り、しばらく九州の炭鉱で働いたが、事故で左脚をいためて重労働はできなくなった。その後大阪に移って職を転々とするが何もうまくいかず、最後は東京下町で的屋てきやの仕事をしていた。同じ長屋住まいの植木職人と親しくなってその人の長女と結婚し、その実家の後押しを得て、戦後小石川で生花店を営むことになった。

当時、多くの家がそうだったように、경호ギョンホの祖父母のあいだには九人の子どもがいた。戦死した一人と戦後シベリアに抑留された一人を除いても七人いたから、その子らを育てるだけで精一杯の暮らしだった。경호ギョンホの母とシベリア抑留組の次男の二人が女学校と高等師範学校に進んだだけで、あとはみな尋常高等小学校より上の教育を受けることがなかった。祖父の경호ギョンホの母に対する思いは格別だったのである。

경호ギョンホもまた、祖父の性向を受け継いでいた。朝鮮語の初歩を教えたのは祖父だったし、日本語の読み書きの手ほどきも祖父から受けた部分が少なくなかった。경호の母語ぼごは日本語だが、祖父の母語は朝鮮語だった。そのことが彼の人格形成に大きな影響を及ぼしたことは間違いないが、경호がそれに気づいたのはずっと後のことだ。母が学会員になったことの影響が圧倒的に大きいと思っていたからである。あるいはまた、父親の生き方に大きく振り回されたとも考えていた。

二 경호の育った家庭と時代

父の異動に伴い、경호ギョンホの家族は東京杉並にある社宅に引っ越した。同じ会社に勤める者たち家族の集合住宅で、各戸庭付きで六十坪ほどある平屋だった。경호は家から十分ほど坂道を登ったところにある幼稚園に通った。帰り道、晴れた日には坂の上から遠くに富士山が見えた。坂道の片側に畑が広がり、その奥に屋敷森のような雑木林があった。

一九五六年、少年경호は社宅のすぐ近くにあった小学校に入学する。教室ではおとなしいが落ち着きのない生徒だった。腸が弱い彼はよく下痢をした。五歳まで山のなかで育ったせいだろう、近くの原っぱや少し遠くにあった池で暗くなるまで遊んだ。長屋育ちで世話好きの母はいつも学年のPTA役員を務めていた。

경호の祖父がよく泊まりがけでやってきた。生花店を経営していた祖父は商店会の会長を務めていた。毎夏、商店会や長屋の人たちと一緒に団体バスで江ノ島へ連れていってもらった。ある夏、海の家で昼飯をとったあと、경호は若者たちについてずっと沖のほうまで行き、二時間以上浜辺に戻らなかった。彼が見えなくなってしばらくすると、母は心配でいてもたってもいられなくなった。悪いことに경호と一緒に出かけた若者の一部が浜辺に戻り、彼がいないことに驚いたのだ。

경호がおぼれたと思い込んだ母は力なく砂の上に尻をつき、しきりに「惜しいことをした、おしいことをした」と嘆き悲しんだ。救助隊にも捜索を頼んだ。そんなことになっているとはつゆ知らず、경호は沖合いの岩場で遊んでいた。浜辺に戻ると、母がなみだを流していた。あのとき、母のなかで경호は一度死んでいた。

경호が母から受け継いだであろう普通の人々に対して感じる距離感、決められた枠組みのなかで他の人たちと同じように行動することに対する違和感がある。たとえば、鉱山町の人々と同じように暮らし、社宅内で半ば決められた日常会話を交わす、そういう生活に母はどこか息苦しさを感じたようだ。何かを憧憬しょうけいしてやまない性向を、경호は確実に母親から受け継いでいた。

一九五九年の冬

一九五九年の二月、東京は雪の降る日が多く三十cm以上積もることもあった。雪のめずらしい東京郊外では、子どもたちがはしゃいで雪だるまを作り、こおった坂道でそり遊びに興じていた。スキー板とストックを持ち出した若者もいた。

二月初めの日曜、前の晩から降り続いた雪で家々の屋根も道路も白く輝いていた。경호たちが住んでいた杉並の社宅の庭も一面まっ白だった。いつもなら雪合戦の嬌声きょうせいのなかにいる경호は、この日めずらしく家にいた。毎週末、朝暗いうちから接待ゴルフに出かける父親が、雪のため出かけられず家にいたのだ。少し不機嫌そうだった。

久しぶりの家族団らんの昼食が終わり、경호の母が狭い台所で鼻歌を歌いながら洗い物をしていると、突然、父が「うるさい」とどなった。命令調のその言葉に경호の母が何かぶつぶつ言うと、父がさらに不機嫌そうに声を荒げた。「何をぶつぶつ言ってるんだ」。母が黙り込み、二畳ほどの台所とそれに続く六畳の居間に重苦しい沈黙が流れた。それを破ったのは母だった。

「そんな仏頂面ぶっちょうづらで家にいるなら、外で雪かきでもしてちょうだい」「ああ、いやだいやだ。辛気しんきくさい顔をして日曜日を台なしにしないで」。妻から念仏が堕地獄だじごくの原因だと言われた경호の父は驚くあまり、自分のこれまでの半生を否定されたと思い、心底怒りを覚えていた。「念仏無間ねんぶつむげん、念仏を唱える浄土宗や真宗の信者は無間むげん地獄に落ちる…」경호には母が何を言っているのかわからない。

「宗教なんて経済的な基盤があってこそのなぐさみだ、上部構造の最たるものだ」父の言葉もますますわからない。「むずかしいことを言ってもだまされないわ」。경호の母は父の硬化した態度が続くにつれ、どんどん強くなっていた。「ご本尊ご本尊というが、ただの印刷物だ。あんなものに何のご利益があるというんだ」。경호には父の言葉もわからない。「念仏無間ねんぶつむげんぜん天魔てんま、地獄の苦しみ、天魔の所為しょい」。경호にはますますわからない。「いったい、いまの暮らしのどこが不満なんだ。何の不足があるというんだ。僕が給与を渡さなければ、宗教も何もないというのに」

やり取りの意味はわからないが、二人が興奮ぎみで剣呑けんのんな状態にあるのはわかる。こんな状態が数ヵ月続いていた。경호はいつものようにふすまを隔てた隣りの部屋でおびえながら、ようすをうかがっていた。彼のよこに四歳下の妹が寝ていた。めざめたらどうしよう、と不安だった。二人の声がさらに大きくなりののしりあいが続いたあと、突然、何かが柱に当たったような鈍い音がした。

反射的にふすまをこじあけると、父が何かを手に持っていまにも母に襲いかかろうとしている。次の瞬間、경호は音を立てて襖をあけ、とっさに二人のあいだに入り込むと、母の腰のあたりにしがみついた。父の攻撃から母を守るというよりも、恐怖心に圧倒され衝動的に抱きついたのだ。

何かにおびえていた경호

一九五九年の四月、경호の母と妹が学会に入会したあと、両親のいさかいはさらにひどくなった。少年はよくわからないまま父の側につき半年以上母に反抗した。母が学会員だと知るや家族に対する周囲の見方が一変したからだった。경호はそれを察知してとまどい、母が学会員であることを隠そうとして、いつもどこかおびえていた。何も隠す必要などないのに必死に隠そうとした。

両親は顔さえ合わせれば、隣り近所にもかまわず激しくののしりあうようになった。경호はいつもびくびくしていた。平日の昼は父がいないから平穏だが、夜遅く酒気を帯びた父が帰ってくると、口論が始まる。경호はこれが母のいう「ネンブツムゲン」なのだろうか、と思った。内容はよくわからないが、母が何か父が反対することを始めようとしているに違いなかった。父は必死に止めようとしている。ただ、母が何をしようとしているのか、경호にはわからない。だから、よけいに不安だった。母が家から出ていってしまうのではないか。

そんな경호の不安をさらに大きくしたのは、ときどき母が夕方に出かけて、夜遅くまで帰ってこない日だった。以前、そんなことは一度もなかった。母が作っておいてくれたご飯を食べ、誰もいない家にぽつんと取り残される。冬のあいだは夕方になるとまっ暗で、天井からぶら下がった裸電球が異様に明るく輝く。当時、경호の家にはテレビがなかった。古いラジオと蓄音機があったが、使ったことはない。

柱時計のカチカチいう音だけが家のなかに大きく響く。長針が十二時のところに来るたび、その時刻の数だけ低い金属音が鳴る。長針が六時のところに来ると、三十分過ぎを知らせるやや高い金属音が一つ響く。母が帰るといった時刻を過ぎると、時計の音がよけいに大きく聞こえ、경호の頭のなかで響く、いつまでもひびく。それに呼応するかのように、どこかで犬の遠吠えがする。

母が帰ってくると、경호は安心するよりも先に怒りがき上がってくる。そんな僕にかまうようすもなく、母はいつも明るい表情で溌剌はつらつとしていた。何かとても楽しいことをしてきたように明るかった。母はいつも快活で明るかったから、本来の姿に戻っただけなのだが、夫婦喧嘩げんかが常態化しているいま、そんな姿をみせるのはまれだった。경호にはそれが不安でたまらなかった。

平穏を取り戻した家庭

同じ年の十二月だった。경호の家族はそろって鍋屋横丁の寺院に行った。「なんじ護持たてまつるやいなや」という文言を何度か僧侶が唱え、それに呼応して경호は父と一緒に言われたとおり「たてまつるべし」と応じた。ご授戒という儀式だった。はっきり覚えているのは母が満面の笑みを浮かべていたこと、そして帰途ラジオを買ってもらったことだ。

家族四人そろって読経し題目を唱えていると、いつも笑いだしてかき回すのは父だった。わざと間違うというのではないが、よくつかえて笑いだした。それをみて母は真顔で怒るのだが、경호はつられて笑うことがあった。父はこんなことも言った「なむあみだぶつ」より「なむみょうほうれんげきょう」のほうがリズム感があってきしている。あのころ、父はどこまで本気だったのだろうか。少年の경호はそれを知るよしもない。家に笑いが戻ったことに満足していた。

父の思い描いた家庭

一九六〇年五月のメーデーは家族メーデーと呼ばれた。경호の家族がそろって満面の笑みでデモ行進している写真が残っている。当時、労組委員長だった父は家族メーデーを飾るために家族を動員したかったのだ。前年まで家で口論が絶えなかったから、あの日だけは家族でデモに参加したかったのかもしれない。その日くり返し歌った歌がいまも경호の耳の奥に残っている。

「聞け万国の労働者とどろきわたるメーデーの……階級戦は来たりたり」少年は意味もよくわからないまま歌っていた。歌が好きな경호の母も大声で歌っていた。写真の母は愛らしく輝いていた。

前年の十二月、父は学会員になったが、あくまでも形式的な入会でしかなかった。二人が口論するたびに子どもたちが萎縮いしゅくして震えている姿をみて感じるところがあったのだろう。形のうえで入会することにしたのである。この年の十月、社会党党首だった浅沼稲次郎が暗殺された。享年六十一歳だった。경호はその巨漢が刺殺される場面をテレビで繰り返し見て鮮明に記憶している。あのとき、何かの可能性が断たれてしまったのではないか、とさえ思った。

このころから、경호は核戦争の夢をみてうなされるようになった。何かにおびえていたのだ。夜空に流れ星を見ると、核ミサイルだと思って恐れ、毎晩のように核戦争の夢にうなされてはうなり声をあげるた。キューバ危機が勃発したのは一九六二年だった。現代と同じように核戦争がまことしやかに語られていた。

夢のなかでいつも경호は防空壕に逃げ込むのだが、そこでじっとしていることができず、いつか外にでて夜空の星を見ていた。それが不気味にきれいだった。母が話していたまっに染まった東京大空襲のときの空はどんなだったのだろう。核戦争になったら、家も人もみんな跡形あとかたもなく消えてしまうのだ。そんな不安に取りかれていた。

경호の母を折伏したのは、同じ社宅の隣りに住んでいたSさんだ。北関東なまりの抑揚で話す口調が、少年の耳にはっきり残っている。数年後、関連会社に異動となり、飼っていた犬を引っ越し先で飼えないからといって、その犬を경호の家に託していった。子どものいなかったSさんは、경호の妹を我が子のように可愛がった。

妹は体にできものがよくできた。おさな心にそれを苦にしていたようで、Sさんに言われるままにご本尊に向かって題目を唱えるようになった。同じものが家にもほしいと、妹が母にせがんだのが入信のきっかけだったかもしれない。その後、父の執拗な猛反対にっても折れることなく、学会員になろうとして、それを貫き通したのには他の理由があったのかもしれない。母はいつの頃からかタバコを吸うようになった。경호は喫煙する母の姿を好きになれなかった。母ではなく、学会員になった一人の女性に見えたからだろう。その女性は自らの家庭のあり方に疑問を抱いていた。家庭だけではない、自らの生き方そのものに不満を募らせていた。だからこそ、学会の宗教運動というより文化運動に身を投じたのだった。少年の경호にそれを理解できようはずはなかった。

경호が見た母の学会活動

職場では相応に評価され、将来を嘱望されていたであろう경호の父は、人事異動という手段に訴えようと画策を始める。それが実現したのは四年後のことだった。東北地方の北上山系のなかにある鉱山事務所に転勤となる。その数年後、奥羽山脈のなかの鉱山へ、そして本社に戻ることなく中国山系の鉱山へと、地方の山々を転々としている。そこで、閉山に伴う大量の解雇策を実行し、労務管理の実績をあげたあと本社に戻った。この間十年あまり、長い時間を単身赴任で過ごした。その陰に北上山系の鉱山事務所で出会った女性が彼の内縁関係の妻の地位を占めつつあった。少年が二十歳になった冬、父は計画通りに家を出た。そして、二度と戻ることはなかった。

父の仕事の都合で、경호の家族は東北地方の水沢市に引っ越した。家を顧みなくなった父に対峙たいじするかのように信仰を貫く母を目の当たりにして、경호はしだいにその信仰を認めるようになる。東京に戻って大学に入るころから、在日朝鮮人・朝鮮語に引かれ言語・文学を通じた接近を試みる。경호は何かに追い込まれていた。

豆腐屋のIさん、放題ほうだいのひば垣の奥にあった倉庫のような小屋で内職を続けながら話していたSさん、苦学生のGさん、不動産屋のKさん、支部長のHさん、郵便局の官舎に住んでいたTさん家族、屋敷森の奥のFさん、경호は母についてこれらの人たちの家に行き、話しを聞いていたから、家や店の構えとともに記憶している。ほとんど会えなかった人もいる。少年の目にはみすぼらしい身なりの人が多く、粗末な構えの家に住んでいる人が多かった。大きな家に住んでいたのは屋敷森のFさんぐらいだったが、その人に会った記憶はない。母はこれら学会員と親しげに話していた。경호にとって、学会とはこれらの人々のことであり、それ以外の何ものでもなかった。

一時期、경호は、社宅の近所の学会員の家に学会の機関誌を配達していた。友人に見られるのを避けるため、夜遅くか早朝暗いうちに回った。夕方配達しながら、街灯の裸電球をけていくのが楽しかったし、薄明のなか十数mごとに立っている街灯を一つずつ消していくのは違った意味でおもしろかった。どこか自分が時間の移ろいに関わっているような感官を与えてくれたからだ。彼が通ると必ず襲いかからんとするばかりに吠えてくる犬がいた。近所に知られた狂女の住む家の窓にはいつも赤いカーテンが掛かっていた。

경호の初恋

十畳ほどの広さのある倉庫の一角に石炭が積まれていた。경호はその石炭をスコップですくい、近所に住むモンペ姿の彼女が差し出すバケツに入れていった。同じ高校の彼女は学会員であることを隠すことなく、むしろ堂々としていた。もう一人、一学年上の応援団の団長がいた。いつもアメリカンスタイルのモーターバイクに乗っていた。一度、彼らに誘われて盛岡行の列車に同乗したことがある。同じボックスシートに坐っていたが、彼女は団長といかにも楽しそうに話していた。水沢から盛岡までの列車のなか、경호はうつむき加減にしながら二人のようすを観察していた。学会員であることを誇りに感じている二人を見て경호はうらやましかった。自分の信仰にゆるぎない自信をもっているように見える彼らと比べ、鬱々としている自分がみじめに思えた。

경호は自分の祖父が朝鮮人であることも、母が熱心な学会員であることも隠そうとした。それらを明かすことで自分が世間から遠ざけられることを恐れた。

경호の大病 敗血症にかかった경호、一晩中題目を唱えていた母、

경호と母の対立と和解

경호が大学に入った年の夏に彼の両親は離婚した。その年の終わりに彼は本屋の店員になり、収入の一部を母に渡すようにした。大学には数ヵ月通っただけで、ほとんど授業にも出席しなかったから除籍された。

母が離婚した翌年だったろう、경호は母を連れてハワイと米国西海岸に二週間ほどの旅行をした。英語がほとんどできない母がいつになく可愛く見えた。

三 경호が出会った女性たち

경호は二十歳を過ぎると、何かにかわいたように女性を求めた。

アメリカ人女性との同棲

二十五歳のとき、경호は五歳年上のアメリカ人女性 Jennieジェニー と半年ほど同棲どうせいした。ただ、そのことは家族や職場の人々には話さなかった。世間をせまくすることで多少の不便はあったものの、若い二人が孤立して生活するのにさしたる不自由はなかったし、二人とも疎外そがい感を感じていたから、かえって孤立を好んだともいえる。東京の郊外にある三階建てアパートの三階にある二DKの部屋からは、広々とした運動場の向こうに二りょう編成の電車が十分じっぷんおきぐらいに走るのが見えた。都心部の職場周辺では味わえない開放感を満喫まんきつしていた。

当時、二人は渋谷にあるカルチャースクールに勤めていた。경호はその事務員で、ジェニーは英語講師だった。そこに暗黙の職業的な上下関係があると感じるのは下位にいると感じた彼のほうだけだった。彼はスクールの受講生募集から受講料の入金確認、定期試験実施からクラス編成、日常的な受講生の苦情処理、テキスト販売、講師の割り当て、授業資料の作成、出入りの激しい講師のリクルートと利己的な彼らの苦情処理、経営陣との対応など、休むいとまがないほど仕事に追われた。ジェニーはそんな彼に同情を感じるような人ではなかった。ほかの講師たちと同じように彼らのために便利で使いやすければよかった。

カルチャースクールに勤務してすぐ、경호は受講生のなかに気になる女性ができたが、講師に対して恋愛感情を抱くことはなかった。身分の違いと文化圏の違いを不断に感じさせられた。それを如実にょじつに知らされるのは給与の違いだった。講師たちは、拘束時間は短いのに事務員の倍以上の報酬ほうしゅうを得ていることを知るにつけ、えがたい身分差を感じた。では、なぜ경호とジェニーは接近したのか。

それを可能にしたのは、外国人との共生をうたいながら疎外そがい排斥はいせきする日本社会の持つ息苦しさだった。

それは首を締められるようなはとき声を思わせた。경호の耳のなかでこの鳩が鳴き始めると、肉体的な苦しみすら感じた。

グッ、クーグーッククー、クーグーッククー、クーグーッククー、グーックーククー、クーグーッククー、グーックーククー、クッ

ジェニーとは唐突とうとつに別れた。しだいに彼女の傲慢さが鼻を突くようになった。僕に対してある日突然嫌になったらしい。相思相愛の対偶だから、実際そうだったと思う。

ジェニーと知り合う前、경호には好きな日本人女性がいた。彼女は韓国語を学んでいた。食事したりコーヒーショップで長時間話して飽きることがなかった。とはいえ、韓国ドラマもKポップもなかった当時、共通の話題に事欠ことかかなかったわけではない。韓国語を学んでいるというだけで、一種仲間意識のようなものを感じた。ただ、彼女は初めから結婚は日本人とするつもりだと言っていた。伝統的な韓国の親に対する固定イメージもあったようだが、彼女の祖母が在日との結婚には絶対反対だからだと言った。二人が付き合って三ヵ月ほどったころ、彼女が見合いをすると言った。その発言に深い意味があると思わなかった경호は聞き流していた。ところが、あとになって彼女の友人に聞いたところ、彼女は경호への思いをつのらせていたという。その話を聞いて、彼も彼女に対する思いに気づかされたが、すでに彼女は見合い相手と結婚していた。そのことを知った경호は友人を誘って酩酊めいていするまで深酒ふかざけをし大暴おおあばれした。

韓国人女性との出会い

それから一年って、その日本人女性が結婚相手の仕事の関係で서울ソウルに住んでいるといううわさを聞いた。それを聞いてどうなるでもないが、경호は彼女と何度か行ったことのあるコーヒーショップのカウンターに行き物思ものおもいにふけっていた。そこへ미연ミヨンが現れ、彼の肩をいきなり強くたたいた。驚いた彼は不快だったし、憮然ぶぜんとしていた。横ならびにすわった二人は、それ以前ほとんど個人的な会話をしたことがないから、仕事の話をするしかない。愚痴ぐちっぽい話になりがちだった。会話がはずまなかったせいだろう、경호は彼女が発する独特のにおいにっていたかもしれない。

二人は미연が住んでいた荻窪まで行き、駅の階段をのぼって地上に出ると、彼女のアパートの方角に向かって歩き始めた。夏の終わりだったろう、歩きながらあせに混ざって発せられる彼女の匂いがますます強くなったように感じた。十分じっぷんほどすると、ベージュ色のドアの前に立っていた。そこで、しばらくのあいだ熱い抱擁ほうようをしたまま立ちつくした。

呆然ぼうぜんとしていた경호は、미연が片腕を伸ばしてドアの鍵を回す音で我に返った。抱擁したまま二人とも足のかかとで靴をらかして、部屋へやに入った。暗い空間にドアの閉まる音が重々おもおもしく響いた。照明をつけることもなく、彼女はおもむろに彼を床に倒すとおおいかぶさり、物狂ものぐるおしく彼の体を求めた。경호の体もしだいにたかぶり熱くなっていった。

경호は미연の部屋で夜を明かした。次の日、彼は午後出勤のシフトだったので、朝九時ごろ彼女の部屋を出ると、ゆっくり西荻窪にあるアパートに戻った。水のシャワーを浴びて体のほてりをまそうとしたが、体のしんに昨夜の余韻よいんが残っていた。そのせいだろう、次の日も遅いシフト勤務が終わると、まっすぐ彼女の部屋に行き、以後毎晩のようにたずねた。ただ、そんな生活が一ヵ月ほど続くと、경호は自分のやっていることをつまらない、むなしいと思う感覚がばえているのを感じるようになった。そして、しだいにその感覚の生じる間隔が短くなっていった。朝夕の電車のなかで襲ってくる虚無感と同じ感官だった。

その感覚が生じると、彼女に振り回されている自分がひどくあわれに思われ、彼女にきらわれまいとしてふるまう自分をいとおしく思うのだった。彼女を嫌ったわけではないが、ときにわずらわしく感じることを止めようがなかった。さらに一ヵ月がち、また一ヵ月が過ぎたが、同じ感覚が現れては消えることの繰り返しだった。三ヵ月のあいだに、경호のなかで何かが肥大ひだいしていた。

それに気づいたのは、ある晩彼女のドアの前に一人の韓国人男性が立っているのを見かけたときだった。嫉妬しっとと呼ぶにはあまりにもさびしくかなしい感情だった。それに気づいたあと경호は急速に미연から離れた。あんなに互いを求め合った日々が幻覚だったかと思われるほど、きっぱりと断ち切った。彼女に対して怒る気持ちがまったくなかったとは言わないが、突き放してしまった。ほんとうは、彼女を嫌いになったわけではないのに、そう思い込んでしまった。なのに、その後경호は彼女と同棲どうせいすることになった。

미연との同棲

彼は自分の行動を次のように正当化した。一時いっときではあれあこがれていた韓国という国で生まれ育ち、三ヵ月とはいえ好きだったはずの女性と一緒に生活してみたかった。いや、離れたあとも好きだったのだ。彼女も好きだったに違いない。

二人が疎遠そえんになってから半年ほど経ったころ、スクールの終了後にクラス編成の件で、경호と미연が、定期試験の問題作成について打ち合わせることがあった。韓国語で話さなければならないこともあって、彼は気分が落ち込んでいたし、疎遠になってからすれ違っても何も言わない関係になった彼らは、しばらく黙っていた。はじめに口を開いたのは彼女のほうだった。何と唐突とうとつに「私たち同棲しない」と言うのだ。きつねにつままれたような表情をしていた경호に向かって미연は「なぜ返事しないの」と、たたみかけて来た。彼の頭のなかで 우리ウリ 같이カチ 살래요サルネヨ? という同棲を誘う韓国語がぐるぐる回っていた。彼女に迫られるとことわることのできない彼の弱点を握られていたのだ。

次の日から二人のためのアパートさがしが始まった。そして、次の週末には東京の郊外にあるアパートに決まった。終始、미연の意向が優先されたが、경호は被虐的ひぎゃくてきな快感を感じていたのだろう。二人の引っ越しは軽トラック一台をレンタカーして西荻窪から武蔵境へ行き、その後、荻窪と武蔵境を三往復して終わった。경호は所帯道具らしいものを持ち合わせなかったから、ほとんどの道具は彼女のものを使うことになった。それでも、食器やマグカップなど、いくつか新しいものを揃えた。

미연が同棲を提案した理由はいくつかあった。その最大のものは少し前から彼女を悩ましていた職場における他の講師陣との不和ふわだった。他人に弱味よわみにぎられることを毛嫌けぎらいする彼女の性格が孤立を深めたのだ。講師間の対立に薄々うすうす気づいていた경호は、彼女が自分から離れていった彼に助けを求めるほど弱っていることを知り、驚くとともに同情を禁じ得なかった。

同棲してしばらくつと、二人の関係はしだいに安定したものになった。週末には二人で自転車に乗って遠出をした。경호はもともと自転車好きでロードレーサーを持っていた。미연は彼に合わせて同じ型の自転車を買った。すべてのことについて歯車がうまくみ合うように思われたし、二人とも満ち足りていた。日本社会で孤立しがちだった二人ふたりが幸福感に包まれていた。ただ、それはまわりの社会と断絶だんぜつしていたがゆえの幸福感だったのである。

미연と경호の祖国

二人でいるときは、たいてい韓国語で話した。경호は韓国語のやり取りにれていなかったが、一ヵ月もたつと自然と韓国語で表現するようになった。自らの感情を韓国語表現に合わせるすべを身に着けた。미연も日本語を覚えるべきだと思うこともあったが、彼がそう言うといつも聞き流された。そんなとき、彼は自分に言い聞かせた。日本でも韓国でも、彼ら韓国語ネイティブはちやほやされ、誰かに表立おもてだって注意されたり批判されることはない。それが当然といわんばかりに、彼らは一種の優越意識を抱いている。その一員である彼女が僕の言うことを聞くはずはない。

日本と韓国が歴史的に儒教じゅきょう圏だといっても、日本は十九世紀後半から軍事経済力をうしだてせまって来た欧米を模倣もほうし、二十世紀に入るや韓国を植民地化した。ただ、十九世紀末から続けた侵略戦争の末に一九四五年八月からは米国に追随することを余儀よぎなくされた。一方、韓国は一九五〇年六月に勃発ぼっぱつした朝鮮戦争への米軍を主体とする国連軍の参戦さんせんにより、戦後における米軍基地の定着とともに、日本と同じく米国の文化植民地になった。

경호はそう解釈していた。いずれの国も欧米に対してどこか卑屈ひくつな気持ちを持っているが、韓国の場合はさらに複雑で二十世紀前半における日帝時代という問題があった。米国に対する劣等れっとう意識と呼んでもいいものが共通しているからこそ、日韓双方そうほうにはたがいにゆずろうとしない依怙地いこじさがあるとも考えた。

二人はいつも寄り添うようにして歩き、傍目はためには幸福そうに見えた。二人が韓国語で話すことを除けば、ほかの人たちとあまり変わりなかった。ふつうに笑い、冗談じょうだんも言いあった。ただ、彼らの家にはテレビがなかった。必要なかったからだ。日本社会のほかの人々はみなテレビを持っていた。それが人々の多くにとって共通の情報源であり話題を提供したが、彼らにはそれがなかった。とくに、경호はテレビをきらっていた。미연のほうは日本語をほとんど解さなかったから、そもそもテレビを見る意味がない。彼らには何の不自由もないし、困ることは何もなかった。

テレビがないため、食事の時間はほかの人々と比べ静かだった。職場が同じとはいえ、仕事の内容はまったく異なるし、接点は多くなかった。共通に接触する事務員との会話や仕事上の摩擦などが共通といえば共通だったぐらいだ。もっとも多く話題にがったのは경호と同じ事務員の日本人男性だった。本人は意識的にそうしているのではないが、人を笑わすのが上手だった。その仕種しぐさ一つひとつがみんなを笑わせてくれた。彼は日本人だったが、米国の生活が長かったせいか、少し日本人ばなれしていた。ビルと呼ばれていた彼とはほとんど毎日のように近くのレストランで食事をした。

でも、미연と同棲どうせいしていることは明かさなかった。周囲の視線がわずらわしくなると考えたからだ。ちなみに、職場の事務員で미연のことをよく言う人はいなかった。そんな彼女と경호が同棲していると知ったら、彼らは彼に対しては彼女の悪口を言わなくなるだろう。その分、陰で二人についてあれこれ言うだけだ。これまでさんざん彼女を悪くいう人々だったのだから。

彼女は三十歳だというのに独身だ。韓国語の教師なのに、お高く止まっていてツンケンしている。欲求不満のかたまりのようだ。どことなくかげがあって暗い印象を与える。もっと明るくふるまえないものか。きっと週末も一人で過ごしているに違いない。彼女がいつもと違って陽気ようきにふるまったりすると、どうしたんだろう、何かいいことがあったに違いない。何だろう、などなど。

경호はいつも黙って聞いているだけで、決して同調することはなかった。交際を始める前からそうだった。日本社会の一員になるためには、こういう話題に積極的に参加するほうがいいと思ってはいたが、できなかった。以前は言葉の問題もあると思っていたが、そうではない。彼自身の性格と関係しているようだった。周囲の人々と行動を共にすることを好まないというか、できないのだった。

だから、そうしようとすると、へんに興奮してはしゃいでしまい、みんなから浮いてしまう。あるいは、複数で行動していて、みんながり上がったころ、急にけ出したくなってめてしまうのだった。少年時代から、そういう少年だった。

미연と경호

二人は生活の基本的なリズムが異なっていた。勤務体制が異なるため、朝は경호が二時間ほど早く起き、一人でコーヒーとパンの朝食をすまして出かけた。미연は彼が出勤しようとするころに起き上がるのがふつうだった。低血圧症のせいか、朝起きるのがいつもつらかったのだ。

「경호、きょうはゴミの日じゃなかった」
「そうだ、急がなくちゃ」
何でいつも出がけ間際まぎわに言うのだろう、と思いながら、彼はいたばかりの靴をいで、ゴミ箱をひっくり返し、台所の片隅に置かれた生ゴミをまとめてビニール袋に入れた。彼女はゴミの分別ぶんべつということを理解しようとしなかったから、いつも경호がけながらゴミ袋に詰めるのだった。それを見ながら、彼女が言う。

「なんで分けなくちゃいけないの」
「そういう規則なんだ、いい加減かげん覚えてくれよ」
「韓国では分けなかったわ」
「ここは日本なんだ、韓国ではないだろう」

むなしい会話が周期的にわされた。はじめの一月ひとつきはずいぶんわずらわされたが、時間とともに聞き流すすべを身につけた。

一方で、미연のこの頑固がんこさに引かれるのだった。경호は日本の慣習にれ、大勢たいせい順応じゅんのうするすべをある程度身にけているが、彼女にはそれがない。それを何と呼ぼうと批判しようと自由なのだが、彼はその一徹さこそが미연の身に着けた文化なのだと考えた。自分がかつて持っていて、今は失ってしまったものを思い出させた。そんなときに感じる喪失そうしつ感となつかしさのぜになったものがあった。この思いは彼女に対する思いと区別がつかないほどの強さを持っていた。性愛より強く持続するじょうだった。

ただ、미연の性に対する執着しゅうちゃくにはなかなかれなかった。浴室のなかで求めるのはいつものことだったし、あるときは、キャンプ場でテントを張るやいなやおおいかぶさってきた。初めのうちは、以前付き合ったときと同じだと思ったが、一年を過ぎると、わずらわしさがまさるようになった。でも、そんな素振そぶりを見せることはできない。경호は彼女との関係を維持することをすべてに優先した。彼も日本社会で孤立することを恐れたからだ。この感覚は外国人意識によるものだったかもしれない。孤立感が台頭してくると、あの口上が聞こえてくる。

「こちらはハイジン教本部よりまいりました廃人改宗のための回収車です。ご家庭内でご不要になりました廃人、テレビ、エアコン、オーディオ、パソコンなど、大きなもの重たいもの、どんなものでも改宗いたします。機械的あるいは精神的にこわれていてもかまいません。何でもご相談ください」

その単調な繰り返しが頭のなかでグルグル回って何の思考もできなくなる。一度、思い切って、미연にこの口上の意味と彼の解釈を韓国語で説明したことがある。このとき、彼はいつになく深刻な表情をしていた。彼女の反応は意外なものだった。彼が半狂人になってしまったと思ったらしく、「かわいそうなジョンホ」「かわいそう」と繰り返し言いながら強く抱擁した。彼女はたいていのことは抱擁することで解決できないまでも忘れられると考えていた、というより信じ込んでいた。

朝早く一羽のはとがベランダの手すりに止まってく。경호に何かを訴えるようになく。首を締められるようなき声でなく。

グッ、クーグーッククー、クーグーッククー、クーグーッククー、グーックーククー、クーグーッククー、グーックーククー、クッ(間)グッ、クーグーッククー、クーグーッククー、クーグーッククー、グーックーククー、クーグーッククー、クーグーッククー、グーックーククー、クッ

四 경호の眷属たち

尊・卑属を含む家族における血縁、恋愛や性愛という性縁、友愛や友情という友縁、学校や塾における学縁、職場における職縁、親族における族縁、信仰を共にする信縁、趣味や選好を共にする好縁、近隣との地縁など、私たちはさまざまな社会的な人間関係のなかで育まれながら、それぞれがそのときどきにりどころとする濃い人間関係のなかに自分を置くことで安堵あんどしながら生きている。拠りどころは固定したものではなく、そのときどきの状況や立場によって変化しとどまることがない。

これらの人間関係は時代により異なるし、人々が相互に接続し接触する方法によっても大きく変化する。現代では、SNSを通じたネット縁関係を最も濃い関係と考える人々が多いことだろう。他方で、自らこのような社会的な人的関係を持たず、特定の人間関係を持たない孤立した人々が増加している。この傾向を持つ人々は若者に限らない、SNSも何もない高齢者にも少なくない。後者を絶縁関係と名づけようと思う。彼ら同士の接触はほとんどないため他の縁関係とは性格を異にするが、これら孤立した人々もまた社会の一部を構成している。あるいは、彼ら絶縁関係の人々の増加こそ無宗教社会の特徴のひとつかもしれない。

品川駅発の団体登山列車

一九六〇年から七〇年にかけて、경호は何度か「お山」に行っている。ここでいう「お山」は総本山を意味する。富士山のふもとにある日蓮正宗の総本山、大石寺に参詣する学会員たちの団体旅行のことだ。深夜の品川駅を出発する列車に乗るため、学会員たちが夜七時過ぎから、団体客用の待合い広場に続々集まってきた。경호のような年ごろはほとんどいない。おとなの男と女たちが、みなやや高揚こうようした感じで列を作っている。列車は当時の四人掛けボックスシートだった。指定席ではなかったから、どんな人と同じボックスになるか、席に着くまでわからない。경호にはどんな人と一緒になるかが最大の関心事だった。

品川駅の海側のホームに集まってきた学会員たちが醸し出す独特の熱気が漂っていた。경호も学校を休んで何度か参加したことがある。いつも知っている誰かに見られやしないか、遠くのホームから見えやしないか、不安におびえていた。列車が動きだし、品川駅のホームが後方に遠のいていくと、ようやく安心した。だが、경호はいつまでも眠れなかった。向かい側にすわった人の寝顔を観察したり、通路をはさんだ向こう側で真剣に本を読んでいる婦人の表情を凝視して時間が過ぎていくのを待っていた。暗がりに富士の裾野すそのに広がるパルプ工場の白や黄色の灯りが広がるころ、それら工場群が発する異臭が鼻をついた。列車の熱気のなかで吐き気が催してくるのを我慢しなければならなかった。

やがて富士宮の駅に午前三時か四時に到着すると、夜明け前の暗がりのなか、ヘッドライトで威嚇いかくするかのように団体バスが次から次へとやって来て学会員たちを拾っていった。東京だけではない、全国各地から老若男女が集まっていた。バスに揺られて三十分ぐらいで総本山に到着する。参道が近づくと、どこからともなく豚汁とんじるの香りが漂ってくる。バスを降りると、人々は大講堂や大客殿と呼ばれた建物に入っていく。そこで数時間待つあいだ、真摯しんしに題目を唱える人々の姿があった。外には読経どきょうの声が朗々ろうろうと響いていた。七百年以上一日も絶えることなく続いている丑寅うしとら(現在の午前二時から四時ごろ)の勤行ごんぎょうだと聞いた。

案内があると人々は立ち上がり、ようやく奉安殿ほうあんでんというあまり大きくない建物に移動する。人々の表情は列車やバスの車内で見られた表情とは打って変わり真剣そのものだ。蒲鉾かまぼこ型だったろう建物の奥に黒地に金文字の大曼荼羅まんだらが安置してあった。立錐りっすい余地よちがないような状態の人々が、号令一下いっか一斉いっせいにバタバタと音を立ててすわる。すぐ後ろの人の太腿ふとももの上に坐ることもあった。そんなことにおかまいなくみな黒地に金文字のご本尊に向かって勤行ごんぎょうし題目をあげる。全国から集まった数千人の善男善女ぜんなんぜんにょが一丸となって唱和する声が、まだ明けきらぬ富士山麓のんだ空に響いていく。

唱題がしばらく続き、しだいに全体の呼吸がそろい一塊ひとかたまりの大音声おんじょうになる。僧侶が数名入ってくるとその音声が大きさを増し、最後に猊下げいかが入場されるや一丸いちがんとなって最高潮さいこうちょうに達する。その高みのなかで法華経方便品ほうべんぼん壽量品じゅりょうぼん読経どきょうし、自我偈じがげを二度くり返す。경호はその高潮した一体感がたまらなく好きだった。

南無 妙 法 蓮華 経なむみょーほーれんげーきょー
남 묘 호 렌 게 쿄なむみょーほーれんげーきょー
南無 妙 法 蓮華 経なむみょーほーれんげーきょー
남 묘 호 렌 게 쿄なむみょーほーれんげーきょー
南無 妙 法 蓮華 経なむみょーほーれんげーきょー

力強いリズムの題目が奉安殿を包む。そこにいる人々がみな高揚こうようし興奮しきっているのが伝わってくる。信者にとって至福しふくのときであった。

묘호렌게쿄みょうほうれんげきょう 호벤폰ほうべんぼん 다이니だいに 
니지세손にじせそん 주산마이じゅうさんまい 안조니키あんじょうにき 
고샤리호쓰ごうしゃりほつ 쇼붓치에しょぶつちえ 
진진무료じんじんむりょう 고치에몬ごちえもん 
난게난뉴なんげなんにゅう 잇사이쇼몬いっさいしょうもん 
햐쿠시부쓰ひゃくしぶつ 쇼후노치しょふのうち 
쇼이샤가しょいしゃが 부쓰조신곤ぶつぞうしんごん 
햐쿠센만노쿠ひゃくせんまんおく 무슈쇼부쓰むしゅしょぶつ 
진교쇼부쓰じんぎょうしょぶつ 무료도호むりょうどうほう 
유묘쇼진ゆうみょうしょうじん 묘쇼후몬みょうしょうふもん 
조주진진じょうじゅじんじん 미조우호みぞうほう 
즈이기쇼세쓰ずいぎしょせつ 이슈난게いしゅなんげ……

妙法蓮華経方便品第二 
爾時世尊 従三昧 安詳而起 
告舎利弗 諸仏智慧 甚深無量 
其智慧門 難解難入 一切声聞 
辟支仏 所不能知 所以者何 
仏曾親近 百千万億 無数諸仏 
盡行諸仏 無量道法 勇猛精進 
名称普聞 成就甚深 未曾有法 
随宣所説 意趣難解…… 

경호と母の接近

釈迦は人が生老病死しょうろうびょうしのがれられないと説いた。そう学校で教えられた。人はみな、あたかも数直線の上を進むように年を重ねていくのだと習った。論語にある年齢に応じた生き方もそのようなものとして教えられた。母も父も年老としおいて行った。경호も老い、少しは智慧ちえもついたような気がした。いや、知識がふえたばかりで大して変わっていない。どこかでずっと堂々巡どうどうめぐりしているような気がするのだった。直線上を進んできたのではなく、巨大な球体の表面を行きつ戻りつしただけなのではないか。そんな気がした。

再婚した父の家

경호の父は茨城県つくば市に再婚相手の若い女性と二人で暮らしていた。경호は미연と別れてたあと半年ほど、その家で過ごした。미연との同棲生活は、彼女の弟が一緒に住むようになって三ヵ月後に破綻した。同時に、경호は職場を転じたが、その職場がつくば市にあり、父の家の空いている一室を使わせてもらうことにしたのだ。戸籍上は義母となった女性に関心を抱いていた彼にとっては好都合だった。幸い、父と義母は경호の寄宿を歓迎してくれた。

日本人女性と恋愛し結婚する。

경호の母、病に倒れる

경호が母をクルマに乗せて奥多摩から檜原を周った日の翌日、母が心筋梗塞で倒れた。少し山道を歩かせたのがいけなかったのだ。

경호の母、再び倒れる。このころから認知症を発症。

父の最期を看取みと

迫りくる母の死

경호の生き方

경호の生き方、自分の生き方を全面的に肯定できず、いつも現状に不満を感じ、何かを求めつづける。内面の不安を紛らすため、常に何か没頭できるものを追い求め、それに夢中になっているあいだは自分を肯定的にとらえられる。それに没頭できなくなると不安が頭をもたげ、不安定な状態におちいる。自分の生き方に自信を持てずに、いつも執行猶予しっこうしっこうゆうよのような状態に身を置いている。次から次へと女性を追い求めるのは没頭できる対象を求めてのことだ。少年のころの両親の激しい対立関係のなかでなが年月過ごしたことに原因を求めることもできようが、それだけではないだろう。

母方の祖父が朝鮮の出身であることから必然的に在日コリアンというラベル付けをまぬがれない경호。それからのがれようとしてもがいていることに耐えられない意気地なさが母に対する反抗になり、学会員を素直に認められない경호。これら二つの要因がからみあい、彼の生き方を曲がりくねったものにしているのだろう。それはある意味でおもしろいのだが、社会的には認められない。

世間的な見方からすれば、常に優柔不断で現在の地点に安住あんじゅうできない경호の生き方は価値のないものだろう。世間的な自信がないことを気づかれたくないために、いつも自分を全的に開放できない。どこかおどおどしたところのある負け犬の生き方と言われても仕方ないだろう。いや、だからこそ、いつか自分の思いを開放してやりたい。それが根っこのところで경호を支えている。百界論でいえば修羅界の畜生界か、畜生界の修羅界ぐらいのところだろう。「眷族」ならぬ「犬属けんぞく」だろう。犬神いぬがみさまのお通りだ、さがれさがれ。そんなえ声が聞こえてくるが、その声は誰にも届かない。「いぬがみさまのおとーおりー」

わきびとたち

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